◆1 望郷の念──帰りてえ……

文字数 1,340文字

 朱鷺は早起きして、ちゃぶ台に膳を調(ととの)えてやり、今朝は珍しく食欲もないので朝食もとらず、寝息を立てる我が亭主を尻目に散歩に出た。
 師走の空いっぱいに深呼吸をした。早朝の大気はひと際澄んでいる。
 ひと仕事終えた充実感に満たされていた。トキとコウスケとの縁を取り持ってやった。己が力で、“我が恋”の落とし前をつけたのだ。これほど痛快な話はどこを探してもないだろう。
 しかし、一つの疑問が湧いてくる。昨日、コウスケに制裁を加えながら自ら放った言葉が脳裏を掠める。
「運命は変えられねえ!」
 コウスケはお春ではなく、この自分を選んだ。
 ──結局、オラが経験したようにしか過去は流れてはいないではないか!
 だが、それは自分自ら運命を切り開いた結果だ。
 ──もし、なーんにも手を下さなかったのなら……?
 ──風船のようなアイツは恐らく……
 ──お春を選んだに違えねえやい!
 永遠に自分とは結ばれはしなかっただろう。
「運命は変えられねえ……」
 もう一度呟いてみる。
 ──果たして、この自分が運命を変えたのか?
 ──それとも、初めからそう仕組まれていたのか?
 ──もし、この時代に飛ばされなかったなら、結果は違っていたのか?
 考えれば考えるほど、思考は堂々巡りを辿る一方だ。
「ええい、しゃらくせー!」
 突然叫びながらかぶりを振り、思考を頭の奥から弾き飛ばした。
 ──なにはともあれ、この時代でやり残したことは最早ねえ!
 お春の運命が少々気がかりではあるが、あれほどの才女だ。この自分が決着をつけたように、己で何とか切り抜けるだろう。
 ──もう気に病んでも仕方あるまいよ!
 東の空を仰いだ。
 日が昇りかける。鷹鳥町の夜明けは近い。しばらくすると、顔を朝日が照らし始めた。その光景に晴れやかな気分になる。
「帰りてえ……」
 無意識のうちに口を()いて出た。「どうやって帰りゃええんだ?」
 目を閉じれば、瞼の裏に家族一人ひとりの顔がチラつく。
 手立てはトンと思い浮かばぬが、何とかなるはずだ。これまで通り己で何とかしてみせる、と自身を鼓舞する。
 急に北風が体の芯を貫く。
「そうだ、ヤツに世話になった礼でもしてやるか……」
 これから本格的な冬将軍の到来だ。あの隙間風の進入するぼろアパートで凍えるのもかわいそうではないか。
 ──その前になんとかしてやらねば、ウン!
 頭を捻る。
 しばらく考え続けたが、名案が閃くのは意外と早かった。指を鳴らし、音は出なかったので高笑いで代用する。
 心も満たされると、急に腹の虫が鳴き、食欲が湧いてきた。早速、藤野商店に寄り、店が開くのを待って、菓子パンと牛乳で腹ごしらえをし、トボトボとみどり公園へ向かった。

   *

 みどり公園に忍び込むと、銀杏(いちょう)の幹の陰から親子の様子をうかがった。母親が子供から目を離した隙を衝き、通路に躍り出るや、子供の首根っこを引っつかみ、そのまま猛スピードで逃走を謀った。背後から母親の悲痛な叫び声が追いかけてきたが、お構いなく走り去った。
 大胆にも、白昼堂々の誘拐劇は朱鷺の企て通り難なく成功した。その足でコウスケの待つアパートへと急ぐのだった。
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