◇10 鬼婆出現──食われる!

文字数 4,586文字

 戸口へ向かう婆さんの背中を見送って、早速、手渡された指輪の箱の蓋を開けて中を確認しようと目の高さまで持ち上げた。瞬きを二、三回繰り返し手を下ろす。しばらく考え込んだ。もう一度持ち上げてみる。
 剥き出しの歯がこっちを見ている。
「ギャーッ!」
 コウスケは悲鳴を上げて思わず放り投げると、ツナギの尻で手を拭いた。「間違えやがって。オイ、バアさんよ!」
 婆さんの後姿に視線を移した時、何処からともなく九官鳥が舞い込んできて婆さんの頭のテッペンにとまってホーホケキョと泣いた途端、また目の前を閃光が走った。目が眩んで咄嗟に手をかざす。
 もう一度婆さんを見た。婆さんの姿はどこにもない。九官鳥ともども消えていた。一瞬の出来事だった。この小屋の中まで差し込んでいた眩い光も消えた。仄暗いランプの明かりだけが辺りを照らしているにすぎなかった。代わりに白い(もや)が立ち込め、ランプの影が宙で揺らめく。
 丸椅子の上のランプを手に取り、辺りを照らしながら戸口に向かった。婆さんを呼び止めようと外の様子をうかがい唖然とした。もうすっかり日は暮れたはずなのに、太陽は西の空に赤々と燃えていた。呆然とその場に立ち尽くし、身動きできない。
 背後でガサッという音がして我に返ると、ランプをそちらの方へかざしてみる。今、丁度婆さんが消えた辺りに何かがあった。歩み寄り、目を凝らした。ランプの明かりにぼんやりと人影が浮かんだ。誰かが床に横たわっている。
 ──バアさんか?
 人型に添って足元からゆっくりランプの光を這わせながら全身を確認してみた。
 ──バアさんではなさそうだ。
 しゃがんで顔の辺りを照らす。ハッとして尻餅をついた。
 ──トキだ!
 ──トキが倒れている!
 咄嗟にランプを床に置き、その体を優しく抱き起こした。
「ダメよ、ダメ……」
 トキはうわごとで必死に何か訴えかける。
「ど、どうした! トキちゃん!」
 トキの頬を優しくはたいて起こそうとした。「しっかりしてー!」
 トキはコウスケの腕の中でゆっくりと瞼を開いた。目覚めたトキは、いっとき辺りをうかがってから、ようやくコウスケに気づいた。
「あらっ、どうしたの? 私、よく眠ったわ。夢見てたみたい……変な夢……」
「どんな夢?」
「あのね、凄く派手なモンペ……ピンク色のモンペ……おバアさんなの……おバアさんが……」
 トキはしばらく一点を見つめたままうわごとのように繰り返した。「おバアさんが……」
 そして(せき)を切ったようにトキの瞳から大粒の涙が次々と零れ落ちた。トキは激しく泣きじゃくった。
「な、なにが……そんなに……悲しいの?」
 嗚咽するトキを抱いたままコウスケは途方に暮れる。
「だって、首吊ってたのよ、おバアさん……ピンクのモンペ……痩せのトカゲの刺繍……」
 トキはしゃくり上げる。「なんで、なんでかしら……? 私、なんでこんなに悲しいのかしら? おジイさんが……死んじゃったのよ。コウスケさんが……コウスケさんが……死んじゃイヤよ……お願いだから死なないで、ずっと傍にいて……コウスケさん」
「オレはトキちゃんの傍にずっといるよ……」
「ホント! うれしい」
 コウスケの言葉に安心したのか、トキは幾分落ち着きを取り戻しつつある。
 コウスケは首を傾げながら小屋の天井を仰いだ。
 ──ピンクのモンペ……
 ──おバアさん……
 ──首吊り……
 ──痩せのトカゲの刺繍?
 連想して整理してみる。
 ──痩せのトカゲの刺繍のついたピンク色のモンペを穿()いたおバアさんが首吊り……?
 ──首吊った……ということは……
 ──死んだ? 
 ──誰が?
 ──バアさんが…… 
 ──バアさんは首吊って……
 ──死んだ!
 コウスケは俯くとブルブルと震え出した。
 ──あのバアさんの正体は……
 ──死人!
 目の前にトキの顔が迫った。
「化け物!」
 トキに向かって叫んだ。トキはしばらくコウスケを見つめたまま目を瞬く。
「イヤッ! 私、化け物じゃない、ヒドイ!」
 トキは手で顔を覆って、尚一層声を上げて泣きじゃくり始めた。 
「い、いや、トキちゃんのことじゃ……」
 トキの顔を覗き込んだ。そしたら、一瞬その愛らしい顔が婆さんの顔に映った。「ウワアーッ! 化け物!」
 トキは泣くのをやめ、二人は見つめ合った。いっときしてまた、トキは肩をヒクヒクとさせる。
「ヒドイ! 私のことそんな風に……?」
 トキは涙を手の甲で拭いながら泣き続けた。「オラ、化け物でねえ!」
 背筋に悪寒が走る。今、婆さんの声が聞こえた。
 ふと、トキから視線を逸らし床を見た途端、思わずのけ反った。視線の先に入れ歯が上下綺麗に噛み合わさってこっちを見ていたのだ。婆さんの顔が笑ったような気がした。
「オレの指輪……戻ってくるだろうか? いつか取り返してトキちゃんの指にはめてやるからね……」
 コウスケは依然泣きじゃくるトキに囁いた。「オレの指輪……」

   *
 
 誰かが自分を呼んでいる。聞き覚えのある声だ。声を聞いているうちに背筋が凍りついてくる。たった今、フワフワと宙を漂いながら、これほどまでに心穏やかに満たされたことはなかったというのに。声は下界から放たれる。
 ──地獄の釜の蓋でも開いたのか?
 体は声に引きずられるように奈落に急降下を始めた。
 ──怖ろしい!
「おーい……おーい……」
 声を振り絞って助けを呼んでみても声は出ない。両手両足をバタつかせ宙をかき、上へ上へと泳いで必死に抵抗を試みた。だが、間もなくそれも虚しい試みだと悟ると、止む無く為されるがまま声に身を委ねた。すると体は突然軟らかいものの上に押しつけられた。
 ──全身が重たい。
 手を動かそうにもうまく持ち上げられない。
 ──胸が苦しい。
 まるで胸に重しでも載っているかのようで息苦しかった。まだ声は聞こえる。パッと目を見開いた。白い平たいものが目に映った。天井だった。ぼんやりと視界に映るものを一つひとつ確認してみる。
「ウワアッ!」
 目の前に化け物が立ちはだかった。口をパクパクさせている。
 ──食われる!!
 と思った。
「おジイさん! おジイさん!」
 鬼婆の声が耳をつんざいた。
「だ……誰だ!」
 大声で叫んだつもりだったが、鬼婆の前では囁くのが精一杯だった。妖術にでもかけられたのかもしれない。
「おジイさん! ああ、よかった!」
 恐る恐る鬼婆の様子をうかがう。どこか見覚えのある顔だった。目を瞬きながら頭を整理して、記憶に眠る顔と目前の鬼婆の顔とを照合してみる。だが、どうしても符合しない。
「あんた……ダレ?」
「おジイさん! あたしですよ、忘れたんですか?」
 しばらくじっとその顔を見つめた。婆さんだった。婆さんが顔を覗き込んでいた。 
「いたのか……」
「ずっと傍にいますよ」
「夢……見てた……」
 余りにも息苦しくて喘いだ。今、初めて自分がベッドに寝ていることに気づいた。
「どんな夢です?」
「若え頃の……」
 息も絶え絶えに語り始める。「なーに……おめえと……出会った……頃の……」
「そうですか……どうでしたか、あたし綺麗でしたか?」
「チェッ、忘れた……」
「ヒドイ、忘れたなんて……」
 婆さんは微笑んだ。
「どこだ、ここ?」
 見知らぬ部屋を見渡してみる。
「病院ですよ。おジイさん、倒れて運ばれたんですよ」
「とうとう……」
 いっとき考え込んでからボソッと呟いた。「お迎えか……」
「そんな! 気弱なことを……大丈夫ですよ!」
「だってよ……目、覚めたら……鬼婆が……」
 婆さんをまじまじと見る。「てっきり……お迎えかとよ……」
「そんな、鬼婆だなんて、あたしは観音様のように慈悲深いんですがねえ……そんな口を利く元気があるんだもの、もう大丈夫ですよ」
「いんや……ダメだ。もういけねえ……」
「そんなこと!」
 婆さんの顔色が急に曇った。よく見ると婆さんの口元が何かおかしい。
「おい、入れ歯……どうした?」
「入れ歯?」
「どこ……置いてきた?」
 婆さんは口をモグモグさせる。
「あれま、ホントだ! なんか忘れたと思ったら……ええっと……?」
 婆さんはモンペのポケットをまさぐり始めた。腰を浮かべながら両手を突っ込み、手を引き抜いた時、右手に何か青い箱を握っていた。それを己の目線にかざす。
「なんだ? 貸してみろ」
 手を伸ばし、婆さんの手からもぎ取って蓋を開けると、目を見張った。徐に中身を摘まんで取り出した。「手、出せ!」
「なんです?」
「早くしねえか! 間に合わねえ……」
 婆さんは遠慮がちにそっと左手を差し出した。早速、武骨な指先で薬指にはめてやった。
「おジイさん、あたし……」
「なにも言うな!」
 咄嗟に婆さんの言葉を遮った。怖ろしい話は最早聞く耳はない。   
 ──指輪はたった今、おさまるべきところにおさまったんだ。
 ──それでいいじゃねえか!
 長年の気がかりを払い除けることができ、ようやく肩の荷が下りた。今は安らかな気分だ。
「でも……」
「黙れ! そそっかしいヤツだ……」
 ──70年だぞ!
 ──70年かけて約束を果たしたんだ!
 叫びたい衝動を堪えて、だんまりを決め込んだ。
 しばらく二人は黙って見つめ合った。
「おジイさん、ありがとう……」
 婆さんの声が、柄にもないしおらしい声が耳をくすぐった。思わず婆さんの左手を取って優しく撫でてやった。
「似合うぜ」
 見つめ合ったまま微笑んでやる。「おめえ、不自由だろ? 入れ歯ねえと……」
「大丈夫ですよ」
「仏壇の引き出し開けてみろ」
「なんです?」
「いいから、オレが死んだら開けてみろ。いいな」
「なに言うんです! おジイさんは……まだ……」
 婆さんは今にも泣き出しそうな顔で声を詰まらせた。
「もう十分だ」
「イヤです!」
「言うこと聞け! あと追うなんて……首吊るなんて……許さねえ!」
「あとを……首を……?」
「そうじゃねえか……」
 言いかけて途中で言葉を切った。
「なんです?」
「なんでもねえ……もう帰れ」
「ずっといます!」
「そういう……わけにゃ……」
「どうして……?」
「鉢合わせしたら……うんにゃ、なんでもねえ。とにかく帰れ! オレは大丈夫だ……」
「でも……」
「オレは寝る。帰ったら……仏壇の……引き出し……開けろ……」
 意識は突然遠退いてゆく。ふと、天井を見ると、懐かしい面々が雁首そろえて手招きしている。「お迎えか……」
「おジイさん、おジイさん! ダメです、まだダメです! おジイさん……」
 婆さんの声が徐々に遠くの方から聞こえてくる。息を胸いっぱい吸い込んだ。最後の力を振り絞る。
「ああ、面白かったぜ……アバヨ!」
 眩いばかりの光に包まれた。目が眩むような温かい光だ。身も心もえもいわれぬ心地よさに満たされていた。光は天にポッカリと穴を開け、輝き続ける。いつしか体は軽くなりフワフワと光に向かって昇り始めた。
 穏やかな気持ちで、どこまでも自由な世界へと、コウスケは旅立って行くのだった。
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