◇20 日付変更線、越えれば安心、妖怪は来ぬ──戸締りは完璧!?

文字数 2,654文字

 コウスケは髪を洗いながら、しばし手を止め、指折り数えてみた。
 ──バアさんが消えてやっぱり7日。
 何事もなく月曜日が終わった。
 午前零時をすぎてから風呂に入ろうと決めて、日付変更線を風呂場の板戸の敷居に設定した。板戸の前にどっしりと腰を据えて、
「だーるまさん、だーるまさん、睨めっこしましょ、笑ろたらダメよ、アップップッ!」
 と達磨大師を見習い、瞑想に耽りながら時間をやり過ごし、午前零時に合わせておいた目覚ましのベルが鳴るのと同時に日付変更線をまたいだ。
 ──火曜日になったら、もう、こっちのものだ!
 と、勝手な解釈で安堵する。
 ──今日、いや既に昨日だ!
 一日を部屋で過ごし、一歩たりとも外には出なかった。朝から何度も入念に玄関の鍵をかけ直し、国鉄の駅員よろしく「よーし」といちいち声をかけ、確認を怠らなかった。窓も締め切り、当然錠も下ろした。部屋の隙間という隙間は完全に塞いだ。
 それらを済ますと、部屋の真ん中に陣取り、落ち着きなく立ち上がったり胡坐をかいたり、窓の外を何度も覗いたりして、夜が更けるのを待った。
 戸締りは完璧に思えた。が、夕方、一箇所だけ塞ぎ忘れたことに気づき、いかにすべきか頭を巡らせた。
 ──まさか、あんな所から顔は出すまい。
 ──いくらなんでも……
 そうは思ったものの、相手はあの妖怪だ。結局、適当な板を探し求め、部屋中を引っかき回す。押入の隅から約五十センチ角の薄いベニヤ板を見つけ引っ張り出すと、急いで穴の上を覆い尽くし、水で満タンにした一升瓶を十本載せた。
 ──これで手も足も、顔も出せまい。
 便器の穴からは。
 ──こんな穴蔵からぬうっと顔でも出された日にゃ……
 コウスケは身震いした。
 これで完璧だ。完璧だったはずなのだ。
 コウスケは洗面器に手を伸ばした。目を瞑ったまま、タイルの上をまさぐった。中々手に取ることができなかったが、親切な人もいたもんだ。わざわざ手渡してくれるとは。
「ああ、ありがとさん」
 礼を言うのが筋だろう。相手も答えてくれた。
 早速、湯船に洗面器を突っ込んで湯を汲み上げ、何度か勢いよく頭から被った。洗面器を下に置いて、両手で顔をこすり、湯の滴を切った。髪をかき上げる。もう一度顔を手で拭って、周りを見ると、自宅の風呂場だった。銭湯ではない。
 ──なーんかおかしい……?
 コウスケは、後ろを振り向いた。
「ウッ!」
 呻きながら体が自ずとびくっと反応し、息も止まる。また顔を元に戻す。
 ──夢か?
 ──そうだ、夢に違いない!
 ──夢だったら安心だ。
 コウスケは胸を撫で下ろして俯いた。
 ポトポトと顎から汗が滴り落ちる。湯気をふうっと吹いてみる。湯気はもやもやと目の前を漂った。と、背中に滴が落ち、冷たいものが全身を走った。
 ──もう一度振り向いてみよう。
 大きく深呼吸を繰り返す。意を決して、一気に首を後ろに回した。
「ヤッホー!」
「ギャーッ!」
 コウスケは悲鳴を上げ、四つん這いで逃げようとタイルに手をついた時、指が洗面器の縁を弾いて顔面を直撃した。慌てて立ち上がると、踏みしめた場所が悪かった。石鹸の上だ。前のめりに手をついて頭をタイルに打ちつけそうになる。直撃を免れようと、頭をひょいと股の間に入れるように背を丸めると、そのまま頭を下に、足は上にして、湯船と壁の間に体が挟まって身動きできなくなった。咄嗟に手を目一杯伸ばして洗面器を引っつかみ、股間を防御した。
「どっから入った?」
 タイルを枕に、股の間から婆さんを睨んだ。至って冷静に。
「ハテ?」
「とぼけんな!」
「とぼけとらんのよ」
「出てけー! この変態ババア!」
「仕方ねえもの……」
「オレの裸、狙いやがって!」
「気がついたら、いるんだもの。どうしようもねえよ」
「バアさん、夢遊病か?」
「そんなんじゃねえ」
「じゃあなんだ?」
「なんかなあ? ナニがナンだか……オラにはトンと……偉え学者先生にでも聞いてみねえと……」
 婆さんはしゃがんだまま膝を抱えた。
「いつまで、ここにいる!」
「ハテ? どこだ、ここ……」
「風呂場だ!」
「風呂場?」
「そうだ!」
 婆さんはきょろきょろと顔を動かす。
「どうりで湿っぽいはずだなあ……」
 婆さんはいきなり立ち上がって窓を全開にした。「霧かと思ったら湯気か」
「ヘーックション!」
 冷気が流れ込んでコウスケは身震いした。濃霧が晴れてゆく。
「おめえ、なんちゅう格好だ? ヘヘヘッ……」
 婆さんはこっちに近寄ってきた。
「な、なんだ。あっち行け! シッシッ!」
 婆さんはまたしゃがみ込んでコウスケの股間に手を伸ばした。
「みぃーつけた!」
「な、なんだよ?」
「おめえ、隠したつもりか? 肝心なとこ、丸見えでねえの」
「はあ?」
 コウスケは俯いた。洗面器の縁は腹部にぴたりと張りついていた。隠したつもりが、コウスケが動く度に、洗面器の腹の上で、男の“威厳”が振り子みたいに行ったり来たり踊っている。慌てて洗面器を被せようとした時には既に手遅れで、婆さんの右手の中指が、“威厳”の鼻っ柱を「チーン!」と弾いた。婆さんは両手を合わせ拝み出す。
「ナームー……」
「イッテーッし!」
 コウスケは思わず洗面器を放り投げ、両手で押さえる。
「ありがたや、ありがたや」
「拝むんじゃねえ!」
 婆さんは立ち上がると、板戸を開けた。
「おめえ風邪ひくぞ。冷やすんでねえよ。あれっ? 冷やした方がええのか……まあ、どっちでもええ、早よう出ろや!」
「シッシッ!」
 コウスケは片手で股間を防御したまま、もう片方は婆さんを追い払うために使った。
 婆さんは振り向き様にツカツカと傍までやってきて、腰に手を当て高みからこっちを見下ろす。突然ニヤッと口角を持ち上げた。
「おめえの独楽鼠(こまねずみ)、蹴り上げてみっか!」
 ドスの利いた声が唸りを上げ、腹の底に震動が伝わった。冷気と怯えのせいで縮み上がった。
「い、いえ……」
 己が声も

ものにも負けず縮み上がる。蚊の鳴き声の方が大きいかもしれない。
「早ようせい!」
 婆さんは相変わらず、ドスの利いた迫力で威圧する。その声は腹の底の底まで響き渡り、臓物を()し出すかのようだ。
「は、はい!」
 コウスケの声は度肝と共に喉の外へと抜かれていった。結局、何の抵抗も叶わぬまま、思わずいい返事をした。
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