◆3 死後の世界──死ぬと若返るんか?

文字数 12,093文字

「おバアちゃん、これに座ってください」
 巡査が折り畳み椅子を机の横に広げ、笑顔で勧めてくれた。
 朱鷺は遠慮なく椅子に尻を押しつけ、好意に甘えた。一旦帽子を脱いで頭を撫でる巡査の顔をじっと見つめ、首を傾げる。
 六尺はあろうか、と思われるガッシリ、少々ポッチャリ気味の体躯に、ドンコ椎茸のじくの根元部分だけを突き刺し、その上には、湯がいて皮を()いた里芋風のツルンと(ぬめ)()のある色白の肌に、短冊海苔二枚、丸くってちっちゃくって三角の“いちごみるく”二つとタラコ一腹を適当にベターッと貼りつけてこしらえた、殆ど凹凸のない顔に、息ができるよう二つだけ丸い穴を開けたあと、潰して(いびつ)な形に整形した愛敬のある鼻が少々天を向く。頭の左右にモズクが申しわけなさ程度にしがみついているが、頭頂部に余分な雑草など生えはしない。手入れが行き届いているのか、光線をはね返すほどの光沢を放つ。
「あんたも、どっかで……?」
「どうかしましたか? はい、どうぞ」
 巡査は湯呑茶碗を机の上に置き、茶を注ぎ朱鷺の前に差し出した。白い湯気が立ち上っている。「火傷しないように、熱いですから」
「あんがとさんです」
 朱鷺は一瞬湯呑に視線を落としたが、すぐに上目遣いで巡査の顔から目を逸らさず、ちょこんと首を折って礼をする。手探りで湯呑をつかもうとして指先が触れ、思わず耳たぶを摘まむ。もう一度視線を湯呑に落とした。喉が渇いていたが、もう少し冷めるのを待ってから飲むことにした。
 首を左に回し、外を見た。ガソリンスタンドが一望できた。青い

の姿はない。交番の正面には大通りを挟んで小汚い駄菓子屋が建つ。アイスクリームの冷蔵庫が目に留まった。その店の佇まいに妙な懐かしさを覚え、しばらく見入った。
「おバアちゃん……」
 突然の巡査の声に振り向くと、その顔にピンときた。
「あんた、船村さんの息子さんかい?」
「おバアちゃん、私の父をご存知なんですか?」
「やっぱり船村鶴雄(ふなむらつるお)さんの息子さんですかね、そうですか……」
 朱鷺は大きく頷いた。
「鶴雄は私ですが……父は亀太郎といいます」
「カメタロウさん……?」
 その名前に心当たりは全くなかった。自分の思い違いか、とも疑ってみたが、まだ頭の方はしっかりしている、と自信は揺るがない。
 朱鷺は腕と足を同時に組んで、椅子の背にもたれ天井を仰ぎ見た。
 しばらく頭を巡らして、いきなり飛び上がるように机に身を乗り出し、巡査に詰め寄った。巡査の顔の輪郭が消えた。巡査は上体を反らせた。少しだけ朱鷺の視界が開け、顔の輪郭はぼんやりと現れる。
「あんた、ダレッ?」
 朱鷺はドスの()いた声で尋問を始めた。
「わ、私は、船村鶴雄……です、が」
 朱鷺はゆっくりと椅子に座り直すと、また腕と足を組み貧乏揺すりを始めた。その目はしっかりと自称『船村鶴雄』を捉えたままに。
 徐に手を伸ばし湯呑をつかんで、一口茶をすする。丁度飲み頃だ。ゆっくりとまた立ち上がる。一気に飲み干して、湯呑を被疑者の前に置くと、手刀を切って、目で礼を告げる。するとヤツは愛想笑いを送ってきた。こちらも一瞬だけ唇を緩ませたが、すぐさまへの字に結び直し、相手を凝視する。
 しばしの沈黙のあと、朱鷺はいきなり飛び上がり、体を右回りに半回転させながら爪先で椅子を蹴り上げ、机の上に尻を着地させると左足を立て、膝に左腕を乗せた。椅子はけたたましい音を立て床に倒れた。朱鷺は背を丸め、この不届き者を横目で見据えた。
 ヤツは両腕を宙に浮かせ、目を引ん()いて口を半開きに微動だにしない。
「ウソをつくんでねえ!」
 ヤツの横に飛び降り、机に両手を突いて船村の偽者を見下ろした。「あんた、警官だろ? ウソはいけねえよ!」
「な、なにが……ウソなんです?」
「あんたの名前は?」
「船村鶴雄です」
「そんなはずは……ねえ!」
 朱鷺は叫んだ。
「そ、そんなはずもなにも、私は……」
「本名を言わんか!」
「ほ、本名ですよ!」
 ──(しら)を切るつもりか? 
 仕方なく、ヤツの肩に右腕を回して体を揺すってみる。こっちを見上げたので、すかさずその目を視線で射抜く。一旦視線を外し被疑者から離れた。笑みを作ると、もう一度顔を覗き込み、そっとその左肩に右手を添える。そして、ギュッと握り締めると、相手の体は一瞬ピクリと痙攣(けいれん)した。
「本当のことを言って楽になれ、ソックリさんよ」
 幾分優しい口調で(さと)す。
「はあっ?」
 被疑者は飽くまでもとぼけるつもりだ。こちらの堪忍袋にも限界がある。
 ──最早下手(したて)に出る手段は通用せぬ! 
 と判断した朱鷺は思い切り息を吸い込んだ。
「まーだ、白を切ろうってえのか!」
 朱鷺の声はひっくり返った。あまりの大声に通りすがりの歩行者が交番を覗いてきた。
「お巡りさん、事件ですか!」
「い、いいえ、なんでもありませんよ。ハハハ……」
 お節介な男はすぐに立ち去った。
「おめえは誰だ? 吐けー!」
 朱鷺は依然頭上から睨みを利かす。
「なんで私が、こんな目に……」
 被疑者は俯き加減で呟くと、両手を机に突いて大きく深呼吸をした。静かに立ち上がり胸を張る。「私は、正真正銘、船村鶴雄です! いいですか? もう一度だけ、これが最後です。私が船村鶴雄なんです!」
 六尺男に見下ろされ、形勢が逆転しそうになると、朱鷺はゆっくりと倒れた折り畳み椅子を起こして開き、静かに腰を下ろした。そして今一度、外の様子をうかがった。しばらく表を眺め続けた。
「今日はええ日和(ひより)ですのお。まあ、お座りなさい。ほれ、お茶でも飲んで、くつろいだらええよ」
 満面の笑みを六尺男に向けた。
 と、六尺男は柄にもなく真っ赤な顔で椅子に座り直した。ばつが悪そうに帽子を脱ぎ、頭を撫でる。朱鷺は微笑んだままその仕種を見守った。相手はチラッと朱鷺に視線を送る。
「おバア……」
「あんたは船村鶴雄さんですな!」
 朱鷺は船村の言葉を制して真顔で叫んだ。
「は、はい!」
 朱鷺の声に怯えたようにまた体を痙攣させながら返事をした。
 ──死人にしてはちと気弱すぎではないか?
 だが、さすがに生前は凛々しい警官だったと見える。立派な返事に朱鷺は感心した。
「オラは、死んだんですな」
「はあっ?」
「ここはあの世ですな?」
「お、おバアちゃん? そうか、やっぱり……」
「あんたも死んでおる」
「おバアちゃん、おうちはどこですか?」
「おうち?」
「はい」
「死んだらどこへ行けばええんじゃろうか? 連れて行ってくれんかのお、あんた」
「おバアちゃんは、ご自分が死んだ……と思い込んでいるんですね?」
「はい、死にました」
「大丈夫ですよ。おバアちゃんは死んでいません。元気です。元気すぎるくらい……」
「いんや。あんた、オラを慰めとるつもりじゃろうが、あんたが死人ということは百も承知」
 船村はまた帽子を脱ぎ、頭を撫でる。
「困りましたねえ。おバアちゃん、ご自宅の住所、分かりますか?」
「はいな」
「よかった。それじゃ、教えてくれますか?」
 船村は慌てた様子で鉛筆をつかんだ。
「生前に住んどったとこですな?」
「はあ……ま、そうです」
 朱鷺が住所を告げると、船村は地図を引っ張り出して、今書き留めた住所と照合する。「あのう、どの辺りなんです?」
「なにが、ですかな?」
「おバアちゃんのおうち、は……」
「丘のテッペンです」
「丘の……どこの丘ですか?」
 船村は地図に視線を落としたまま尋ねてきた。
「決まっとります」
「この辺りで丘といえば……」
 船村は顔を上げ、外を見やる。「その通りを右に行った先の、鳥の巣山という小山だけですが……」
「なんと、鳥の巣山とな! ここはなんという地名じゃろうか?」
鷹鳥(たかとり)町ですが」
 頭は混乱した。だが朱鷺にはすぐに混乱を鎮め、思考回路を正常に戻す習性がある。
 機敏な動作で首を回し、外の景色を見た。
 正面に駄菓子屋、『藤野商店』の看板が目に入った。ガソリンスタンドが見える。朱鷺の目は『メジロ石油』のロゴの看板を捉えた。黒丸に白い縁取りの単眼が高所より睨みを利かす。看板の上で九官鳥が一羽こちらを見下ろしていた。九太郎によく似ていて頭のテッペンがハゲている。
 朱鷺には見慣れた風景だった。ここは確かに自分の住む町だ。だが随分昔の風景である。
 朱鷺は突然交番の外へ飛び出した。右に折れ、通りの角まで駆けて立ち止まり、鳥の巣山を望んだ。
 船村もあとを追ってきて横に並んだ。
「あの山にオラの家があります」
 鳥の巣山の頂を指差す。
「あそこに、住宅なんてあったかなあ?」
 船村は首を傾げ朱鷺を見る。
「山のテッペンにジイさんの建てた家が……」
「そう、ですか……」
 船村は腑に落ちない表情だ。
 朱鷺はクルリと身を翻して、また走り出した。
 交番の中へ飛び込むと、茶を()れ椅子に座ってすする。
 しばらく経って荒い息遣いがドテドテと近づいて、朱鷺の背後を蟹歩きで窮屈そうにすり抜け、「どっこいしょ」と年寄り臭い一言を放ち、制服で包装された肉塊は机と椅子の間に挟まった。元の場所に腰を落ち着け、安住の地を確保した船村は、(あえ)ぎながらハンカチを取り出すと、帽子を脱ぎ、顔から禿げ上がった頭頂部へとハンカチを滑らせ、汗を拭った。動く度に、自ずと巨体が前後に揺れる。
 朱鷺は船村の様子に見入った。
 いっとき沈黙があって、一度深呼吸をして息を整えた船村がこちらを向き、口を開きかけた瞬間、朱鷺が叫んだ。
「あんた、いつ死んだ!」
「ハッ!」 
 まあるくってちっちゃい三角目の辺を膨らませ、船村の肩がピクリと振動した。「私はこの通り、ピンピンしてます……」
「ここはあの世ですからな。あんた、まさか? そうですか、かわいそうに……自分が死んだことに気づいとらんとは……」
 朱鷺は船村を哀れんだ。
「そうか、やっぱりおバアちゃんは、ボケてるんですね。かわいそうに……ご自分が死んだと思い込んで……」
 船村は小声で同情するような表情をこっちに向けてきた。
「あんた、なにブツブツ言うとる? オラ、ボケとらんよ」
「そ、そうですね……」
 朱鷺は、何で死んでからボケるんだ、と舌打ちした。貧乏揺すりをしながら交番の中を見回す。何度か船村が声をかけてきたが、無視して返答しない。
 業を煮やしたのか、船村は困惑した顔で頭を撫で回し始めた。
「そのハゲ具合じゃと、あんた二十八ぐれえかなあ……? 三十の時はつるっパゲじゃったから。若返ったもんじゃな。死ぬと若返るんか?」
「はい、私は二十八です。よく分かりましたね」
「じゃから、ハゲ具合で……」
 船村は少しムスッとした。
「三十の時はつるっパゲ……どうして私の未来が分かるんです? おバアちゃん、預言者みたいですね」
 船村は笑いながら首を横に振る。
「あんた忘れたんか?」
 自分の過去を忘れるとは、この男も無責任だ、生前は警官のくせに、と朱鷺は呆れた。「あんた、刑事志望じゃろ?」
「そうですが……」
「やっぱりな、確か、三十で希望は叶うはずじゃったが……二階級特進よ」
「ん? 聞き捨てなりませんね。殉職ですか?」
「はいな。夢は果たせんじゃった」
「なぜです?」
「殺される」
「誰に、どうやって?」
「事件は解決する。あんたの手柄で」
 船村は呆れ顔だ。
 船村の表情から推察すると、本当に過去を忘れたらしい。
 ──それならば!
 朱鷺は、昔、噂で聞いた船村の捕物劇を話してやることにした。朱鷺の記憶には曖昧な箇所があったが、そこはサービスでフィクションもない交ぜにせねば、船村に失礼のような気がした。
 犯人は西脇善行(にしわき よしゆき)という鷹鳥警察署・組織暴力対策課・第一係の刑事だった。役職は係長。
 収賄の事実が明るみになるや、証拠隠滅を(はか)って、贈賄側のある組織の幹部を崖から突き落とし殺害した。口封じは完璧に思えたが、船村巡査の勤務するこの鷹鳥中央交番に、目撃者を名乗る女から電話が入った。女は西脇に殺害された幹部の情婦だった。捜査一課も内偵を進めており、船村も加わって捜査が続行された。女の身の安全を保障することを条件に、女から証言を得ることに成功した。船村の尽力のお陰だった。逃亡を企てた西脇を船村が追跡した。港に先回りして待ち伏せ、フェリーに乗り込む寸前に取り押さえワッパをはめた。事件は無事解決したのだ。船村が事件解決後、被害者の御霊に花を手向けに殺人現場を訪れたある日……。
 ここで朱鷺は話の腰を折った。この先の記憶が曖昧なのだ。今までの話の中で、もちろん登場人物の実名は一部、船村には伏せておいた。
「ほう、そんな手柄を、この私が……」
 船村は満更でもなさそうな顔つきだ。
「あんたは優秀な刑事じゃもの」
 ──生きとったならな、ナームー……
 と心の中で呟く。
「ありがとうございます。でも、身内を逮捕とは、ちょっと悲しいですね」
 船村の表情が柔らかくなった。
「あんたは優しい人じゃな、動物好きじゃろ?」
「はい」
「犬には気をつけにゃならんよ」
「犬……なぜです?」
「そうじゃよ、大型犬には近寄らん方がええ」
「私が殺されるのとなにか関係でも?」
「崖の上に立たんことじゃよ」
「崖? 被害者が殺害されたという……」
「そう、崖の上から被害者の御霊に花を手向(たむ)ける。あんたは、ほんに、ええ人じゃ」
「当然の行為です」
「その時なんじゃ」
「その時?」
 船村は身を乗り出した。
「あんたは突き落とされる」
「誰に、です? 許せませんね、ハハハ……」
 船村は、やれやれという表情で朱鷺に笑顔を見せる。
「決まっとる。犬よ」
「犬?」
「そう、シェパードよ」
 それは定かではなかったが、妥当だろうとシェパードに決めた。
「警察犬の?」
「いんや、あんたの犬じゃよ。一緒に連れて行ったんでねえか。あんたにじゃれつこうとして、あんたはその拍子に足を滑らせて、ストン! よ」
「まさか」
 船村はまた笑った。
「大型犬は飼わんことよ。シーズーぐれえにしときゃ、よかったのに……」
「それじゃ、仕方ありませんね。誰も恨むことはできませんね」
「そう、悲劇よ。なんと運の悪い人じゃろうな。けんど、ま、安心したらええよ」
「なぜ?」
「葬儀にはたくさんの参列者が集まるからな」
 ──たぶんそうだ。
 朱鷺は自分の話しぶりに段々酔ってきた。こうなったら事実でも嘘でも同じことだ。
「この町の人々大多数。町の有力者全員。町長に県知事。警察署長に本部長もだ」
「ほう、さぞかし立派な葬儀だったんですね……」
「そうよ、そんだけ、あんたは皆から慕われとったんでねえか」
 朱鷺はしみじみと亡き船村巡査、いや、二階級特進を無事果たした、船村警部補の顔を思い浮かべて、目の前のまだ死んだことに気づかぬ船村の顔を、遺影に見立て、拝み始めた。「ほんに惜しい人を亡くした。船村さんよ、成仏してくだされやー……ナンマンダー!」
「おバアちゃんの話しぶり、真に迫ってて……まるで事実みたいに……」
 船村は苦笑した。
「本当のことですから。オラ、ウソつかねえ。あんた、しっかりしなされ、ここは死後の世界でねえか。オラのジイさんもそこにいるし……」
「おジイさんとご一緒なんですか?」
「はいな」
「どこにおいでです?」
「知りません。さっきまで一緒だったのに。オラをここに置き去りにしてドロンしました」
 朱鷺はさっきまで一緒だった爺さんを思い起こした。
 太めのサツマイモの土台に比較的タレたゲジゲジ眉とどんぐりまなこがほどよく均整が取れている。イモの真ん中に無理矢理深く突き刺し、めり込ませたニンジンの尻に穴が二つ並んで呼吸する。イモは尻すぼみに細くとんがってくるが、下四分の一は両側が角張って顔全体のシルエットは長方形に映る。額は広めでやや後方へなびき、左右の天然の剃り込みは、これからハゲるぞ、という意志を強固に主張している。と、朱鷺は見た。
 筋骨質の長めの胴体を蛙並みのガニ股足が二本で支えている。普通に短いのに蛙の真似なんぞするものだから余計に短く見えてしまう。首を前に突き出し、少々猫背気味にいかにも重そうに引きずり歩く。蛙の親類か、と見紛うほども敏捷性も跳躍力もないのは誰の目にも明らかだ。
 それにしても爺さんは若かった。こちらの世界では若返るのだ。
 ──そんなら自分も!
 朱鷺は期待に胸を膨らませた。
「もしかして、籠野君のことですか? おバアちゃんのご主人だと……」
 船村は怪訝な表情を浮かべた。
「はいな。どうりで見覚えあると思ったんだ。オラの亭主だったとは、今の今まで気づかんかったわ。はあ、情けねえ!」
「おバアちゃん、おいくつです?」
 船村は声高に笑う。
「八十七だ」
「あの籠野君は、まだ十九ですよ」
「あれま、そうですか。やっぱり死んだら若返るんでねえか」
 朱鷺はモンペのポケットからコンパクトを取り出して、顔を映してみた。期待もむなしく全然若返ってない。「なしてオラだけ年寄りのままなんだ?」
 朱鷺は鏡を覗きながらしばらく自分の世界に浸った。
「おバアちゃん、どうしました?」
 船村の問いかけにコンパクトをずらし、死人の顔をまじまじと見た。
 ──どう見ても若い!
 それもそのはず、船村は若くして死んだのだ。だが、爺さんは違う。八十九歳で死んだ。そして十九歳まで若返った。
 ──何で自分だけが……?
 朱鷺は次第に苛立ってきた。
「ジイさんは一週間前に死んだ。八十九だぞ。そんで初七日の法要を済まして、オラ、ジイさんのあとを追った。気がついたらあの世でねえか。ジイさんも船村さんもあの世で若返ったというのに、オラだけバアさんのままだ。なしてだ、あんた、分かっか?」
 朱鷺は、頭の後ろで手を組むと、足を伸ばし、背もたれに背中をグリグリと押しつけた。そして、両手を上に伸ばし、背伸びをしながら欠伸をする。
 船村は首を横に振りながら溜息をつくと、腕組みをして天井をチラッと仰ぎこっちに顔を向ける。
「困りましたねえ。ご自宅もどこか、お分かりにならないし。ねえ、おバアちゃん、電話番号、言えますか?」
「はいな」
「そうですか、ご家族に迎えにきて頂きましょう。じゃあ、教えてください」
 船村の表情が明るくなった。
 朱鷺が電話番号を告げると、船村はすぐに受話器をとり、ダイヤルを回した。カシャカシャと黒電話のダイヤルの回転音が朱鷺の耳に懐かしく響いた。船村は首を傾げながら、渋い顔つきで受話器を戻した。
「出ましたか?」
「いいえ、それが、こんな番号はありませんでした」
「そうでしょうとも」
「どうしてウソを?」
「ウソじゃねえよ。ここはあの世ですから通じねえよ」
 船村はこっちを向いて、もう一度溜息をついた。
「弱りました。おうちも分からない。電話もダメ。ご家族は今どこに……」
「いません」
「行く当てもない、か……」
 船村はがっくりと肩を落とした。
「いいえ」
「えっ! あるんですか?」
「はいな」
「そうならそうと、早く言ってくだされば……」
「あの世ですから、どこへでも思うがままでねえか」
「はあっ?」
「ここはオラの若え頃の町とおんなじだ。若返ったジイさんとも会えたし、オラ、これからジイさんと暮らしますんで、心配はいらん」
「おバアちゃん、本当にご自分が死んだと思ってるんですねえ……」
「あんた、自分が死んだことにまだ気づいとらんのか?」
「私が死ぬもんですか。おバアちゃんもね」
「あんたもオラも、死んどらん……とな?」
「その通り。おバアちゃんになにがあったか私には分かりません。おバアちゃんは、きっと疲れてるんですよ。それで、頭が混乱して死んだと錯覚してるんです」
「オラの頭が、混乱?」
「大丈夫です。私が病院に連れてってあげますから、安心してください」
「オラが死んどらん?」
「そうです。至ってお元気です。元気すぎて……」
「じゃあ、なしてオラこんな所におるんじゃろ? 若え頃の……今いつなんだ?」
「今は、昭和五十年の十一月八日です」
「昭和? 五十年だと……」
「はい、一九七五年です」
「七十年前でねえか」
「七十年前?」 
 船村は(うす)ら笑いを浮かべる。「それじゃ、おバアちゃんは今から七十年後からやってきたと……タイムマシンにでも乗って?」
「タイムマシン? ええか、ただオラは昭和五十年なんて七十年前だと言っただけだ!」
「だから、未来からやってきたんですねって、私は言ってるんですよ」
「そんなことありえねえ! 全くなにを言ってんだか……」
「そうですよね、そんなことありゃしない。ですから……」
 船村は途中で言葉を切り、肩を落とした。
「ハテ? どうしたこったろ」
 朱鷺は天井を仰いで何度も首を傾げる。「夢……か?」
「夢……ですって?」
「オラ、もしかして、夢見てんのかな?」
「そうかもしれませんね。夢だなんて、おバアちゃん、うまいこと言いますね。夢の中なんですねボケてる人は、なるほど……」
 船村は大きく頷いた。
「船村さんよ」
「なんです?」
「ちょっくら、帽子脱いでもらえねえか?」
 朱鷺はそう言いながら立ち上がった。
「こう……ですか?」
 船村は戸惑いがちに警帽のツバに手をかけ、素直に従った。
 朱鷺は澄まし顔で船村を見据えながらちょこんと首を折って頷く。船村の頭のテッペンをじっと見つめる。ゆっくりと腰を上げて移動し、船村の横に立つ。船村はこっちを見る。
 船村の頭は、朱鷺の目線とほぼ同じ高さだ。朱鷺は一度背伸びをして頭頂部を覗き込んだ。
 急いで椅子を船村の横に並べて置くと、その上に立つ。これで朱鷺が断然優位に立ったわけだ。
 朱鷺は右肩をグルグル回し、指の関節を鳴らした。右向け右で、体ごと船村の方に向くと、船村を見下ろし、入れ歯を剥き出しにして笑った。相手もそれに応え、微笑んでくれた。
 一旦、朱鷺は真っすぐ前を向いて深呼吸を繰り返す。
 もう一度船村の頭頂部を覗き込んで右手を高く振りかぶった。と、椅子の上で飛び上がり、落下と同時に右の掌を船村の頭頂部めがけて思い切り振り下ろした。
 着地した時、少しバランスを崩したが、すぐに体勢を立て直すと椅子の上にすっくと立つ。
 船村の手から帽子が床に転がり、机の左側に回り込んで止まった。船村は両手で頭を抱えもがいている。
 朱鷺は椅子からヒョイと飛び降り、元の位置に椅子を据えると腰かけた。じっと手を見る。
(いて)えなあ……」
「い、痛いのは私の方です! なにをするんです!」
 朱鷺は右の掌を見つめながら首を傾げる。ふと、船村を見ると、頭をさすりながら色白の里芋が茹蛸(ゆでだこ)に仕上がっていた。
「痛えなあ。あんたも痛かったか?」
「あ、当たり前でしょ! なんのつもりです!?」
「なんでもねえ。悪気はねえのさ、確かめただけだもの」
「どういうことです!」
 船村は頭をさすりながら鋭い目つきに変わった。
「夢だったら、痛くねえと思ってよ。そしたら、痛えんだ、どういうこったろうな?」
 船村は何も答えずムスッとしたまま、何かを探し始めた。
 朱鷺は机に頬杖を突いて、船村の行動を監視する。
 船村と目が合った時、左手は頬杖を突いたまま、右手の人差し指で自分の椅子の下を指し示してやった。
 船村は朱鷺の指差す方向を覗いて帽子を確認したあと、座ったまま、机の角に右手を突き、左手を朱鷺の椅子の下へ潜らせ、モゾモゾと手探りでつかもうとする。
 船村の頭頂部が眼前に迫った。朱鷺はこの時とばかりに、じっくり観察を始める。丁度ハゲ山のテッペンに紅葉が始まっている。船村の頭に触れぬように注意を払いつつ、そっと右手を広げ重ねてみた。当然ながらピタリと符合する。
 ──見事だ!
 ──肉づきのよい頭に、次第にくっきりと色づく紅葉(もみじ)
 朱鷺は秋の深まりを悟った。
 船村はようやく帽子をつかむと、姿勢を正して頭に載せ、机の上に肘を突き指を組んだ。鋭い視線を真っすぐ外に突き刺し、凛々しい横顔を見せてしばらく黙りこくった。ちょっと俯いてから朱鷺に顔を向けてきた。
「おバア……」
「さて、オラ帰ろう」
「ええっ!」
「世話になりましたな」
 朱鷺は立ち上がると、深い皺が刻まれた顔を更に皺くちゃにして船村に笑みを向ける。
「どこへ?」
 船村も立ち上がった。
「決まっとります」
「当てでも、あるんですか?」
「はいな」
「どこ……です?」
「それは……」
 朱鷺は少し考えてからあとを続けた。「秘密です」
「おっしゃって頂かないと……本当に?」
「はいな」
「じゃあ、どうして黙ってたんです?」
 船村は怪訝そうにこっちを見る。
「ハテ? 言わんかったですかな……」
 朱鷺は、目だけを天井に向け、激しく瞬きを繰り返した。
「はい」
「ハッハッハッハー……あーあ。あんたと喋っとったら面白うて、つい、忘れてしもうたんじゃろうな。あんた、ええ人じゃもの」
「まさか、私をおちょくったりは……」
「優しい人じゃな。ええ男じゃ、ほんに……」
 船村の傍に歩み寄ると、船村の左腕を撫でながら満面の笑みで何度も頷いた。
「どうも……」
 船村は帽子を脱ぎ、少し俯き加減で、禿げ頭を二度撫で、引きつった微笑を見せた。
 もう一度船村の頭を覗き込んだ。
 ──紅葉(もみじ)の葉っぱは赤かった!
 不意に、船村の右手を取って自らの両手で包み込み、しっかりと握り締める。
「あんた、元気でいてくだされ。ええですな!」
「はっ!」
 船村は慌てて帽子を被り直す。条件反射でその背筋がピンと伸びた。
 手を解くと、朱鷺は一歩下がって気をつけをした。三度礼を繰り返した。きびきびとした動作で十五度の角度で腰を折る。最後の一礼は深々と頭を下げた。
 船村も朱鷺につられ、一度だけ同じ礼をした。
 急に踵を返し、交番の外へ出た。一旦、その場で直立不動になる。機敏に回れ右をして船村と向かい合うと、敬礼をした。
 船村もまた朱鷺につられ、慌てて、こちらに敬礼を送る。船村は身じろぎ一つせず、朱鷺から決して目を離そうとはしない。
 ──さすが警官だ!
 朱鷺は感心する。
 朱鷺は敬礼の姿勢のまま、左へとすり足で移動し、船村の姿が見えなくなると、また交番を覗き込む。船村は既に入り口付近まで移動していた。
 ──さすが柔道の心得があるな!
 朱鷺は感服した。
 突然、朱鷺が再び姿を現したことに、船村は少し驚いているようだった。しばらく無差別級の船村と対峙する。と、朱鷺は急に愛想笑いを送る。
「どうそ、中へ。お疲れでしょうに、座ってくだされ」
 七変化の声色のうち、声帯の奥から適当に引っ張り出して舌先に乗せ、ねぎらうように奥の方へと促してやる。
 船村は、朱鷺の行為を素直に受け取ったようだ。 
 のっそりと回れ右で奥へ引っ込もうとして、こちらに背を向けた瞬間、朱鷺は抜き足差し足で、数歩だけ左にずって、船村が気づかぬうちに一目散に駆け出した。
 通りの角まできて、建物の影から交番を確認する。
 船村は表に出て、キョロキョロと辺りを見回している。自分を捜索していることは承知だ。船村がこちらを見た時、咄嗟に建物の影に身を隠した。正面に鳥の巣山が目に入った。テッペンを見る。
 青々と草木が茂っている。住宅は一軒も建っていない。無論、爺さんの建てた家もまだない。辺りを確認する。やはり昔の街並みだ。
 朱鷺の頭は混乱していたが、臨機応変というか、柔らかいというべきか、素直な感性で現状を把握した。
 朱鷺は考えあぐねたが、とりあえず鳥の巣山を目指してみようと思った。
「こりゃ大変じゃ。七十年も(さかのぼ)ってしもうたんか……どうしたもんか? ま、どうにかなるわ。考えても仕方ねえ。さてと、どこへ行こうか……あそこか? あそこだな! やっぱ、あそこしかねえ! 待ってろ、今行くから」
 朱鷺は独りごちながら名案が(ひらめ)いた。鳥の巣山とは百八十度方向転換して、今きた道を戻らねばならなくなった。もう一度交番を確認する。表に船村の姿は見えない。
 早速、屈伸運動を始める。次に、アキレス腱を伸ばし、足首をグルグルとこね回した。その場で膝を交互に高く上げる。
 ──ウオーミングアップは完璧だ!
 再び交番の方向を覗く。
 ──ヨッシャ、大丈夫!
 船村は中へ引っ込んだままだ。
 朱鷺は大きく深呼吸をした。
 ──ヨーイ・ドン!
 心の中で叫んだ。と同時に全力疾走した。
 丁度交番の前でトップスピードに達した。歩行者をぶっちぎり、対向者をうまくかわし、この区画の端から端までを駆け抜けた。目測で百メートル弱の距離だ。
 赤信号で立ち止まり、汗を手の甲で拭いながら街並を眺めた。懐かしさが込み上げてくる。
 信号が青に変わった。荒い息遣いで横断歩道を渡る。
 すれ違い様に、誰もが朱鷺を振り返る。最初、なぜかは分からなかったが、皆の視線はどうやら朱鷺のモンペに集中している。この時代の人間はモンペがかなり珍しいようだ。だが他人の目など気にしている場合ではない。もっとも、(いま)(かつ)て気にしたこともないが。
 朱鷺は目指す場所へと一心不乱に歩いた。
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