◆31 朱鷺、晴れの舞台──若い二人を守らねば!

文字数 4,209文字

 今日は朱鷺にとって晴れの舞台である。
 今朝四時かっきりに目が覚めた。年寄りだからというわけではない。87の(よわい)をすぎて尚、たっぷりと10時間は寝る。地震、雷、火事、親父、何が荒れ狂おうとも大文字(だいもんじ)の形を呈したまま朝まで往復でイビキをかき続ける。それが翌日のエネルギー源として蓄積されるのである。
 そんな朱鷺でも今日ばかりは純な乙女の気分だ。遠足か運動会前日と同様、徐々に神経は昂り、床入り後も興奮冷めやらぬ夜を過ごし、浅い眠りからの目覚めと共に飛び起きた。ソワソワしながら時が満ちるまで部屋で過ごす予定でいたが、結局みどり公園の大銀杏(おおいちょう)下のベンチに座り、貧乏揺すりで心の平安を保った。
 ──ハラハラ、ドキドキ、ウキウキ、ワクワク……
 朱鷺の血圧は一気に最高潮に上り詰める。だが、その感情とは裏腹にお春の行動が気にかかる。
 お春の性格は熟知しているつもりだ。このまま引き下がるわけがない。涼しい顔で近づき、相手を取り込む。あの美貌に、男はいちころだ。虜にするのは朝飯前というわけだ。腑抜けになった馬鹿

どもを何人も知っている。自分も危うく丸め込まれるところだった。あの時、お春と藤九郎の悪だくみを耳にしなかったなら、恐らくお春の毒牙にかかっていたに違いない。どんな目に合っていたろう、と思うと背筋が凍りつく。
 ──ケツの毛一本残らず毟り取られかねねえ!
 お春とはそんな女だ。
 朱鷺の胸はお春への嫌悪感ではち切れんばかりに膨れ上がった。
 二人を守らねばならぬ。朱鷺にはお春がどんな怖ろしい企てを考えているのか、見当もつかない。が、今日、必ず何か仕掛けてくる。朱鷺は女の直感が働いた。今日は二人にピタリと張りついて、お春の不穏な行動を察知したら、
「積年の恨みを晴らしてやる!」
 と自ずと士気は高揚する。「あんなヤツにオラの恋路を邪魔されてたまるか!」
 朱鷺は電柱の陰から向かいのホテルをうかがっていた。時折、車が行き交う。
 さっき、二人が連れ立って──トキの姿はコウスケの陰に隠れて見えなかったが──映画館に入る後姿を見送り、すぐさま国道沿いの街外れにあるこの連れ込みホテルまで走った。朱鷺の足で10分程度の距離にある。3キロメートル強といったところだ。お春が何か仕掛けてくるのは、恐らく人通りの途絶えたこの場所だと踏んだのだ。
 朱鷺は二人を待ちながら、初めてのデートの模様をホテルの白い壁をスクリーンに見立て上映する。

   *

 映画を観賞したのち、
「少し歩きましょう」
 とコウスケを促してここまで連れてきた。
 寒風吹きすさぶ夕暮れだった。ホテルの手前までくると立ち止まり、手を揉みながら白い息を吹きかける。腕を交差させ肩をさする。
「寒いのかい?」
 コウスケが尋ねて、こっちは頷く。コウスケは皮ジャンを羽織らせてくれた。それを見越して、わざと薄着で外出したのだ。
 長袖の純白のポリエステル製のブラウス。真っ赤なミニスカートの丈は膝上10センチメートル。しかも素足で(なまめ)かしさを強調した。
「立てば芍薬(しゃくやく)、座れば牡丹(ぼたん)、歩く姿はブタのケツ」
 などとは誰にも言わせぬぞよ、と、白いハイヒールでモンローを気取る。
 映画館で座った時、スカートの裾から下着が見えそうで見えない。テクニックを駆使する。もちろん胸元は、はだけさて少しばかり見せる。時々、コウスケの視線が忙しなく上下していた。
 ホテルの前でまた立ち止まり、その場にうずくまる。
「どうしたの?」
 コウスケは心配して顔を覗く。
「めまいが……」
 と言って立ち上がろうとしてコウスケの胸に倒れ込む。コウスケは途方にくれた顔だった。すかさず額に手をあてがって、ホテルの入り口へとコウスケの体をなびき寄せる。と、またその場にうずくまったまま、しばらく身動きできない振りをして、コウスケの次の言葉を待った。
「ちょっと休もうか」
 ──シメタ!
 朱鷺はフラフラと立ち上がり、コウスケに従った。
 朱鷺のシナリオ通りに事は難なく運んだ。

   *

 朱鷺は思い出しながら声を上げて笑っていた。
 辺りはすっかり夕闇が迫っていた。ふと空を見上げる。厚い雲が垂れ込めていた。フーッと息を吐いてみた。
「おかしい?」
 首を傾げながら、もう一度おさらいしてみる。
 あの日は風が強かったはずなのに、今は殆ど風もない。また空を見上げる。やはり星は雲に隠れ、一つも見えない。息も白くはないし、寒くもない。記憶と全く符合しない。
 ──どういうわけだ?
 ──ナニかが変わってしまったのか? 
 期待は次第にそこはかとない胸騒ぎに変わり、不安のどん底へと気分は急降下する。
「オラ、本当にボケたのか?」
 朱鷺は家族の名を一人ずつ呟いてみる。全て言えた。今度は掛算の九九を暗唱する。何ら問題ない。ボケてなどいなかった。
 グルグルと首を回し始めた。脳ミソの片隅に固く巻かれた糸車から記憶の糸を手繰り寄せ、もつれた部分を何とか解こうともがいた。だが、脳裏に浮かんだものは、お春の顔だった。何度、初デートの場面を思い起こしてみても、必ず最後には、お春の顔が目前に大きく立ちはだかる。
「なしてだ? 今日は土曜日だよな……土曜日……」
 一旦静止し虚空を見つめ、側頭部を右、左と交互に掌で軽く叩き続けた。「ん!」
 突然、脳の中で神経同士がつながる音がして、微弱電流が脳ミソの回路を駆け巡った。ような気がした。記憶は、1975年(昭和50年)11月29日土曜日の扉を叩いた。だけでまだ開かなかった。
 今一度目を閉じ、側頭部を交互に叩きながら首を回した。目を開けた時、ホテルの白壁に細切れの活動写真が浮かんでは消える。
 ──映画館の入り口。
 ──女優。
 ──コウスケの横顔。
 次々と目の前でパラパラ漫画のように流れ去った。
 ──最後に、お春の顔!
 そこで映像は途切れる。
 朱鷺は映像と映像の間に、つじつまが合うように映像を差し込んでみた。何度も繰り返す。丁度オーケストラの指揮者のように手を振りながら。
 記憶の扉が開くのは唐突だった。
 朱鷺はトキの体から意識を抜き、俯瞰(ふかん)であの時の様子を覗いてみる。
 また突然、脳裏に雷鳴が轟いた。と同時に手を思い切り打ち鳴らした。パン、という大きな音は低く垂れ込めた雲に反射したかのように、朱鷺の鼓膜をつんざいた。
「そうだ、あの時!」
 しばらく呆然とその場に立ち尽くしていたが、気づくと、足は勝手に二人のいる場所へと向かっていた。「なして忘れてたんだ!」
 ──記憶にねえ部分を見届けねば!
 朱鷺は走りながら、ぐんぐん足を速めた。
 映画館の通りへ続く角をトップスピードで大きく弧を描いて左へ折れ、映画館の看板を目指した。

   *

 上映は済んで、出口から観客の波が押し寄せる。
 朱鷺は道路を挟んで出口の正面に立ち、二人を待つ。人の顔、顔、顔が右へ左へと分かれて行く。その中にチラリとコウスケの顔が見えた。まだ中にいて、今まさに外へ出ようとしている。コウスケの後ろにトキの姿も確認できた。
 トキは、青いワンピースを着ていた。
 二人は流れに身を任せながら、やっと外へ押し出されるように一歩を踏み出した。
 その時だった。どこからともなく、お春がコウスケの前に立ちはだかった。コウスケは目を丸くして、お春を見る。  
 お春の握っていた物が街灯に映し出された。
 朱鷺は目を見張った。銀色の光沢が光を反射する。
「ナイフだ!!」
 お春はいきなりナイフを振りかざし、コウスケに襲いかかった。すると、コウスケの背後からトキがフラフラと現れ、コウスケと並んだ。お春はトキにナイフを突きつけた。と、後ずさり、ナイフを下ろして何度も大きく首を横に振る。その表情は茫然自失といった具合である。
 ──恐らくトキの美貌に舌を巻いたのだろう。
 と朱鷺は推測する。朱鷺は心の中で勝ち(どき)を上げた。
 コウスケはトキとお春の間に割って入った。身を呈してトキをかばう。
 その瞬間、トキはその場にくず折れた。
 気絶して身を横たえたトキを、コウスケは抱き起こし、何度も、「大丈夫か!」と声をかけ続ける。キッとお春を睨みつけた。
「バカヤロー!」
 お春に一言だけ怒鳴って目覚めぬトキを介抱する。
 お春は、コウスケの怒号に一瞬肩をピクリと震わせて驚き、数歩後ずさってから急に身を翻すと、二人の前から走り去った。
 朱鷺は両手の拳を握り締め、お春のあとを追いかけた。
 あの時、朱鷺は、緊張の余り貧血で倒れたことをやっと思い出した。目覚めた時には病院のベッドの上だった。今の光景は全く覚えがない。お春があの場にいたことも。
 ──なるほど、意識の底にお春の顔は潜り込んでいたのか!
 ようやく全ての謎が解け、朱鷺は合点した。
 爺さんをホテルへと罠を仕かけ襲いかかったのは、2回目のデート、1975年(昭和50年)12月8日月曜日だ。  
 ──月曜日!
 やはりそこんとこだけは記憶違いではなかった。
 ──ボケてなどいないのだ、ざまあみろ!
 と声高に叫びたい気分だ。だが、自分としたことが、とんだ勘違いであった。ともするとお春の毒牙に若い二人を巻き添えにしかねなかった。
 ──ま、それはトキの美貌で寸でのところで免れたわけだし……
 ──この際なかったことにしようでねえの。
 と朱鷺はどこまでも前向きの姿勢を崩さない。己の失態は誰も手の届かぬ棚に上げ、朱鷺は真っ直ぐ前を向いて逃亡者を追跡する。
 お春の背を追いながら、沸々と怒りは頂点に達する。
 ──目に物見せてやる!
 朱鷺の頭の中で、お春をズタズタに切り刻むイメージが湧いた。と同時に安堵の笑みが漏れる。若い二人の行く末はこれで安泰というわけだ。何はともあれ、己自身が仲を取り持ったこの恋の顛末は、これにてひとまず終劇のくだりだ。
「メデテエやい!」
 朱鷺は思わず叫んで飛び跳ねていた。


†††「九太郎参上!」††† 

判定:ステージ1 クリア

   次のステージへ飛べ、朱鷺よ! 


         第一幕〈制覇〉
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