◆3 南国の温もり──アレが消えた! アレが……。恥ずかしかぁー!
文字数 2,602文字
いくら考えても名案が浮かばない。そんなときは散歩に限る。
向かいのアパートの浪人生が住む部屋のドアを叩いても応答はなかった。浪人生は夕方か夜まで帰らないとコウスケは言っていた。仕方なく帰宅するまで街なかを歩きながら、元の時代へ帰る手段を自分なりに見つけてみようと考えた。
朝日が朱鷺の顔を照らして眩しい。手を日にかざして俯き加減で大通りを歩いていたら駅へ急ぐサラリーマンや学生らとすれ違った。ふと立ち止まり腰に手を当て、最後にすれ違った女子高生の後姿をしばらく見送っていた。太陽を背にして彼女は駅へ直進する。
──なーんかが変だ?
直感的にそう思った。何かは分からない。だが己がケダモノ的直感は常人にははかりしれない、と自身も自負している。その何かとんでもない異変を探らねばなるまい。そう思うより先に既に身体が反応していた。朝のラッシュ時の交通量の激しい通りの向こう側の歩道まで、絶妙に車両をかわしながら最短距離を全速力で突っ切り、そのまま50メートルほど先の交番へ飛び込むと船村巡査の名を呼んだ。
「あっ、船村は今日は非番ですが……」
愛想のいい少々小太り気味の好青年が笑顔で応対してくれた。椅子から立ってゆったりとした動作でこちらに歩み寄る。
「あんたは?」
「はい、船村の後輩で南国渡です」
全体的に丸みを帯びた恰幅のいい子豚ちゃんが、若々しくきびきびした動きで敬礼をした。
──20歳前後だろうか……?
見た目はまだ幼さが残る童顔だが、落ち着き払った物腰は随分と大人の男をにおわせた。どこか愛敬のある目鼻立ちは人を和ませる。濃い眉の下で垂れた目尻の、腫れぼったい瞼の裏から、申しわけなさそうに細い隙間を縫って優しい眼差しが、こちらを覗いている。広い額によく座った団子鼻と大きな福耳を持つ巡査は、制服姿も初々しく何とも可愛らしい、と朱鷺の目には映った。と同時に出世の相を持つ男だとも思った。背丈は五尺少々といったところだ。
「ミナミグニワタル、さん……そうですかね、いや、ご苦労さんです」
朱鷺も敬礼で応える。
「皆からはナンゴクさんなんて呼ばれてます。船村のお知り合いですね。ご用件は? 私でよければ承りますが……」
「そうですか、なんと親切じゃろう。あんた、凛々しい人ですなあ」
「ありがとうございます」
南国は笑顔でもう一度敬礼をした。
「ナンゴクさん、ちょっくら聞きますがね……」
「なんなりと」
「オラを見て、なーんか気づきませんかね?」
「はあ……?」
南国は首を傾げる。
「どこも変わったとこは、ありゃせんじゃろうか?」
「いいえ、私には……? ハデな色のモンペ以外は……」
「そうですか、どこかが変なんじゃが?」
「気のせいですよ。よくあります」
「気のせい、ねえ……」
朱鷺は腕組みをして何度も首を捻る。
「そうですよ。こんないい天気ですよ。気持ちいいじゃないですか。おバアちゃんも深呼吸しましょう。気分も晴れますよ」
南国は交番の外へ出ると背伸びをしながら深呼吸を繰り返した。
朱鷺も南国の横で、息を吸い込み胸を張り天を仰ぐと、俯きながらゆっくりと肺の中の二酸化炭素を全て吐き捨てた。と、右側に立った南国の影が朱鷺の足元に落ちていた。朱鷺は自分の回りを見渡した。
「ありゃ!」
いくら探してもない。
──どういうこった!
と、もう一度南国の影を見る。
「どうされましたか?」
「影が……」
朱鷺は呟きながら目を見張った。
「えっ、なんです?」
南国は聞き返す。朱鷺の声が聞こえなかったらしい。
「い、いえ、なんでも……」
「青空の下を散歩でもすれば気分もきっと晴れますよ」
南国は相変わらず前向きだ。明るい表情でこちらをうかがう。
南国の表情を見るにつけ、こちらも不思議と明るい気持ちになる。
「あんたの言う通りだ。気にしてもどうにもなんねえよな」
──それもそうだ。
──今更くよくよしたって始まらねえ。
朱鷺も前向きに考えることにした。
それにしてもこんな人のいい若者がこの街にいたとは。朱鷺の記憶に南国巡査は存在していない。このあとどんな人生を辿るかは全く知らないが、
──なにか喜ぶようなことでも言ってやらねばなるめえ!
と、南国の顔を覗き込んだ。
「あのう、なんか顔についてますか?」
南国は笑いながら顎を撫でた。
「あんた出世するよ。もうすぐデカになる」
「ええっ! 私がですか? まさか。考えたこともありませんよ。生涯、一巡査、交番勤務で満足ですから」
「あんたの顔見とれば分かります」
「出世ですか……大変そうだ。私はこの街の人とずっとかかわっていたいだけだけど……」
「いえいえ、トントン拍子に。二階級はすぐに上り詰めますから」
「えっ、それって特進……殉職って意味じゃ……?」
「めっそうもねえ。そんなうまい手使わねえでも、あんたは実力で出世します。オラが太鼓判押します」
「買い被りですよ」
南国は笑って取り合わない。
自分の言うことを信じない南国に、朱鷺は少しばかり苛立ち始めた。
──なんとかやり込めてやるぞ!
と意地になる。
「オラの予言は外れたこたねえ!」
「お世辞でも嬉しいです。ありがとうございます、おバアちゃん。ま、そういうことにしときましょう」
南国は高笑いで切り抜けた。
──欲のねえ阿呆か大人 のどちらかだ……
──まだ若僧だからか?
──この人にはこれ以上言ってもしようがねえ。
と朱鷺も諦めた。帰ったらこの人の人生を辿ってみようと決心して南国に踵を返した。
「オラ、世辞は言わねえよ。そんじゃ、ま、失礼しますよ」
朱鷺は交番の前を離れ、今一度振り返って敬礼する。南国も短い腕をぎこちなく持ち上げ敬礼を返してくれる。一度入れ歯を引ん剥いて微笑んで、南国に踵を返すと、巣籠もり線を駅の方角へと進む。
「おバアちゃん。いつでもきてくださーい。話し相手ぐらいにはなれますから」
背中に南国の温もりと朝日を浴びながらコウスケのアパートを目指した。
「それにしても、どういうこった、影がねえとは……? オラ、死んだんじゃねえよな? ええい、めんどくせー! あの人に聞いてみればええや」
朱鷺は俯いて前方に現れるはずの影の幻を眺めながら歩いて行った。
向かいのアパートの浪人生が住む部屋のドアを叩いても応答はなかった。浪人生は夕方か夜まで帰らないとコウスケは言っていた。仕方なく帰宅するまで街なかを歩きながら、元の時代へ帰る手段を自分なりに見つけてみようと考えた。
朝日が朱鷺の顔を照らして眩しい。手を日にかざして俯き加減で大通りを歩いていたら駅へ急ぐサラリーマンや学生らとすれ違った。ふと立ち止まり腰に手を当て、最後にすれ違った女子高生の後姿をしばらく見送っていた。太陽を背にして彼女は駅へ直進する。
──なーんかが変だ?
直感的にそう思った。何かは分からない。だが己がケダモノ的直感は常人にははかりしれない、と自身も自負している。その何かとんでもない異変を探らねばなるまい。そう思うより先に既に身体が反応していた。朝のラッシュ時の交通量の激しい通りの向こう側の歩道まで、絶妙に車両をかわしながら最短距離を全速力で突っ切り、そのまま50メートルほど先の交番へ飛び込むと船村巡査の名を呼んだ。
「あっ、船村は今日は非番ですが……」
愛想のいい少々小太り気味の好青年が笑顔で応対してくれた。椅子から立ってゆったりとした動作でこちらに歩み寄る。
「あんたは?」
「はい、船村の後輩で南国渡です」
全体的に丸みを帯びた恰幅のいい子豚ちゃんが、若々しくきびきびした動きで敬礼をした。
──20歳前後だろうか……?
見た目はまだ幼さが残る童顔だが、落ち着き払った物腰は随分と大人の男をにおわせた。どこか愛敬のある目鼻立ちは人を和ませる。濃い眉の下で垂れた目尻の、腫れぼったい瞼の裏から、申しわけなさそうに細い隙間を縫って優しい眼差しが、こちらを覗いている。広い額によく座った団子鼻と大きな福耳を持つ巡査は、制服姿も初々しく何とも可愛らしい、と朱鷺の目には映った。と同時に出世の相を持つ男だとも思った。背丈は五尺少々といったところだ。
「ミナミグニワタル、さん……そうですかね、いや、ご苦労さんです」
朱鷺も敬礼で応える。
「皆からはナンゴクさんなんて呼ばれてます。船村のお知り合いですね。ご用件は? 私でよければ承りますが……」
「そうですか、なんと親切じゃろう。あんた、凛々しい人ですなあ」
「ありがとうございます」
南国は笑顔でもう一度敬礼をした。
「ナンゴクさん、ちょっくら聞きますがね……」
「なんなりと」
「オラを見て、なーんか気づきませんかね?」
「はあ……?」
南国は首を傾げる。
「どこも変わったとこは、ありゃせんじゃろうか?」
「いいえ、私には……? ハデな色のモンペ以外は……」
「そうですか、どこかが変なんじゃが?」
「気のせいですよ。よくあります」
「気のせい、ねえ……」
朱鷺は腕組みをして何度も首を捻る。
「そうですよ。こんないい天気ですよ。気持ちいいじゃないですか。おバアちゃんも深呼吸しましょう。気分も晴れますよ」
南国は交番の外へ出ると背伸びをしながら深呼吸を繰り返した。
朱鷺も南国の横で、息を吸い込み胸を張り天を仰ぐと、俯きながらゆっくりと肺の中の二酸化炭素を全て吐き捨てた。と、右側に立った南国の影が朱鷺の足元に落ちていた。朱鷺は自分の回りを見渡した。
「ありゃ!」
いくら探してもない。
──どういうこった!
と、もう一度南国の影を見る。
「どうされましたか?」
「影が……」
朱鷺は呟きながら目を見張った。
「えっ、なんです?」
南国は聞き返す。朱鷺の声が聞こえなかったらしい。
「い、いえ、なんでも……」
「青空の下を散歩でもすれば気分もきっと晴れますよ」
南国は相変わらず前向きだ。明るい表情でこちらをうかがう。
南国の表情を見るにつけ、こちらも不思議と明るい気持ちになる。
「あんたの言う通りだ。気にしてもどうにもなんねえよな」
──それもそうだ。
──今更くよくよしたって始まらねえ。
朱鷺も前向きに考えることにした。
それにしてもこんな人のいい若者がこの街にいたとは。朱鷺の記憶に南国巡査は存在していない。このあとどんな人生を辿るかは全く知らないが、
──なにか喜ぶようなことでも言ってやらねばなるめえ!
と、南国の顔を覗き込んだ。
「あのう、なんか顔についてますか?」
南国は笑いながら顎を撫でた。
「あんた出世するよ。もうすぐデカになる」
「ええっ! 私がですか? まさか。考えたこともありませんよ。生涯、一巡査、交番勤務で満足ですから」
「あんたの顔見とれば分かります」
「出世ですか……大変そうだ。私はこの街の人とずっとかかわっていたいだけだけど……」
「いえいえ、トントン拍子に。二階級はすぐに上り詰めますから」
「えっ、それって特進……殉職って意味じゃ……?」
「めっそうもねえ。そんなうまい手使わねえでも、あんたは実力で出世します。オラが太鼓判押します」
「買い被りですよ」
南国は笑って取り合わない。
自分の言うことを信じない南国に、朱鷺は少しばかり苛立ち始めた。
──なんとかやり込めてやるぞ!
と意地になる。
「オラの予言は外れたこたねえ!」
「お世辞でも嬉しいです。ありがとうございます、おバアちゃん。ま、そういうことにしときましょう」
南国は高笑いで切り抜けた。
──欲のねえ阿呆か
──まだ若僧だからか?
──この人にはこれ以上言ってもしようがねえ。
と朱鷺も諦めた。帰ったらこの人の人生を辿ってみようと決心して南国に踵を返した。
「オラ、世辞は言わねえよ。そんじゃ、ま、失礼しますよ」
朱鷺は交番の前を離れ、今一度振り返って敬礼する。南国も短い腕をぎこちなく持ち上げ敬礼を返してくれる。一度入れ歯を引ん剥いて微笑んで、南国に踵を返すと、巣籠もり線を駅の方角へと進む。
「おバアちゃん。いつでもきてくださーい。話し相手ぐらいにはなれますから」
背中に南国の温もりと朝日を浴びながらコウスケのアパートを目指した。
「それにしても、どういうこった、影がねえとは……? オラ、死んだんじゃねえよな? ええい、めんどくせー! あの人に聞いてみればええや」
朱鷺は俯いて前方に現れるはずの影の幻を眺めながら歩いて行った。