◆9 痛快な夢の跡──爺さんが生き返った!?

文字数 1,834文字

 朱鷺はウトウト居眠りをしていた。
 いい具合の夢心地で前後に体が揺れて心穏やかな、えもいわれぬ爽快な気分だ。目を開けてもまだ夢を見ていた。若い時分の爺さんと自分の仲を取り持って、めでたく二人が結ばれるだろうところまでこぎつけた。己が人生を自らの力で切り開いた。何とも痛快な夢だった。思わず笑った。少し声を出して笑っていた。
 ──面白い夢はもう終わったのか?
 またあの日、あの瞬間を体験したくて目を閉じる。静かにゆっくりと呼吸をしながら再び夢の世界へ戻ろうとした。だが、どうしても戻ることができない。眠ろう眠ろうとすればするほど、却って神経が(たかぶ)り目は冴えてしまう。体はこんなにも疲れ果て、全身がだるくてだるくてしようがないというのに。仕方なくゆっくりと目を開けた。ぼんやりとしか見えなかったが、すぐに焦点は定まった。
 最初に目に飛び込んできたものは、壁だ。真白な壁だった。白は壁だけではない。どこもかしこも白で統一された部屋に座っていた。自宅の居間でも台所でもなかった。背もたれのない丸椅子のようである。家の硬い木製のものとは違い、クッションが軟らかく座り心地は悪くはなかった。ゆっくりと顔を上げる。見知らぬ室内を一通り見渡す。正面は白い壁、右側は白いカーテンで仕切られていた。背後にも同じカーテンがかかっている。左を向くと窓から朝日が差し込んでいた。耳を澄ますと表で小鳥のさえずりが聞こえる。それに混じって鶯も鳴いていた。
 ──ん?
 ──違う!
 ──あれは、九太郎の声だ!
 ──籠の中の九太郎が、なして外にいる?
 ──とうとう籠野家を……よし子の元を逃げ出したのか?
 正面に視線を戻す。何かの装置が置いてある。目線を少しだけ下げると白い布が見える。また正面を見た時、どこからか白い布の元へ管が延びているのに気づいた。今度は目の前の白布に沿って左右に視線を滑らせてみると、白布がこんもりと盛り上がり、真ん中辺りが周期的に波打っている。顔を窓の方に向けてみると、誰かが白い布に(くる)まって寝ていた。
 朱鷺はハッとした。咄嗟に椅子から立ってその顔を覗き込む。
 ──ジイさんだ!
 爺さんの口に酸素マスクがつけられていた。恐る恐る爺さんの額にそっと触れてみる。
「温けえ!」
 温もりがあった。生きていた。爺さんが生き返った、と思った。朱鷺の目から熱いものが溢れ出た。
 ──ここは……?
 ──病室だ!
 ようやく夢から覚め、はっきりと意識を取り戻した朱鷺は、爺さんの額に手を添えたまま、その顔を見つめ続けた。躊躇(ためら)いながら手をのけると椅子に腰を下ろし、ベッドの縁に顔を埋めた。手を伸ばし、丁度爺さんの胸元をさすってやると、規則正しく呼吸を繰り返す。この手に爺さんの息遣いが伝わった。
 そのままどのくらいの時間が経ったのかは分からない。最早、時間の感覚は麻痺していた。ふと、何かの気配に顔を上げた。爺さんの寝姿をつぶさに見守る。今、爺さんが動いたような気がして目を見張る。
 ──気のせいか?
 すぐに朱鷺はうな垂れた。
「おーい……おーい……」
 微かな声を朱鷺の耳は捉えた。単に呼吸したにすぎぬと錯覚してもおかしくはないような、そう他人には思われるかもしれない。が、朱鷺にははっきりと聞こえたのだ。静寂の中の微かな風音のような喘ぎ声、今にも消えてしまいそうな吐息にも似た声を。
「おジイさん! おジイさん!」
 立ち上がって耳元に向かって呼びかけた。
 しばらくして爺さんの瞼の隙間から輝きが漏れた。と、爺さんは一度、目を見開き虚空を見つめると、瞼を開け閉めした。が、再び目は閉じられた。
 ──ただの反射なのかもしれねえ……
 そうは思ったが、朱鷺は何度も何度も呼びかけ続けた。
 爺さんの瞼が微かに動く。その動きに合わせて睫毛がピクリと波打った。
 ──いんや、単なる反射なんかじゃねえ!
 爺さんはゆっくりと、しかし確実に目を開けようとしているのだ。
 頬を優しく撫でてやった。すると、瞼の裏で眼球の動きが速くなったかと思えば、突然目を見開いた。瞳に病室の景色が映る。眼は何かを探るようにあっちこっちに向く。ようやく目的のものを見つけたのか、その動きを完全に止め、瞳から放たれた光はより輝きを強めた。朱鷺は輝きの中に自らの姿を見つけた。
 朱鷺にははっきりと分かった。爺さんはしっかりと朱鷺の姿を捉えているのだ、と。
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