【九十五丁目】「…宜しいのですか？」

「ならば…ほれ、持っていくがよい」

　その言葉と共に放られたパイビスカスの花束(ブーケ)を受け止め、黒塚(くろづか)（鬼女(きじょ)）は困惑した表情になった。

　「六月の花嫁大戦(ジューンブライド・ウォーズ)」
　その第三幕の舞台となったのは「ウィンドミル降神(おりがみ)」の園内にある自然林「木陰の森」だ。
　花束(ブーケ)を探すうちに、黒塚は通常と違う、それでいてどこかで知っているような妖気を感じた。
　それを辿り、彼女が森を訪れると、そこには「木の宮」の「守護花嫁(ガーディアン・ブライド)」を名乗る一人の女性が黒塚を待っていた。
　その女性の正体を知った黒塚が目を丸くする。

「樹御前(いつきごぜん)！貴女が何故ここに…!?」

　そこに居たのは“彭侯(ほうこう)”こと“北無(きたなし)の森”の守護者、樹御前だった。
　しかも、いつもの十二単(じゅうにひとえ)姿ではなく、純白の白無垢(しろむく)姿だ。
　黒塚もうらやむ程の美しい玉虫色の光沢を放つ黒髪は、今日は綿帽子に覆われており、古式ゆかしい花嫁姿になっている。
　元々、人外の美貌を誇る美姫であるが、清楚な花嫁衣装に身を包んだその姿は、輪を掛けて美しく輝いていた。

「来たか。ほう…そなたも花嫁衣装になっていようとはな。まっこと美しいぞ、鬼女よ」

　黒塚のドレス姿を認め、樹御前が目を細めてそう称賛する。
　それに黒塚は少しばかり赤面した。

「お戯れを。それにこれは成り行き上、やむを得ない事情がありまして…」

「ほほほ…恥じることはあるまい。事情がどうあれ、美しいものは美しい。そうであろ？」

「…は。そのお言葉は有り難く頂戴いたします」

　そう言いながら、会釈をする黒塚。
　以前「天逆毎(あまのざこ)事件」の折りに、助力を請いに伺った時もそうだが、この美姫の放つ「王者の気風(ロイヤルオーラ)」には、さすがの黒塚も思わず臣下に似た対応をとってしまう。
　実際、古妖の類としては相当な時間を生き、地元の神社では祭神と同一視され、信仰を集めている特別住民(ようかい)である。
　それだけに、放たれる妖気も桁違いだった。

（道理で妖気の質が違う筈だ。彼女は精霊に近い存在だからな）

　内心、そう納得する黒塚。
　そうしてかしこまっていると、樹御前は傍らにあった黄金の花束(ブーケ)を手にした。

「そなたの目的はこ(・)れ(・)かえ？」

「！」

　黒塚が思わず目を見張る。
　その様子に微笑むと、樹御前は冒頭の一言を添え、あっさりと花束(ブーケ)を手放したのである。
　放られた花束(ブーケ)を受け止めてから、樹御前に目をやる。
　すると、樹御前は微笑を浮かべたまま言った。

「どうしたのじゃ？それを手に入れるために、そなたはここに来たのではないのか？」

「い、いえ。それはその通りなのですが…」

　黒塚は相手の真意を計りかね、言葉を詰まらせた。

「…宜しいのですか？」

「よい。妾(わらわ)も長生きをしておるが、ま(・)だ(・)死(・)に(・)た(・)く(・)は(・)な(・)い(・)のでな」

　黒塚は苦笑した。
　確かに、仮に樹御前と戦闘になった場合、黒塚の持つ妖力の性質上、優位に戦うことは出来るだろう。
　もっとも、周囲が森林であることを考えれば、それでも危うい相手ではあるが。
　樹御前は続けた。

「それに、砂かけ婆が何やら企んでいたようじゃが、付き合ってやるのももう頃合いじゃろう…じゃが、せめて枯れるまではどこかに生けてやって欲しい。そ(・)や(・)つ(・)ら(・)もそれで本望じゃろう」

　黒塚の腕の中にある花束(ブーケ)に目をやりながら、そう伝える樹御前。
　黒塚はその言葉の意味に気付いた。
　樹御前は樹木など植物を統べる存在でもある。
　そんな彼女だからか、この花束(ブーケ)の扱いを案じているのだろう。
　無論、花束(ブーケ)の意味合いは知っているのだろうが、植物の生命を奪った行為には変わりはない。
　黒塚は頷いた。　

「職場で大切に飾らせていただきます」

　神妙な表情で律儀にそう答える黒塚に、樹御前は不思議なものを見るような顔つきになった。

「何か…？」

　黒塚がそう尋ねると、樹御前は再び微笑した。

「そなたは不思議な鬼じゃな」

「…そう、でしょうか…？」

「うむ。妾も長く生きた故に、数多の妖怪を目にしてきた。無論、鬼もな」

　遠い風景を思い浮かべるように、樹御前は木漏れ日に目を向ける。

「大抵の鬼は、人に仇なし、残虐極まりない連中じゃったが…いや、失言じゃったな。すまぬ」

　黒塚の表情に陰(かげ)が差したのを見て、樹御前は口を閉ざした。
　目の前の鬼女が、どんな逸話を持った存在か思い出したのだ。

「…いいえ。気にしておりません。それに事実ですから」

　そう口にしたものの、黒塚の口調は固い。
　樹御前は溜息を吐いた。

「自分の迂闊さを棚に上げて何じゃが、晴れの舞台にそのような顔をするでない。せっかくの花嫁衣装も萎(しお)れてしまうぞ？」

「…はい」

　今度は黒塚が苦笑する。
　それに樹御前が続けた。

「…のう、鬼女よ。そなた、今の世をどう思う？」

　不意にそう聞かれ、黒塚は沈黙した。

「妾はな、今の日々を楽しんでおる」

「楽しんで、ですか？」

「そうじゃ。知っての通り、妾やそなたのような妖怪は衰退し、その影も薄らいでいた。しかし、どういうわけか妾たちはこの世にこうして舞い戻って来た」

　樹御前は自らの掌に目を落とした。

「とっくの昔に消え失せたと思っていた妾の意識、身体…それがこの神秘の薄れた世に、奇跡的に復活したんじゃ」

「…」

「人の世はかつての名残も残らぬ程変わってしまった。山も川も森も…失われたものはあまりに多い。本来、妾たちはそれを嘆くべきなのじゃろうな」

「…はい」

「しかしの、実は妾たちも変わりつつあるのではなかろうか？とりわけ妾は、今のそなたや他の妖怪達を見ていると『昔を想う心』と共に『今を受け入れようという心』が芽生え始めておる気がしてならぬ」

　樹御前は黒塚を見た。

「そうでなくては、そなたもそのような花嫁衣装は身につけまい？」

　悪戯っぽく笑う樹御前に、黒塚は笑い返す。

「それは貴女もでしょう？」

「そうじゃったな」

　しばし笑い合うと、樹御前は続けた。

「今生、妾たち妖怪も変わりゆくのかも知れぬ…しかし、同時に妾たちはかつて在った遠き昔と変わらぬものを、今も持っていると思っておる」

「それは？」

　黒塚の問いに、樹御前はウインクして見せた。

「『現在(いま)を楽しむ』というお気楽さじゃよ。どんな時代に在れど、妾たちはその気持ちだけは変わらず持っているのじゃ。じゃからこそ、昔を思いながらも、変わり果てた今の世も楽しめる」

「そう、ですね…」

「…そなたも今を楽しんでおるようじゃな」

　そう聞かれ、黒塚は一瞬躊躇(ためら)いつつも、しっかりと頷いた。

「ご存知の通り、色々と騒がしくはありますが」

「それこそ重畳…鬼女よ、そう言える今のそなたは、やはり美しい」

　眩しいものを見るように、目を細める樹御前。
　決して消えることのない罪(とが)を背負いつつも、それに押し潰されず今の世を生きる…目の前の鬼女は、その道を選んでいるのだ。
　その道は、一人では進み行くことは難しい。
　だが、樹御前は思い出す。
　かつて、雉鳴山(じめいさん)で見た黒塚とその仲間達の姿を。
　そう。
　いま、彼女は独りではない。
　もはや、血に染まった岩屋が、彼女の心を閉じ込めることも無いだろう。

「さ、早う行け。事情は知らぬが、何やら急いでいる様子。妾も役目は終えたことだし、早うこの宴を楽しみたいのでな」

「はい…では、これで」

「うむ。他の皆にも宜しくの」

　背を向けて走り去っていく黒塚とその腕の中の花束(ブーケ)を見送り、樹御前はそっと呟く。

「『命短し恋せよ乙女　紅き唇　褪(あ)せぬ間に』か…ふむ、やはり花は恋する乙女にこそ似合うの」

　雉鳴山での最終決戦。
　樹御前は、乙輪姫(いつわひめ)（天逆毎）と最後の一騎打ちをしていた黒塚の姿を思い出していた。
　あの時、かつての伝承にあった通りの凄惨な姿のまま、自らの妖力【鬼偲喪刃(きしもじん)】で優位に立っていた黒塚は、あ(・)る(・)一(・)人(・)の(・)男(・)の姿を目にした瞬間、妖力を維持する力を失ってしまった。
　それが何を意味するのか。
　樹御前はふと微笑む。

（…鬼にも、猫(・)を(・)被(・)り(・)た(・)い(・)相(・)手(・)がおる…か）

　そうして、鼻歌を口ずさみながら、彼女も歩き始める。
　木漏れ日は段々と広がりを見せ、行く手には賑やかな宴の会場が見え始めていた。

「さて…それでは、妾も次は『うぇでぃんぐどれす』とやらを試してみるかのう」