◆3 朱鷺の思案──コウスケと爺さんの顔が重なる

文字数 5,208文字

 朱鷺は正座して腕を組み、静かに目を閉じていた。
 夕食のあと片づけも適当に済ませ、ちゃぶ台の前に腰を据え、正面のコウスケの様子をうかがう。さっきから気配だけで全行動を把握できた。
 コウスケは茶をすすって湯呑をちゃぶ台の上に静かに置いた。また湯呑を握ろうとして手を引っ込めた。見なくても朱鷺には手に取るように分かる。今、膝を立てこちらに身を乗り出し、ゆっくりと朱鷺の顔の前で手を振る。人差し指を突き出しグルグル回し始めた。一瞬指の動きが止まった。朱鷺は噛みついた。
「イッテーし!」
 朱鷺が口元を緩めると、コウスケの指に下の入れ歯を持って行かれた。朱鷺は口をモグモグさせながら右の掌を天井に向けチョウダイをする。掌に重みが加わった。コウスケは入れ歯を返還した。入れ歯をはめ、また腕組みして静止する。
 職場からコウスケの手を引いて帰宅してから朱鷺はまだ一言も発してはいない。このトンマを諭す言葉をずっと探していたのだ。
 ──コイツの身の上に、今後起こる重大な局面を話して聞かせねばなるまい!
 と一旦は決意を固めた。
 朱鷺の脳裏に新婚時代から数年間の思い出が鮮明に蘇る。

   *

 朱鷺が19歳、コウスケが21歳、二人はめでたく結婚した。新婚旅行先の宮崎から帰って数日後。菜種(なたね)梅雨で日毎に寒暖を繰り返していた。貴重な晴天が三日続いたあとの曇天の昼下がり、湿り気を帯びた生暖かい春風が新居の窓ガラスを叩きつけていた。コウスケの勤務先の社長夫妻が菓子折りを手に訪ねてきたのだ。ゆくゆくはコウスケにメジロ石油を譲りたい、という話だった。夫妻には子供はなく、二人とも戦争で親族をことごとく亡くしている。社長、目白春雄(めじろ はるお)は戦災孤児で、これといって身よりもなかった。そのことはコウスケからも聞いていた。そこで息子同然に可愛がっているコウスケに白羽の矢が当たったというわけだ。
 朱鷺は驚いた。
 ただ、バカがつくほどの正直さとお人好しが裏目に出ることは必至だ。夫妻はそれを心配してコウスケの舵取りをしっかり朱鷺に託そうとわざわざ足を運んでくれたのだ。
「オレには親父とお袋がもう一組いる。社長さん夫婦はオレが面倒みるんだ。覚悟しといてくれ」
 朱鷺は常日頃聞かされているコウスケの言葉を告げた。それについては朱鷺も賛成だった。それを聞いて、夫妻は朱鷺の眼前で(はばか)ることなく嗚咽した。その後、社長のコウスケに対する指導は厳しさを増した。コウスケも愚痴一つ零さずよく耐え忍んだ、と朱鷺も感心するほどだった。
 あの日から八年後、それは現実となった。一番驚いたのはコウスケ自信だった。その時になって初めて社長夫妻の親心を知ったのだ。コウスケも改めて夫妻の愛情の深さを知るに至り、密かに孝行を誓っていた。だが同年、昭和60年暮れ、社長は51歳の若さで逝った。コウスケの悲しみも癒えぬうち、翌年の春先、夫人、椿(つばき)もあとを追うようにこの世を去ってしまった。コウスケの母テン子よりも二つ若い48歳だった。

   *

 コウスケの落ち込みようは尋常ではなかった。仕事も手につかずぼんやりすることも多かった、と朱鷺は回顧する。
 朱鷺はどうしたものか迷った。一度は話してやろうと決めたが、伏せておいた方がいいような気もする。運命を知ったところでコイツにはどうということもないだろう。トンマだがこの男は情にだけは厚く敏感だ。何れ必ず悟る。朱鷺は熟考の挙句、
 ──言わずもがな。
 と決心すると静かに目を開けた。
 コウスケは明後日の方へ目を向けていたが、朱鷺の視線に気づくと小さく「あっ!」と言って肩をピクリと震わせた。
「あのな、茂三には気をつけな、ええか!」
「いいヤツだぜ」
「本気でそう思ってんのか?」
「ああ、素直で礼儀正しいし……」
「抜け目がねえだけだ。ヤツは小悪党だ!」
「信じられねえ……」
 コウスケは首を捻る。
「おめえ、金目のものはヤツの前にチラつかせるんでねえ、絶対にだ!」
 朱鷺は腕組みで正座したまま前屈みになる。「必ず狙われる」
「オレに金はねえ! 安心しな」
 コウスケは胸を張った。
「バカヤロー! 自慢することか。おめえは今にビッグになんのさ。その時には必ずヤツを近づけるな」
「オレがビッグに? 世界制覇でもするのか?」
「バカか? 人並み以下のビッグだ。大それた夢は見るんでねえ!」
「人並み以下? 全然ビッグじゃねえような……」
「当たりめえだ。おめえ、どれほどの男だ? 身のほどを知れ。只な、正直に真面目にやってたら向こうから幸運がやってくるんだ。おめえは人に恵まれてんだ。ええか、社長夫婦を敬え、大事にするんだぞ!」
「ああ、社長さんも奥さんも、オレ好きさ。いい人だから……」
「分かってりゃええ、その気持ち忘れるんでねえ」
「忘れやしねえ、オレそんな薄情じゃねえぜ」
「それはオラも知ってる。だがよ、一つだけ忠告しといてやる。もっと人を見る目養っとけ。寺西君はおめえを、きっと助けてくれる」
「バアさん、あいつと馬が合いそうみてえだな。あいつ……笑ってたな、オレ初めて見たぜ……」
 コウスケは足を投げ出し、後ろに両手をついて天井を仰いだ。
 寺西純二郎は数年前、最愛の兄を交通事故で亡くしている。それ以来、世を拗ねぐれかけていた。そんな折、メジロ石油で働き始め、コウスケと出会った。コウスケに兄の面影を重ねていたのだ。と、朱鷺は若い頃寺西の口から直接聞いたのだった。
「おめえのこと、兄貴だと思ってんだ。おめえを慕ってんだ。それぐれえ、察してやらねえか、このトンマヤロー!」
「ええっ、まさか、いっつも突っかかってきやがるんだぞ……」
 コウスケは、視線を天井からこちらに移すとすぐに胡坐をかいて、それぞれの膝に両手を置き前屈みになる。
「甘えてんのさ。不器用なだけだ。おめえとどう接してええのか、分かんねえだけだ」
「信じられねえ……」
 コウスケは首を横に振る。
「ま、そのうち分かる。いざという時がくればな。寺西君は人を見る目はしっかりしてんだ。それに比べて、おめえにはホトホト呆れるよな、ええオツムだこと……」
「それほどでも、テヘヘ……」
 ──なに勘違いしてやがる?
 ──誰が褒めてんだ! 
 朱鷺は阿呆のケツを蹴り上げたい衝動を抑えた。
「よっく聞け、このトンマ! 茂三はおめえのこと、ええカモだと思ってんだ! おめえのお人好しにつけ込んで金品せしめようって寸法よ。寺西君は見抜いてんだ、茂三の魂胆を」
「へえ……」
 コウスケはポカンと口を開けて無意識に調子を合わせているにすぎない。朱鷺の助言など耳には入っていないようだ。まるで他人事だ。
 ──一発おみまいしてやるしかなさそうだ!
 朱鷺は徐に立ち上がってコウスケの横に立つ。一度高みから見下ろして無言で窓を指差すと、ヤツはそちらに視線を送った。朱鷺はクルリと背を向け尻を突き出した。
「こっち向け、アンポンタン!」
 と声をかけ、ヤツが振り返った瞬間、大きいのを一発ぶっ放した。丁度朱鷺の尻がヤツの鼻先にいい具合に位置していた。ヤツは引っくり返った。それを確認しながらゆっくりと元の位置に布陣した。
「ヘヘヘ……参ったか?」
「参った!」
 コウスケは手扇で仰ぎながら起き上がると胡坐をかく。
「おめえ、人の話、真剣に聞きやがれ!」
「また強烈なヤツを……」
 コウスケは鼻を摘まみ顔をしかめる。
「寺西君はおめえを慕ってるんだ。それに応えてやらねえでどうすんだ」
「慕ってる……寺西が……オレを……どうして?」
「おめえのことが好きなんだ。正直で素直なお人好しの阿呆をよぉ。人には分け隔てしねえし、優しい男だからだ。真剣に怒ってくれるからだ」
「分かんねえ!」
「ま、阿呆には無理か。そのうち分かるだろう、阿呆にも」
「そう、アホアホ言うなって」
「まったく……ええか、茂三には気をつけろ! ヤツは天性の詐欺師だ。ウソで固めた人生を送るんだ。ヤツを近づけちゃなんねえ。従業員の給料はキチンと金庫に仕舞っとけ! この、バカチン!」
「あっ、それやめようや、バカチンだけは……」
「バカチンだからバカチンなんだ。なにが悪い。それよりおめえ、ホントに今夜仕上がんのか?」
「ああ、徹夜してでも仕上げる……って言っただろう、バカチン!」
「痛くも痒くもねえ。オラ、オナゴだ、そんなもん持ってねえ」
「きったねえ!」
「しゃらくせー! ツベコベぬかしてねえで、さっさと仕上げねえか! さもねえとこうだ!」
 立ち上がって尻鉄砲(しりでっぽう)を拝ませてやった。
 コウスケは慌てて身をよじって畳の上をクルリと尻で回転すると、ミカン箱をひっくり返しただけの文机の前に移動した。そこに鎮座し宝石箱の蓋を開け、指輪を取り出すと、仕上げの作業に取りかかった。
 朱鷺は座り直し、ちゃぶ台の手前からコウスケを見守った。

   *

 コウスケは突然手を止め、こちらを見た。
「ん? 従業員の給料って……?」
「メジロ石油の従業員のに決まってんだろう」
「オレの給料のことか?」
「おめえ、やっぱバカチンか? おめえのは雀の涙でねえか。全従業員のだ。しめて百万円だ。今から10年後の暮れの25日。クリスマスだ。全部金庫に仕舞っとくんだ! あの娘にも渡すんでねえ、てめえで管理しろ。決して事務所の机の上に30万置くんでねえ! 茂三はそれを狙う。盗んだあと、白を切る。おめえはバカチンだから、ヤツを見逃す。まんまとしてやられんのさ」
「見てきたような言い種だな……」
「見てきたんだ!」
「ちぇっ、バカ言ってんじゃねえや……」
 コウスケは取り合わない。
「まあええ、肝に銘じとけ! 人様の金だ。大切にしねえと、身の破滅よ。おめえは危い綱渡りばっかしやがって……」
「なんかオレが社長になるみてえ……あり得ねえな」
 コウスケは大きく首を横に振った。
「その埋め合わせしてくれるのが寺西君だ。おめえに蓄えは全くねえ。寺西君が惜しげもなく自腹切ってくれるんだ。おめえは寺西君に足を向けて寝られねえんだぞ。ま、もうじき分かる。寺西君はおめえのために尽くしてくれる。最後までおめえの傍に仕えてくれるんだ。有難えじゃねえか」
「寺西に御執心だな?」
「ツベコベ言ってねえで、早よ終わらせろ! オラ、おめえの背後に控えて居眠りしようものなら……ウッシッシーだ! ええかコノヤロー!」
「えっ、早く寝なさいよ。朝までかかるかも……」
「いんや、心配はいらねえ、へへへ……」
 指をポキポキ鳴らすと、コウスケは真面目に作業を再開した。
 朱鷺は移動してコウスケの後ろに胡坐をかくと、じっとその背中を見つめ続けた。

   *

 朱鷺は座ったまままどろんでいたらしい。目覚まし時計は既に3時をとうに回っていた。コウスケが作業を始めてからもう6時間近くになる。朱鷺の身体がブルッと震えた。冷え込んできた。部屋を隙間風が吹き抜ける。冷気が身体の芯まで凍てつかせるかのようだ。
 コウスケを見ると、ミカン箱に伏して眠っていた。静かに近寄って机の上を覗いてみる。宝石箱の蓋はちゃんと閉まっていた。
 ──どうやら仕上がったようだ。
 朱鷺は押入れをそっと開けて布団を敷いた。起こそうかとも思ったが、せっかく心地よく眠っているのを起こすのも憚られた。ここまで頑張ってくれたのだからそれはよして布団をコウスケのすぐ後ろまで引っ張って、掛け布団をめくり、その身体をそっと後ろへ倒してやると、優しく頭を枕に乗せ、掛け布団をかけてやった。それから宝石箱を手に取り、蓋を開けてみる。
 朱鷺の顔を彫ったとコウスケは言った。ちゃんと目も入っていた。只のガラス玉だが、朱鷺にはルビーやダイヤモンドにも勝った。
「大した出来栄えだ。昔から器用だったもんな……」
 左手の薬指にそっと通してみるとピタリとはまった。それを目の前にかざしてみる。裸電球一個の薄明かりの下でもキラキラ煌いてとても美しい。しばらく見つめたあと、宝石箱におさめ蓋をすると机の上に戻した。コウスケの顔を覗き込む。その寝顔を見つめていると胸が締めつけられた。コウスケと爺さんの顔が重なる。最早これ以上凝視することは叶わない。
 朱鷺は立ち上がり電球を緩め明かりを落とした。自分も布団に潜り込み、掛け布団を頭まで被る。涙が止め処なく溢れ出す。何度も何度も拭っても、次から次へととどまることを知らない。涙は仕舞いには激しい瀑布(ばくふ)となって朱鷺の胸をえぐった。
 ──ジイさんは死んだ!
 ──死んでしまって、既にこの世にはいねえ!
 朱鷺は愕然とした。
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