◆9 ホモ・サピエンス──付かず離れず追い付かず。むれずかたらずいきるのみ

文字数 9,417文字

 朱鷺は別れの熱い接吻をコウスケにおみまいして、向かいの猿野の部屋を訪ねた。
 木のドアをノックしても返答はない。ノブを回し手前に引いてみる。カギはかかっていなかった。中に入りスニーカーを脱いで上がり込んだ。部屋の中央まで侵入すると、足で漫画本を蹴散らし半畳ほどの急ごしらえの客間を自ら設える。部屋を見回しながらその場にどっかと腰を下ろし胡坐をかいた。
 室内に何やら刺激臭が充満している。一昨日きた時よりも一層強烈な臭いに、鼻をクンクン鳴らしながらその源流を探った。鼻を押入れの方へ向けた時、臭いは強くなる。立ち上がり、足元の本を踏んで転ばぬよう注意を払いつつ押入れの前まで行くと、襖に耳を当て中の様子をうかがった。鍋でも煮えたぎるような音が聞こえる。そっと襖を引いてまず上段を見た。布団しかない。下段を中腰で覗くと獣の目が光った。よく見ると、猿野が丸まって膝を抱えうつろな眼差しを向けているにすぎなかった。
 ──なんと力のない眼光だろう……
 ──これでは、生ける屍同然だ!
 猿野を哀れんだ。
「おはようさん。あんた、狭いとこが好きなのか?」
「おバアさんですか。お早いお越しで……」
「それにしても、なんだ、この機械は?」
「なーに、健康ドリンク製造装置ですよ。去年発明に成功しまして……」
 猿野は装置のコックを捻り、コップに液体を注いで朱鷺に差し出した。「よかったら、どうぞお試しあれ」
「あんがとさん」
 朱鷺は遠慮なくコップを受け取った。
「言っときますけど、一気にやらない方が……」
 猿野の忠告もむなしく朱鷺は一気に胃袋に流し込み、舌を鳴らしながら味を確かめてみる。
「んー、まあまあですな」
「だ、大丈夫ですか! 間違いなく90パーセントは……」
「なーんも」
 朱鷺は首を横に振る。「問題ねえ、あんたもやってみな」
 コップを返すと、猿野は目を丸くしたままコックを捻ってコップになみなみと注ぎ、首を傾げながら一息に飲み干した。すぐに目を引ん剥いて咳き込んだ。
 ──朱に交われば赤くなる……
 と言うが、猿野の場合は元々猿面だ。これ以上赤くなるはずはない、と朱鷺は考えたが、見る見るうちに猿野の大きな顔は朱に染まったかと思えば、黒へと変色した。
 ──赤色巨星からブラックホールへ!
 これは科学的にはあり得ない。だが世の中、あり得ぬことが稀に起こるものなのか、と長生きはするものだとつくづく思った。珍しい現象を見せてくれた猿野に感謝した。その一方で猿野の将来を懸念する。
 ──コイツには環境と友人を選ぶ必要がありそうだ。
 ──得体の知れぬ液体だけが唯一の友とは寂しすぎる。
 ──こんな(すさ)んだ生活態度は、猿としてはともかく、人間としてよくない。
 朱鷺の脳裏をそんな考えが掠めた。が、コイツは元来世を()ねて生きる運命だったことに気づいた。人間らしく生きるよりもそっちの方が幸せなのだろう。誰にも相手にされぬ。
 ──もちろんオナゴにも。
 本人が選択した人生だ。もう何も口添えすべきではない。他人がとやかく言ってコイツ自ら選択した人生をダメにでもしたら、こちらが恨まれるだけだ。朱鷺には為す術は最早ないのだ。
「よ、よく、ゴホッ……こんなもん……一気飲み……できますね……」
 猿野はまだ咳き込んでいた。
「自分で造ったんでねえか、情けねえ……」
 呆れ果てて蔑んでやる。
「もう少し改良の余地がありそうだ」
「あんた、手が後ろに回るよ」
「しっ! 内緒ですからね、お願いします」
 猿野は小声で哀願した。
「ええでしょう、さあ、出かけましょう」

   *

 猿野と連れ立ってみどり公園にやってきた。
 大銀杏の前でトキを待ち伏せすることにした。トキは必ず近道してここを通るはずだ。もちろんこの日の記憶はないが、自分の行動ぐらい百も承知。朱鷺は入念に屈伸運動を続けながら、その時を待った。
「私は……」
 猿野は浮かない顔でベンチに腰かけている。
「なんか言ったか?」
「い、いいえ、別に……」
「ま、人生は長えんだ。クヨクヨするこたねえ、運命は自分で開拓するもんだ」
「ハッ! そうですよね。運命なんて決まっていませんよね。そうか、なんで早く気づかなかったのか……」
 朱鷺は猿野の顔を覗き込んだ。さっきの液体がようやく抜けてきたのか、幾分顔色が黒から薄ら赤みが差し始めている。朱鷺は目を細め一瞬だけ笑いかけた。猿野は吹っ切れた表情で笑みを返す。
「心の持ちようでねえのか」
「心の……?」
「オラ、こっちの世界にきて、分かったことが一つだけある」
「それは?」
 猿野は目を輝かせる。
「心の持ちよう次第で幸せな気分にもなれるということだ」
「心の持ちよう……深い言葉だ!」
「ただ……」
「ただ?」
「運命は……」
「運命は?」
 猿野の目は一層輝きを増し、表情も活き活きしている。満面の笑みだ。
「変えられねえ!」
「あーん!」
 紅潮しかけた猿野の顔から血の気が引き青黒くなった。「今、自分で開拓するものだと……」
「そうだよ。努力しねえでどうすんだ? だが、どう足掻こうとも変えられねえのさ」
「ウソだ!」
 猿野は涙目だ。必死さがひしひしと伝わってくる。
「ウソでねえ! オラ、こっちにきて、必死に運命変えようとしたって、やっぱ、オラが辿ってきたようにしかなんねえもの」
「あーん!」
 猿野は放心状態でピクリとも動かなくなった。突こうとも蹴飛ばそうとも身動き一つしない。
 ──こりゃいかん、オラの帰郷に差障りが出る!
 と薬が効きすぎたことを後悔して、少しばかり希望の言葉をかけてやろうと目論んだ。猿野の横に座った。
「あんたも、ええ歳なんだし、彼女でもつくればええでねえか」
「ハッ!」
 猿野は反応した。「あのう……こんな猿顔でも彼女なんてできますか?」
 ──本音が出やがったな……
 朱鷺は頭を捻り始めた。
「類人猿を見てみりゃ分かるこった。ゴリラ、オランウータン、チンパンジー、テナガザル、ボノボ……奴らだって必死にオナゴのケツ追っかけてんだろ?」
「あのぉ……私となんの関係が?」
「奴ら猿面だぞ」
「当然でしょう、猿ですから……」
「それでも生きてんだ! 立派なもんよ」
「はあっ?」
 二人の前を次から次へと人が通りすぎて行く。たった今列車から降りた客らしい。公園を突っ切り、近道で職場へ向かうのだろう。皆が皆こちらを遠巻きに見ながら。
 朱鷺は思い切り息を吸い込んで胸を張った。視線は一直線上に固定して正面の虚空を睨みつける。
「あんた、なに様だ!」
 猿野に問うた。
「わ、私になにか御用ですか?」
 紺の背広姿の中年男が寄ってきて朱鷺を見下ろしている。
 朱鷺は腕組みをして暫し男と睨めっこをする。と、「ウーッ!」と唸り始めたら、相手も同じように唸った。
「ウーッワンッ!」
 朱鷺が吠えると相手は少しだけ身を引いてひるんだ。その様子を見て朱鷺は声高に笑い出した。相手もでっぷりと膨らんだ腹を抱えて高笑いした。肩を揺らしながら後ずさり、背を向けた。サラリーマンはいっとき朱鷺と遊んで立ち去った。
 通りすがりの人達の視線が一斉に注がれる。
「お、お婆さん、声が……もっと小声で……」
 猿野は囁く。
 今度は邪魔が入らぬよう猿野に向き直ると、見覚えのある顔ぶれが近づいてくるのが見えた。サンクチュアリの従業員達だ。身の丈六尺ほどで優男の誉れ高いコックを、仲良し三人組のウエイトレスが取り巻いている。
 猿野の顔に照準を合わせた視線を、目に力を込め突き刺す。
「あんた、なに様だ!」
 再び雄叫びを上げた。
「えっ、私は……」
「ホモでねえか!」
 ちょいと視線を外すと、取巻きの一人、もうじき三十路という小太りの亭主持ちと視線が合った。10メートルほど先で丸い目を見開き、こちらを凝視する。
「い、いえ、私は、違います!」
 猿野は辺りをキョロキョロ見ながらうろたえる。
「あんた、否定すんのか?」
「当然です!」
「人間ではねえと?」
「ど、どういう……意味でしょう?」
「オラ、あんたは正真正銘のホモって言ってんだ。なのに、あんたは人間ではねえと否定しなさる。そしたら、猿だと認めんのか?」
「ホモ? 人間? ホモ……イコール……人間?」
 猿野は暫し考え込んでいたが、合点したように狭い額を掌で叩いた。「ああ、ホモ・サピエンス!」
「そう言ってんのに。あんたときたら、全く……」
「おバアさんが変に省略するから……」
「つべこべ言うんでねえ!」
 朱鷺は察しの悪い猿野に苛立って、ついつい声を荒げた。「あんたはホモだ!」
「ちょっと引っかかりますが……」
「あんたは、立派なホモだ!」
「はい、そうですとも」
「お客さん。あんたホモなの?」
「はい、私は立派なホモ……」
 猿野は声のする方へ首を回した。目を瞬かせる。
 尋ねたのは小太りの亭主持ちのウエイトレスだった。レストラン従業員四人の好奇の視線が一斉に猿野に注がれた。一行はベンチの横に突っ立って何やらヒソヒソ話に花を咲かせている。
 朱鷺が一行に笑って目礼すると、向こうも各々目礼で応じた。
「あ、あーん、ち、違いますぅ……私は私は……ホモでは……ありませーん!」
「あんた、まーだ否定するつもりか? 今、はっきりホモだって断言したでねえか。オラにウソついたのか!」
「い、いえ、ウソでは……」
「お客さん、やっぱりホモなのね」
「いいえ、違います。私はホモでは……」
「ええい、はっきりしなせー!」
 朱鷺は立ち上がって拳を握り締める。「あんたはホモだ! オラ、あんたは立派だと褒めとんだ。なのに、否定すんのか? 男らしくねえな……」
「お客さん、男らしくしなさいよ。おバアさんが可愛そうよ。あんたのためを思っておっしゃってるのよ。ホモだっていいじゃないの、恥ずかしがることないわ。ねえみんな、そうでしょう?」
 小太りの亭主持ちが同意を求めた。
「そうよそうよ」
 女子どもが口を揃える。
「お客さん、俺たちゃ、あんたがホモだって差別なんてしねえよ。人それぞれじゃないのか?」
 優男がニッコリ微笑み理解を示した。
「そうだわ、その通りよ。あなたが女に興味がなくて、男の人を愛するのなら、私達女は皆、あなたに近寄ったりしない、誓うわ。安心なさい、あなたのこと相手にしないから。絶対に!」
「あーん!」
 猿野の目が潤んだ。その様子を見て、女子どもが一斉に目頭を押さえる。
「苦しかったのね、言えなくて。お客さん、私達だけでも理解してあげるわね」
 皆同情して猿野の肩に優しく手を添える。
「あーん! あーん!」
「頑張るんだぜ、応援してるからな」
「くじけちゃダメよ」
 一行はそれぞれ猿野を励ますと、薄ら涙を浮かべながら立ち去った。
 朱鷺の耳に若かりし頃聞いた声が木霊した。
「あの人はホモよ」
 皆、猿野を名指しして噂し合っていた。噂はたちまち街じゅうのあちこちに飛び火した。あの時、朱鷺以外の者は皆、猿野を人間だと認めていたのだ。あの頃自分は幼すぎたのだ。猿面ゆえに、到底、コイツを人間扱いはできなかったから。
 ──ま、なにはともあれ理解者を得られたことはコイツにとっては収穫だった。
「あんた、よかったでねえか、良き理解者を得られて」
「あーん!」
 猿野は肩を落とした。「わたしはホモでは……」
 猿野の態度が朱鷺には合点がいかない。
 ──喜ばしいことなのになぜだ?
 ──まだ猿面を気にしているのだろうか?
 ここは一つ、もう少し励ましてやろうと決めた。
「あんた、自信持てばええ、男は顔でねえ。猿でも恥じてねえんだぞ。あんたも猿顔を恥じるこたねえ」
 猿野はまだ腑に落ちない表情で首を傾げるばかりだ。
「おバアさんは私を励ましてくれてるんですよね?」
「当たりめえよ」
「なのに、ちっとも嬉しくないんですが……」
「素直になんな。人間素直さが大事だ。素直な心で受け入れるんだよ」
「素直な心で……私にも赤い糸が誰かとつながっていると?」
「まさか!」
 つい本音が出た。
「あーん!」
「い、いや、きっと……そうかもしれねえし、なきにしもあらずでもねえかも……」
 猿野は腕を組み考え続けた。しばらく経って明るい表情をこっちに向けた。
「クヨクヨするのはやめにします」
「そうよ、それでこそ男だ! 赤い糸は自分で手繰り寄せることだ」
 ──つながっているものならな。
 心の中でつけ加えた。
「はい! 自分で見つけます。きっと……」
 ──この辺でいいだろう。
 ──猿野も報われたことだし……
 この男もどちらかというと幸せ者だ。今後、自分の研究だけに没頭できるのだから。驚いたことに今はオナゴに興味あるらしいが、そのうち悟るだろう。自分にとって研究とオナゴのどちらが大事かを。
 ──でも、ハテ、サテ……?
 ──なしてコイツはオナゴに興味を失くしたのか?
 ──それに、なして誰からも相手にされなくなったのか?
 疑問は残るが、
 ──まずは、めでたしといったところだ!
 朱鷺は十分納得した。
「そろそろ準備しねえと……、今なん時だ?」
「えーっと、9時半を回りました」
「今日の出勤は、午後からだから……」
「少し早くないですか?」
「いんや、メジロ石油に寄って、あいつとクッチャベって出勤だ。丁度ええ時間だ。ここを通るまで、もう少しかかるかもしれねえ」
「そしたら説明します。トキさんの背後に回って足からスライディングしてください。十分注意して、60センチの距離を保ちながらです。いいですか、トキさんの足めがけて勢いよく滑り込むんです」
 猿面がこちらを向く。「付かず、離れず、追い付かず」
「むれず、かたらず、いきるのみ……ですな?」
「なんですかな?」
「オラの信条です」
「はあ……それではご健闘を祈ります」
「あいよ」
 猿野は立ち上がって太陽の位置を確認し、トキが現れるであろう方向を見た。丁度トキの進む方向とは逆向きに影はできる。どうやら影の長さを測定しているようだ。
「ようし、いいだろう」
「ピッタンコかい?」
「少しの誤差はあるでしょう。しかし誤差はつきものです。問題ありません」
 朱鷺の見立てでは相当の誤差のような気がするが、
 ──ま、この際、細かいことは言いっこなしとするか……
 と、それについては口をつぐんでやった。
「オラ、帰れりゃええんだ」
 説明も聞いた。
 ──あとは、オラ次第というわけだな……
 ──コイツは用済みだ!
 ──煮るなと焼くなと、はたまた消すなと最早どうでもいい、ウッシッシッ!
 帰れるか否かは半信半疑だ。猿野の全てを信じたわけではない。ただ何ごとも実験してみないと先へは進めないと思っただけだ。
 猿野がこちらを見たので、笑顔で頭を下げてみる。向こうも猿真似で愛嬌を振りまきながら、トキが現れる方向に視線を逸らした。いっときして目を瞬かせ始めた。
「きました! トキさんが……」
「どっこいしょ」
 朱鷺は大声でベンチから尻を上げ、猿野の隣に並ぶ。猿面を見上げ、顎をしゃくってベンチを示し、座れと命じた。猿野は素直に従った。
「あんたとも、お別れ……かも!」
「んっ? かも?」
 猿野は首を捻る。「私が合図しますから、そしたら飛び込んでください」
「あいよ」
 猿野はベンチで腕と足を組んで、トキの方を見ながら貧乏揺すりを始めた。まるで川上監督気取りだ。
 トキが近づいてくる。ベンチの前を通りすぎようとした時、猿野に気づき軽く会釈した。猿野も猿真似で応える。トキは高笑いで通りすぎた。
 朱鷺はトキの後姿を目で追いかけた。
 トキは肩を震わせ、時折猿野をチラリと見ながら去って行った。
「トキさん笑い上戸なんですね……」
 朱鷺は無視した。
「もうええかい?」
「はっ! いつでも」
「バッカ、トゥーチャン、ヒーチャンですな?」
「バカ、トウチャン、ヒイチャン……?」
 猿野は口をポカンと呆けた顔で首を捻る。
「映画です」
「バカ……トウチャン……ヒイチャン……? 馬鹿、父ちゃん、火ちゃんと! ああ、馬鹿な父ちゃん、火ちゃんと消せ。火の用心ですか、なるほど」
「未来へ帰りますわ」
「あっ、そうですね。じゃあ、お別れです。帰ったら、私によろしく」
「あいよ」
 握手を交わしたあと、朱鷺はスタート地点に立って構えた。 
「ヨーイ……ドン!」
 猿野の声と手を叩く音が園内に響き渡った。
 朱鷺はダッシュしてすぐにトキに追いつくと、素早く背後から足元めがけ影ができるはずの位置に足からスライディングした。
 猿野も朱鷺のあとを追ってきて、トキと並んで歩いている。トキは猿野を見て、クスクス笑った。
 朱鷺は猿野と目が合った。猿野の顔を見ながら、両足を立て後ろ手に両手をついてトキのあとを追いかける。時折、若い自分の尻を見て、
 ──ええ尻してる!
 と感心しながらしばらく歩いた。
 再び猿野と視線が衝突した。朱鷺は最高の笑顔で猿野に会釈した。猿野も笑みを返し会釈すると、バツが悪そうに髪をかき上げたり顎をさすったり、ズボンのポケットに手を突っ込んだりしながら歩を緩めた。次第に後方へと朱鷺との距離を広げた。突然、クルリと朱鷺に踵を返すと、そのまま逆方向へ疾走した。
 朱鷺も段々疲れてくると、「よいしょ」と一声かけながら立ち、モンペの土埃をはたいて、猿野を追いかけた。
 猿野は後ろを振り返りながら、あとを追う朱鷺に気づくと加速した。
 朱鷺は猛ダッシュで難なく猿野に追いつくと、その足首をつかんだ。猿野はけつまずいたが、それでも走るのをやめようとはしない。そこで、猿野の右足に両腕を巻きつけ足の甲に乗っかった。尚も猿野は右足を引きずりながら走った。
「ごきげんさん」
 一言かけてやると、猿野は俯いた。入れ歯を引ん剥いて笑いかける。すると、猿野は顔と身体を同時に引きつらせ、そのまましばらく走って息を切らせながらゆっくりと止まった。
「ここは……私は……」
 チラッとこちらを向く。「あ、あなたは……誰?」
「ええこと教えといてやるよ。オラ、ウソついてたんだ。すまねえな。重大なことなんだ。あんたの将来についてだぞ。聞きてえか?」
「うん」
 猿野は頷く。
「よーし、あんたはな……やっぱやめとこ。未来なんて知らぬが仏かも。しかし知っといた方がええとも思うが……聞く?」
「うん、聞く」
「覚悟はあるみてえだな。男だな、あんたは」
「うんうん」
「よっしゃ、そんじゃ話してやっか……」
 朱鷺は猿野を見てニヤリとした。「あんたは人様のために尽くしてなんぼの人生よ。自分の研究に勤しんでりゃ、それだけで幸せなんだもの。他人に幸福をもたらすんだ。誰にでもできるわけでねえ。素晴らしい人生だと思わねえか?」
「そんなに? 私はまた、ろくでもない人生を送るんだとばかり……」
 猿野の顔が明るく赤くなった。黒ずんだ顔がアルコールが抜けて元の色に戻りつつある。
「それが運命なんだ。運命を受け入れるこった」
「運命! ですか。なんといい響きの言葉でしょう……」
 猿野は目を輝かせ、唇に笑みすら湛えている。「あとは、赤い糸を手繰り寄せればいいだけか」
「ハテ? 赤い糸とは?」
「いやだなあ、おバアさんが言ったのに。これにつながっているヤツじゃないですか……」
 猿野は朱鷺の目の前に小指を立てて見せる。朱鷺は慌ててチョキを出してプッツンと糸を切った。
「な、なにをするんです!」
「あんたの人生は、酒と泪と溜息には縁が深え」
「どういう意味です?」
「他人に喜びを与える。自分自身も満たされるんだ。情けは人の為ならず、だもの。それしか生きる術はねえのさ」
「それが、赤い糸と、どういう関係が……」
 猿野は何度も首を傾げる。
「無駄な努力はしねえこった」
「なにが……無駄なんです?」
「オナゴにうつつを抜かすな、って言ってんだ」
「なんで、そんな残酷なこと言うんです!」
「縁はねえ! オナゴにはトンと縁はねえ!」
「さっき、言ったでしょ? 自分で手繰り寄せろ……と」
「だから……『オラ、ウソついてたんだ。すまねえな』……と謝ったでねえか、さっき。思い出せ」
 猿野は呆けた猿面を天に向け考え込む。
「わ、わたしの……赤い……糸は……どこ?」
 猿野は小指を己の目線に突き立てた。
「ええーい、しゃらくせー!」
 朱鷺の声に驚いた猿野の肩が大きくピクリと痙攣した。虚空を見て何やら呟き出した。
「アカイアカイ……イト……オナゴオナゴオナゴ……」
「オラ、あんたを褒めてやってんだ。ホモの中のホモだと。なして、喜ばん!」
「あーん!」
「あんたは、ホモだ! 立派なホモなら、オナゴなんぞ諦めろ!」
「あーん! あーん!」
 猿野はようやく納得したらしい。涙を流して喜んでいるようだ。他人に誠心誠意尽くす。それで己も満たされる。
 ──なんて幸せな人生だ!
 朱鷺は大きく頷いた。
「オラ、はじめから、あんたを信じてなんかいねえよ。ま、もしや、ということもあるしな……実験につき合ってやっただけさ。だから、気にするこたねえよ。オラ自分でなんとかして帰る手だて考えっから」
「あしからず」
 猿野はガックリと肩を落とした。
「いやいや、あんた、はったりで生きてんだもの」
「あのう……」
「なんだ?」
「そろそろ、はずれてくれませんか?」
「あんた、元気ねえな?」
「絶望です……」
「一生、縁がねえだけでねえか、オナゴに」
「あーん!」
 猿野は両手で耳を塞いだ。
 ──気合でも入れてやっか!
「なあ、猿野さんよ……」
 朱鷺は落ち込む猿野の面を見上げ、改まった口調で呼びかけた。
「なんです……?」
 沈み切った声で朱鷺を覗き込む。お互い視線が合い、しばらく見つめ合う。
 朱鷺は薄目で笑ってみせると、思い切り息を吸い込んだ。
「取り憑いてやる!」
「キーッ!」
 猿野は金切り声を上げ、咄嗟に逃げようとして前のめりに倒れ込んだ。「離せ、離せー!」
「いんや、離さねえ」
 朱鷺は力を込めて猿野の右足にしがみつく。「ウラメシヤー!」
「ううぅーっ!」
 猿野は呻きながら怯えた表情を見せた。物凄い力だ。人間離れした力は朱鷺のそれに勝った。朱鷺の腕を振り解くと四つん這いで逃げて行った。
 ──あれが火事場の馬鹿力というものか!
 感心しながら朱鷺は猿野の逃げる後姿を眺めた。二足歩行はまだ早いのか、足がもつれ両手をついて走る様は猿そのものだった。
 ──名は体を表すものだ!
 朱鷺は改めて納得して何度も頷いた。
 ──歳を取っても新たな発見というか……勉強になるものだ!
 ──帰ったら、孫の鴻太郎に聞かせてやらねばなるまい!
 と、はやる心を抑えつつ溜息をついた。
「あーあ、誰も当てになんねえな。さてと、帰るとすっか」
 朱鷺はコウスケのアパートへ足を向け、歩き出した。
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