【百一丁目】「それでも『誰か』を憎まないのですか?」
文字数 9,904文字
地面に放り出された僕…
その優勝者が決定されようという最中、僕は当の優勝者である謎の銀髪眼鏡美女に誘拐されてしまった。
会場のステージ上で、煙幕によって視界を奪われた中、両手足を呪符で拘束され、突然現れた巨大な鳥の爪に引っ掴まれた僕は、程なく空の上を飛翔した後、小高い丘の上に放り出されたのだ。
そこは「ウィンドミル
この丘は天気の良いこんな日には、彼方に蒼い海も見渡せる場所だ。
その丘の上にある白亜の神殿の中に、僕は放り出されたのである。
大した高さではなかったが、そこそこ痛い。
痛みに顔をしかめていると、巨大な鳥は瞬時に消え失せ、一枚の呪符と化した。
そして、呪符は鳥の背に乗っていた銀髪の眼鏡美女の手に収まった。
「乱暴にして御免なさいね、十乃 巡さん」
薄く笑いながら、美女がそう言う。
呻きながら何とか身を起こすと、僕は美女を見上げた。
「貴女は…!?」
「私は凍若衣。
そう名乗ると、凍若衣と名乗った女性は、短く呪文のようなものを唱えた。
同時に、両手足を束縛していた呪符が燃え上がり、僕は自由になる。
やれやれ…イベント中に二弐さんに突然拘束されて以来の自由だ。
しかし、こんなタイミングで自由にされても、素直に喜んでいいものか困るが。
「“舞首”…では、貴女は
「ええ」
凍りついた滝のような銀色の髪を掻き上げながら、凍若衣さんが頷く。
僕は続けて尋ねた。
「こんな所に連れてきて、僕を一体どうするつもりですか?」
「率直に言えば、
………完全に予想外の答えだ。
しかも、彼女が向けてくる氷のような視線からして、どうやら冗談とかドッキリとかというわけではないみたいだ。
予告なしで命の危機にさらされることになったが、僕は気を取り直して、再び問い掛けた。
「あの…何故でしょう?」
「済みませんが、
そう言いながら、凍若衣さんは懐から数枚の呪符を取り出し、扇のように広げて見せると、ヒラヒラと煽ぎ始めた。
…どうやら、 僕のことをすぐにどうこしようという気は無いようだ。
よし…ならば、もう少し相手の真意を探ってみよう。
幸い、相手は僕との会話に乗ってきている。
ひとまず、この流れを絶やさずにいくしかない。
僕は、彼女の発した一言に食いつく素振りを見せた。
「
「ええ。分かりやすく言えば『殺し屋』ということです」
うわあ。
「殺し屋」って、本当に居るんだ。
漫画や小説の中には、ごまんといる存在だけど…まさか、本物を目にすることになろうとは。
あっさりと白状する凍若衣さんは、僕に向かって続けた。
「先程『理由は知りません』とは言いましたが、経験上の推測でなら何となく分かりますよ?貴方、誰かから恨まれたりしていませんか…?」
僕は考え込んだ。
ごく普通に日常を生きている一小市民としては、仮に知らずに誰かの恨みを買っていたとしても、そんな物騒なことを考える人物に心当たりがない。
考え込む僕に、凍若衣さんはクスリと笑った。
「例えば『誰か』の邪魔をしたとか?」
「そんなこと…」
言いかけて、僕ははたとあることに思い至った。
「
そう言われると…実は思い当たる節は無いわけではない。
ただ、その「
…いや、ちょっと待てよ。
仮に
「…どうやら、少しは思い当たる節があったようですね」
呪符を煽ぎながら、冷たく微笑む凍若衣さん。
「人の良さそうな顔をしている貴方も、結局は誰かの恨みを買い、そして誰かを憎まないと生きていけない…つくづく滑稽で哀れですね、人間というのは」
「…え?憎む?」
「ええ。だって、貴方も憎いでしょう?私に貴方を殺すように依頼した『誰か』が」
「いえ、別にそんなことはないですけど…」
即答した僕に、呪符を煽いでいた凍若衣さんの手がピタリと止まった。
「…やせ我慢ですか?」
ほんの少しだけ、その声に苛立ちに似た感情が混ざった。
「この状況で、貴方が助かる道はない。間違いなく私に殺されます。それは全て貴方を憎む『誰か』のせいでしょう。そんな『誰か』を憎むのは、人間として自然な感情です」
そして、彼女は嘲笑めいた笑みを浮かべる。
「勘違いをしているようだから教えて差し上げますが、こういう場合に虚勢を張る事は『勇気』とは言いません。いまさら平静を取り繕っても、逆に見苦しいですよ?」
僕は少し考えてから、それに首を横に振った。
「別にやせ我慢ではないです。僕は、本当にその『誰か』を憎む気が無いんです。悲しいことだ、とは思いますけど」
凍若衣さんの目が剣呑な光を帯びる。
「…そうですか…なら…」
不意に、凍若衣さんは僕の上に覆い被さるように押し倒した。
白銀の長い髪が流れ、僕の顔を覆う。
日の光を遮られた青白い闇の中、彼女は氷そのものの目で真下にいる僕を見下ろし、囁くように告げた。
「改めて断言しましょう…私は、貴方が想像する百倍は残酷な方法で、貴方を始末することができます」
「魂が凍る」というのは、こういう目のことを言うのだろうか。
一体、どれだけの負の感情を貯め込んだらこういう目になるのだろう。
女性に押し倒されるなんて、初めての経験だし、シチュエーション的に普段なら慌てふためくところなのだろうが、僕はその凍った瞳に息を飲むばかりだった。
凍若衣さんは、一切の感情を込めない声で淡々と続けた。
「例えば、まず、私の術で貴方の意識を完全に
そこで彼女は再び微笑した。
いままで見た中で、最も冷たい微笑みだった。
本気だ。
そして、本当だ。
彼女は、全てそれを実行できるし、する気なのだ。
そう考え、僕は思わずゴクリと喉を鳴らした。
すると、彼女は満足そうに、
「それでも『誰か』を憎まないのですか?」
眼鏡越しの氷の視線が、僕を射抜く
僕は…意を決して答えた。
「はい」
彼女の笑みが消える。
が、構わずに僕は続けた。
「ところで、失礼ですが、
不意にそう聞く僕に、凍若衣さんは一瞬意表を突かれた顔になった。
そして、頷いた。
「勿論です。
「なら、貴女は単純に僕のことを『
「…何ですって?」
その一言に、凍若衣さんの目に明らかな殺意が宿る。
だが、それにも
「僕は人間です」
「…そうですね」
「何の力も無い、ただの人間です。知恵も力もないし、すごい能力だって持っていない」
「その通りです」
「まあ、仮に異世界に転生しても、きっと無力なままの人間でしょう。それくらいに僕は平凡です」
「…結局、何が言いたいんですか?」
僕は彼女の氷の瞳を見詰めながら言った。
「そんな僕ですが、ご存知の通り、とんでもない能力を持った
凍若衣さんは無言だ。
僕は続けた。
「妖怪相手の交渉ってのはね、怪我もすれば、傷も負う。時に命懸けだし、僕みたいなただの人間にとって割に合う
彼女の目に、一瞬戸惑いの色が浮かぶ。
僕はそれを見逃さなかった。
敵意をもった相手との話し合いで重要なのは「飲まれて縮こまらないこと」
そして、相手が揺らいだ時は、一気にたたみ掛ける。
特に彼女のように理知的な相手なら、考える隙は与えないように。
僕は腹筋に力を込め、彼女を押し戻すように上体を起こした。
その間も彼女から目は逸らさない。
身を起こし、奇しくも彼女と同じ目線になった僕は続けた。
「だから、いちいち『誰かを憎む』なんて考えに捕らわれていたら、
凍若衣さんは大きく目を見開いた。
そして、気圧されたように僕の腰の上にぺたん、と尻餅をつく。
しばし向かい合う僕達。
「貴方は…」
凍若衣さんが何かを口にし掛けた時、パンパンという拍手が不意に響いた。
視線を巡らせる僕達の目に、黒衣の女性の姿が映る。
その女性を見た僕は唖然となった。
「エ、エルフリーデさん!?」
そこには。
漆黒のウェディングドレスに身を包んだエルフリーデさん(七人ミサキ)が、笑いを
「ククク…見事だ、十乃。そして、貴様の負けだ『
「『
凍若衣さんがそう呟く。
『
確か…ギリシャ神話に出てくる“
「ど、どうしてここに?」
僕の問いに、エルフリーデさんは髪を掻き上げながら答えた。
「二弐という女に乞われてな。まあ、ゲルトラウデの付き添いみたいなものだ」
「…よくもおめおめと顔を出せたものですね」
そう言う凍若衣さんの目には、ハッキリとした敵意があった。
「それに『私の負け』とはどういう意味です?」
しかし、それを気に介した風も無く、喪服のような黒いドレスにを風に揺らし、エルフリーデさんは微笑んだ。
「言葉通りの意味さ。仕方あるまい。
「…相手が悪かった?」
エルフリーデさんを睨みつけながら、凍若衣さんが問う。
それに黒衣の花嫁は答えた。
「その男はな、妖怪を差別する意識がない、根っからの『妖怪バカ』だ。そして、いま聞いた通り『究極の平和主義者』で『筋金入りの頑固者』だよ」
…良く分からないが、褒められているのだろうか…?
「『憎悪』に由来する“
そこで、エルフリーデさんはニヤリと笑った。
「
凍若衣さんの顔に朱がのぼる。
氷のような彼女が初めて見せる
凍若衣さんは、キッとエルフリーデさんを睨みながら言った。
「
…えっ?
「裏切り者」って…まさか、この二人は知り合いなのか!?
一体どういうことだ!?
思わぬ展開に言葉も出ない僕。
エルフリーデさんは、凍若衣さんの銀髪とは対照的な黄金の髪を再び掻き上げた。
「酷い言われようだ…しかし、その件については最初に言った筈だ。『我々は好きにやらせてもらう』とな」
「ほざきなさい」
凍若衣さんが鼻で笑う。
「独立愚連隊風情が、詭弁を弄するつもりですか?」
「貴様こそ、金さえもらえれば誰にでも尻尾を振る牝犬だろう」
からかうようなエルフリーデさんの言葉に、凍若衣さんの目が更に剣呑な光を帯びる。
「…忠告します。いま、私はとても気分が悪い。次に下らない台詞を吐き出すためにその口を開けば、無駄に現世を
「フッ…怖い怖い」
エルフリーデさんは肩を竦めて笑った。
「だが『
凍若衣さんが怪訝そうな顔になる。
それには構わず、エルフリーデさんはあらぬ方…丘の麓へと目をやった。
?
何だ…?
何かが丘を駆け上ってくる「ドドドド…」という音が聞こえるよーな…
そして、丘を見下ろしていたエルフリーデさんは、凍若衣さんへと視線を戻すとニヤリと笑った。
「気を付けろ。以前、私も食らったが…
「…一体何のこと……ッ!?」
そう言いかけた凍若衣さんが、何かに気付いたように僕の上から飛び退きつつ身構えた。
そのまま胸元から符を取り出すと、素早く呪文を唱える。
「
ドドドドドド…バッ!
「見付けたぁぁぁぁぁぁッ!!」
そんな声と共に、何者かが丘を登りきり、太陽を背に宙へと舞う。
長い黒髪が広がり、影になって分からない顔の中で、二つの黄金の目が僕達を認め、大きく見開かれた。
そして、凍若衣さんの放った符が、鋼の光沢を放つ障壁に変化するのと、そこに何者かが物凄いスピードで突っ込んできたのは同時だった。
轟音と共に、障壁が粉々に砕けて降り注ぐ。
もうもうと立ち上る土埃の中に、二つの影が見えた。
一つは恐らく凍若衣さんだろう。
もう一つは…?
「…えっ…?」
次第に晴れていく視界の中に、僕はよく見知った人物の姿を見た。
「み、
そこには。
花嫁のヴェールを
「何…してたのよ…貴女…」
美恋がそう呟く。
僕は目を疑った。
美恋の目が金色に輝いている。
そして、ヴェールとほつれた長い黒髪の合間から見えるアレは…
言葉を失う僕の前で、美恋はギン!と前を睨みつけた。
「お兄ちゃんを誘拐しただけでなく…馬乗りになって、一体ナニしてたのよ!?」
……
ええと。
まあ、いま冷静になって思い起こせば。
確かに傍から見ると、
妹よ、激しい誤解だぞ。
「絶ッ対に許さない…!」
勝手な妄想で猛り狂う美恋。
…何か、以前もこんなことがあったよーな…
一方の凍若衣さんの姿は、土煙に遮られて確認できない。
どうにか防御壁の展開が間に合い、直撃は避けられたように見えたが…
「…!」
瞬間。
土煙を裂いて、巨大な何かが飛び出して来た…!
キキイイイイ!!
それは
ただの百足ではない。
目視できる限りで10mはある…!
大百足は巨体に似合わぬスピードで美恋へと迫った。
いけない!!
「美恋、逃げろ!!」
僕は思わず絶叫した。
毒牙を剥いて迫る大百足。
一方の美恋は、立ちすくんだのか逃げる素振りも無い。
思わず、僕が駆け寄ろうとしたその時。
美恋は迫る大百足をギロリと睨みつけた。
そして、
「うるさい!!」
ごすっ!
ギイイイイイッ!?
…
……
………
…う、ウソだ…
い、いま…
美恋が片手の一振りで…大百足をブッ飛ばしたように見えたんだけど…??
理不尽極まりない
そ、そうか。
突然現れたので驚いたが、どうやら大百足は凍若衣さんが放った式神だったようだ。
「バ、バカな…」
そんな声と共に、土煙の中から驚愕の表情を浮かべた凍若衣さんの姿が現れた。
直撃は避けたようだが、呪符で生み出した障壁を美恋に砕かれてダメージを負ったのか、ウェディングドレスはところどころがボロボロだ。
先程まで冷笑を
「たかが人間が…私の式神を…素手で…!?」
「…そこにいたのね」
美恋の黄金の瞳が、
こ、これは…
時折、家で見せる冷たい視線よりも遥かに迫力がある…!
美恋はゆっくりと凍若衣さんへと近付いて行った。
「私を騙して、お兄ちゃんを誘拐して…挙句に
「は…れんち?」
ワナワナと震える美恋の誤解に、凍若衣さんも一瞬キョトンとなる。
美恋は、くわっと牙を剥いた。
「五体満足で帰れると思わないことね、この泥棒猫…!」
「くっ…
凍若衣さんが、美恋の迫力に押されたように数枚の呪符をばらまき、呪言を唱える。
すると、空中で静止した呪符から幾重もの剣が
「
掲げた手を振り降ろす凍若衣さん。
同時に数十本の剣が、まるで矢のように射出される。
三百六十度、全方位から迫る刃の群れを、美恋は…
「うりゃあああああああああああああああ…!」
ガン!ギン!ゲン!ガアン!
何と。
最初に飛来した剣を、両手で数本まとめて引っ掴むと、それを振るい、襲い来る刃の雨を片っ端から叩き落とし始めた…!
持っていた剣が折れると、迷わず投げ捨て、飛来してきた別の剣を引っ掴み、新たな得物にして迎撃していく。
その動きたるや、もはや明らかに人間業ではない。
反応するスピードも残像すら見えるレベルだ。
「ラスト…!」
最後の一射を打ち落とすと、美恋は息一つ乱さずに両手の剣を投げ捨てた。
そして、呆然となっている凍若衣さんに笑い掛ける。
「…で?」
「な…何て…非常識な…」
あまりの出来事に、呆然となる凍若衣さん。
「貴女に言われたかないわね、誘拐犯」
そこで、美恋の目が鋭くなった。
「さあて、もう
バキボキと指を鳴らす美恋。
…我が妹ながら、そういう台詞がシャレに聞こえないところが怖い。
凍若衣さんは、一旦目を閉じると、観念したように立ち上がり、両手を軽く挙げた。
「…分かりました。降参です」
美恋の歩みが止まる。
「…何ですって?」
「『降参する』と言ったのです。正直、いまの術をあんな風に破られては、私にも抗する術がありません。よって、ここは素直に降伏をさせていただきます」
不承不承といった風に、凍若衣さんは続けた。
「私、術理戦には自信がありますが、そもそも戦闘は専門外なのです。こうした荒事は『二の首』の分野ですしね」
「何をわけの分からないことを…」
「とにかく、降伏します。いかようにも好きにしてください」
その様子に、しばし思案していた美恋は、ゆっくりと凍若衣さんに近付いて行った。
「…ったく。降参するならするで、最初からこんな騒ぎを起こすなってのよ」
不服気にそう言う美恋。
その後ろで、一部始終を見ていたエルフリーデさんが呟く。
「まだ
その言葉が終らぬうちに。
凍若衣さんに近付いていた美恋の足元に、八角形の呪紋が浮かび上がった。
「これは…!?」
「言ったでしょう?『術理戦には自信がある』と。呪符だけが“陰陽道”の神髄ではありません」
言い放ちながら、凍若衣さんが大きく跳び
「
印をきりながら、呪紋を指し示す凍若衣さん。
すると、美恋の動きがピタリと止まった。
「か…体が…動か…ない…!?」
それに凍若衣さんが勝ち誇った笑みを浮かべる。
「“八将神”は陰陽道における方位神のこと。そして、その一柱“大将軍”は『三年塞がり』を司る万事における大凶の神」
薄い笑みを浮かべながら、凍若衣さんは続けた。
「その方位印の中にいる限り、貴女は全方位に動くことは出来ません」
「く…そ…この…お…!」
歯を噛み締め、渾身の力で動こうとするも、美恋は彫像ように棒立ちのままだった。
「諦めなさい。貴女の馬鹿力でも、それは破れません。そこで、大人しく見ていなさい」
そこで、凍若衣さんはチロリと舌を出して指先を舐めた。
「貴女のお兄さんが、私の餌食になるところを…ね」
呪符を取り出しながら、凍若衣さんは次にエルフリーデさんを見た。
「貴女はどうします…?」
「フッ…お手並み拝見といこう」
そう言いながら、腕を組んで笑い返すエルフリーデさん。
ええええええ!?
助けてくれるんじゃないんですか!?
「果たして、貴様に私の
「お待たせしました、十乃さん。さあ、素敵なショーの始まりですよ?」
怜悧な美貌が喜悦に歪む。
僕は身動きできずに、立ち尽くしているだけだった。
「妹さんの前で、思う存分聞かせてくださいね…最高の
「させ…るか…ああああああああああああああああああッ!!」
瞬間。
死を覚悟した僕の目の前で、美恋の身体から炎のような
そして、
「こンのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ…!!」
ミキ…
「そ…んな…」
凍若衣さんの表情から笑みが消えた。
身体を捕える目に見えない鎖を断ち切ろうとするように、身をよじる美恋。
その足元に展開された八角形の方位印が
「破ろうというの、アレを…!?」
呆然となる凍若衣さんに、エルフリーデさんが告げた。
「寝ぼけているのか?『
聞き咎めるように振り向く凍若衣さん。
エルフリーデさんは腕を組んだまま笑った。
「見ての通り、奴は『鬼族』の類だ。貴様も知っているだろう?奴らは人間が定めた『方位』の外から来るモノ共だ。連中を方位印の中で無力化したいなら、
「…『
「そうだ。
そう言いながら、エルフリーデさんは面白そうに笑った。
「そら、どうする?もうすぐ自由になるぞ?」
エルフリーデさんの言葉通り、方位印の中で美恋の動きが徐々に滑らかになっていく。
それと同時に、その足元の方位印が、少しずつ崩壊を始めていた。
ミキ…ミキミキ…!
その様を見ていた凍若衣さんは、一つ嘆息した。
「冗談じゃありません。脳筋の鬼族と肉弾戦など、それこそ『二の首』の分野です」
そう言いながら、手にした呪符をしまう凍若衣さん。
そして、僕の方をじぃっと見詰めてくる。
「…命拾いしましたね、十乃さん。その命、しばし預けておきますよ」
「…」
「勘違いしないように。万全の装備なら、このまま仕事を続けてもいいのですが、今日はその装備がないだけです」
そう言いながら、凍若衣さんは鋭い視線を向けてきた。
「私はプロです。ですので、次に出会った時こそ、仕事は確実にこなします。よく覚えておいてくださいね」
そう言うと、今度はエルフリーデさんを見やる凍若衣さん。
「貴女もです。次はありません。今度私の前に現れたら、そのドス黒い魂魄を地獄の釜を焚く
「フッ…
「…元より無い癖に」
薄く笑うエルフリーデさんに、鼻を鳴らす凍若衣さん。
そして、一枚の符を取り出して呪言を唱える。
符は一瞬で巨鳥へと変化した。
その背に乗りこむと、凍若衣さんは僕を見下ろした。
「十乃さん、
冷笑を浮かべると、凍若衣さんはそのまま宙へ舞い上がる。
「に、逃がすかあああああ…!」
遂に自由を得た美恋が追いすがるも、巨鳥は既に空高く飛翔している。
美恋は空を見上げたまま歯噛みしていたが、不意にその身体をぐらつかせた。
ハッとなる僕。
「美恋!?」
僕は慌てて駆け寄った。
そして、崩れ落ちる寸前に辛うじてその身を抱き止める。
「…お…兄…ちゃ…ん」
僕を認めると、美恋は安堵の笑みを浮かべた。
「無事で…よかった…」
そして。
ゆっくりと目を閉じる。
ボロボロになったヴェールと黒髪が風に揺れた。
その下から覗いていた二本の角は既に見えない。
いつもの美恋だった。
「美恋…?」
僕の呼び掛けに、美恋は軽い寝息で応えた。
「ふふ…まるで、幼子のようだな」
それを見たエルフリーデさんが、クスリと笑う。
僕はその髪を優しく撫でて囁いた。
「お疲れさま…美恋」
ふと、遠くから鐘の音が聞こえた。
時報代わりに鳴らされている、園内にある鐘楼の鐘だろう。
カラ―ン…
カラ―ン…
カラ―ン…
白亜の神殿の中、天と地に輝く蒼い空と彼方の海が僕らを包む。
鳴りやまぬ鐘の音。
それは、長い戦いを終えてまどろむ花嫁達に向けられた、