◇22 婆さんはSM大好き!?──女なんて分からねえ! 春乃も……

文字数 4,060文字

 コウスケはいいにおいに誘われて目覚めた。7時かっきり。
 夕べは婆さんのイビキにも寝言にも悩まされることなく、不気味なほど平和な夜を過ごした。ぐっすり眠った。コウスケは首を捻る。
 婆さんは、ちゃぶ台の前で腕を組んで胡坐をかいていた。何やら考えごとの最中のようだ。怖ろしく静かだ。
 のっそりと床を抜け、婆さんの顔色をうかがいながら真向かいに座る。既に朝飯が用意されていた。おかずは卵焼きだけだが、それでもいつもより豪勢だ。瀬戸物茶碗ともう一つ碗が伏せて置かれている。
 ──とすると、味噌汁にもありつけるということか……
 婆さんは飯と味噌汁をよそって目の前に置いた。湯気が立ち上る。白米の甘い香が空腹を刺激して、虫けらが嬉し鳴く。
「ありがてえ」
「たんと食え。まだ、あっから……」
 コウスケはがっついた。ふと婆さんを見ると、普段の生気──いや、妖気と言うべきか──が漂ってこない。幾分落ち込んでいるようにコウスケの目に映った。
「どうした? バアさんらしくねえ。食わねえのか?」
「あんがとよ。オラのことは気にすんな……」
 大欠伸もろとも言葉は漏れ出た。
「寝てねえのか?」
「眠れねえのよ」
「図太い神経してるくせに、バアさんでも、そんなことが……」
 コウスケは、しまった、と心中で叫び心にもない言葉をかける。「今日一日ゆっくり休んでな」
「ほう、今朝はえれえ優しいでねえか。どういう魂胆だ?」
「な、ない!」
 平静を装う。「そ、そんなもん……ありゃしねえ……よ」
「そうかなあ……」
 婆さんは疑り深い目つきでコウスケの顔を覗き込んでくる。
 ──読心術か?
 ──手品師だからそんな芸当もお手のものだな。
 身震いしながらコウスケは飯を口に放り込んだ。優しくしても、どう(なだ)(すか)しても無駄な努力だろう。
 ──このバアさんに小細工は通用しねえ。
 ──おとなしくさせるのは無理だ。
 コウスケは悟った。
 ──怖ろしい婆さんだ!
 ──何処かに取扱説明書でも落ちてはいまいか?
 なんて詮無い期待を抱きつつ、手は勝手に箸を動かした。恐怖心も食欲には勝てぬと見える。
「今日はどうするんだ?」
 恐る恐る尋ねた。
「どうもしねえ」
「バアさんよ、なんか用事でもあんのか?」
「なーんもねえよ。今日ぐれえはおとなしくしてえ」
「そうか」
 コウスケの声は弾んだ。
「おめえ、嬉しそうだな」
「別に、普通だよ」
 つとめてすまし顔でコウスケはゆっくりかぶりを振って否定した。「──バアさんよ。オレに催眠術かけただろう?」
「なんだ、それ?」
「バアさんの顔に見えてしょうがねえ……」
「あの娘のことか、仕方ねえよ」
「サボテンもだ!」
「サボテン?」
「ああ」
「あのとげとげのヤツか?」
「そうだ。ほかにあるか?」
「オラに見えるだと、なしてだ?」
「似てねえこともねえし……」
「なんだと?」
「早く解いてくれよ。ビクついていけねえし……」
「なしてビクつくんだ? ええでねえか。オラ、ええオナゴだしよ」
「チェッ。いつの間にかけやがった? オレにも教えろ」
「オラ、なんもしてねえ」
「ウソつけ! バアさん、天功の師匠だろ?」
「テンコウ……誰だ?」
「とぼけやがって……手品師だろうが、脱出もやる」
「脱出?」
「バアさん、ホントに知らねえの?」
「知らねえ」
「いたるとこに爆弾仕かけて、一瞬で脱出すんのさ。自分は鎖でがんじがらめにしてカギかけて……」
「そんなもん、タネがあるだろうが」
「まあな、でも分からねえのさ」
「騙されてんだぞ」
「当たり前さ、向こうは、騙してなんぼだろうよ」
「ふーん」
「バアさん、手品師じゃねえの?」
「なして?」
「てめえだって消えたくせに、一瞬でよ」
「オラが消えた?」
「そうだよ」
「テンコウも消えるのか?」
「まあな。ホントに知らねえの? 引田天功」
「ヒキダテンコウ? どっかで聞いたような……」
「有名だぞ」
 婆さんは天井に目玉をギョロリと投げ上げた。
「ああ、あの引田天功か! 初代か?」
「初代? なん人もいるみてえ……」 
「そうだ、二代目は女だ。プリンセスだもの」
「女? 二代目? どこにいる?」
「まだいねえ」
「女にできるか」
「そんなことはねえ。立派なもんだ。アメリカでも有名なんだぞ。美人だし」
「えっ、美人! 見てみてえな」
 コウスケは身を乗り出した。美人と聞いてほぼ反射的に。が、婆さんの反応は冷たい。冷血動物そのもだ。そっぽを向いて腕を組み、首を何度も捻りに捻って、カメレオンに進化した。また考えごとを始めたようだ。
「なあ、おめえ……」
「なんだ?」
「エスエム、大好きだったよな……小説持ってっか?」
 コウスケは咳き込んで味噌汁を吹き出しそうになる。
「そ、そんな趣味、あるか!」
「そんなはずはねえ。断じてねえ!」
「ねえ、断じてねえ! そんな趣味」
「ウソつけ!」
「ウソじゃねえ!」
 コウスケは小声で尋ねた。「バアさん、好きなの? まあ、人の性癖や性的嗜好ってえのはそれぞれだしよ……尊重はしてやるよ」
「『いやあ、セカチンって本当に面白えですね。サヨナラ、サヨナラ、サヨウナラ』って別れ際はいつも評論家気取りで喋ってたくせに」
 婆さんはコウスケの声音を真似る。「『世界全部沈没』だ」
「あっ、エスエフね!」
「そう、エスエム」
「違う、エスエフ」
「エスエム?」
「エスエム」
「さっきからそう言ってるでねえか」
「エスエム、エスエ……フ?」
 コウスケは首を捻る。
「なんでもええから持ってこい!」
「『セカチン』?」
「エスエム全部だ!」
 コウスケは箸を置き「ごちそうさん」と呟くと、押入から数冊引っ張り出して婆さんの横に積み上げた。
「はいよ」
 婆さんは一冊ずつ手に取ってはタイトルを確かめる。
「『時間機械──HG・ウエルカム』、『時空をかけめぐる乙女』……どんな話だ?」
 コウスケはかいつまんでストーリーを話して聞かせた。
 婆さんは納得して二冊を両天秤にかけ、結局、『セカチン』と同一作家の作品を手に残した。
「これ借りるぞ」
「ああ、いいよ持ってけ」
 コウスケが見守る中、婆さんは貪るように読み始めた。こちらが声をかけても返答しない。
 コウスケはしめしめと靴を履いて、
「行ってきます」
 と声をかけてみる。やはり返事はない。静かにドアを開け、そっと閉めると急いで階段を下りた。 
 ──今日は何事もありませんように!
 心の中で祈って仕事場へと向かった。

   *

 もう昼近かった。
 今日はあんパンと牛乳でも買って済ませようと思った。腹はさっきから、唸り声ばかり上げていたが、どうしても、あのレストランには足は向かない。ちゃんとした食事がとれるのはあの娘が働くサンクチュアリ以外には駅前しかない。駅までは往復一時間近くかかる。バイクは置いてきたし、徒歩以外の足はない。
 コウスケは昼休みになると、藤野商店に走った。あんパンとメロンパンと牛乳を買って、事務所に入るまで道々平らげ、牛乳瓶を事務所のゴミ箱へ放った。ガチャン、とほかのゴミとぶつかり合う音がして割れたかとゴミ箱を覗く。だが、無事に仲よく他のゴミに紛れていた。ふと、顔を上げた時、誰かがこちらに歩いてくるのが見えた。
 ハッとした。
 コウスケの姿を認めたらしく、こちらに手を振っている。コウスケも窓越しにぎこちなく手を振り返した。
 春乃は事務所に入ると、包みを差し出した。白布で丁寧に包まれている。コウスケが目を瞬いてどうしたものか迷っていると、笑いながらコウスケの手を取って包みを掌に乗せた。ズシリと重みが掌から腕のつけ根へと伝わってくる。鈍感な自分とて中身が何かぐらい察しはつく。
「口に合うか分からないけど、よかったら食べてね」
 春乃は依然微笑んでいる。頬がほんのり赤みをさした。
「あ、あのお……」
「迷惑だったら、そう言って」
 肩を竦めて舌を出して見せた。「さっきまでどうしようか迷ったんだけど……フフフ、きちゃった」
「わ、悪いよ……」
「いいの、気にしないで」
 春乃は首を横に振る。手を後ろに組んで「じゃあ……」とはにかんだ表情を見せながら踵を返した。外に出ると、一旦振り向いて手を振ったあと、クルリと身を翻し小走りに去って行った。
 コウスケは折り畳み椅子を傍に寄せて座り、机の上に包みを置くと、しばらく睨めっこを決め込んだ。
 ──どうもよく分からない?
 ──あんな表情を見せる女が本当に性悪なのか?
 こないだのサンクチュアリでの春乃の姿とどうしても合致しない。顔を正面の窓に向け、春乃が去った軌跡を目で追いかけた。
「女なんて分からねえ! どうすりゃいいんだ……」
 机の上に頭を抱え込む。
「おお、カゴノ。交代、いいか?」
 咄嗟に顔を上げる。立ち上がりながら彼の方に向き直った。
「ああ、先輩、いいっすよ。オレ、もう終わったから……」
「じゃあ、あと頼むな」
「はい」
 腕時計を覗くと既に一時をすぎている。
 クラクションが鳴った。振り向いて窓越しに見やる。給油待ちの乗用車が停まっている。コウスケは事務所を飛び出ると、仕事に精を出す。今は、何も考えず仕事に勤しむほかはないと思った。
 春乃に見切りをつけたいと思いつつも、それ以上に慕う気持ちは募る一方だった。コウスケは激しくかぶりを振ると、両手で何度か軽く頬をはたいて、脳裏から春乃の面影を振り払おうとした。代わりに瞼に浮かんだのはあの娘の笑顔だった。が、すぐにそれは妖怪へと変貌を遂げた。婆さんの顔と重なってしまう。咄嗟に後ろを振り向いた。誰もいない。ホッと胸を撫で下ろす。だが、いつまたあの化け物が襲ってくるか分からない。いつ何時も危機に備え万全の態勢を整えねば、と神経を研ぎ澄ますのだった。
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