選ばなかった代償
文字数 3,609文字
どっちかといえば、かなり普通の家庭に生まれて、普通に育ってきた方であると思う。
家の事を問われる時、何か取り立てて語れるようなはっきりとした目立ったものなど、一番最後を飾る酷く凄惨なソレしか無くて、他と言えば本当に他愛無く何処にでもあるような思い出ばかりで彩られていた。だからこそ余計に最後のソレが目立ってもいたけれど。
不意に陥る思案の中で、何時も現れるのはあの時の状況で。
そうして凄惨なその記憶の中で、何一つ選ばなかった自分が今此処にいる事を、改めて罪であり罰であるのだと思うばかり。思考する度繰り返す懺悔の時間、それが生きていく中で永遠のように続いていく、それを罰だと彼の上司は言っていたから。
だから今、どうにか生きているのだとも思う。
安易な死を選ぶ事は、あの時の罪に対する冒涜であると、柊は上司の言葉で結論づけられたから。
そうしていつの間にか今の上司のその下で働く事になって、ほぼ作為的に命の危険が伴うような仕事をぽんぽんと渡されて、そんな状況であっても成功失敗如何を問わず償いの為には生きて戻って来なければならないという日々が始まって。
背中合わせの危険は、確かに繰り返す思案から柊を遠ざけた。
消えはしないけれど、それでも彼の頭の中が仕事の事で埋まる時、唯一柊は安堵にも近いモノを感じていた。だからこそ、仕事人間と周りに言われる程に仕事ばかりに時間を使った。とはいえ柊の働く場所では彼を上回る者等何人も居たから、然程それが目立つ訳でもなかったが。
ただ、他の者達とは異なって、自分を省みないままのその働きが、より一層柊の身体を蝕んでいた事は確かであって。
その日、仕事中に些細な失敗から大怪我を負った事は、長いツケの代償を支払わされたようなものだった。
それでもどうにか死ななかったのは、その日一緒に組んでいた相手が、何故か何時もとは異なって他部署である鉄色の髪の青年で、更に言えばその相手に庇われた挙げ句に手当が施されるまでの間延命をされたからだった。
他の誰かであれば、確実に死んでいた。それ程の重症だった。
「おっまえ、マジ、コレ誰にも言うなよっ!?」
朦朧とした意識の中で、その延命してくれている相手である当人の声だけがはっきりと聞こえていた。
立場で言えば向こうの方が遥か上の役職で、本来ならまず一緒に仕事するような機会等そうそうない相手であるはずだった。
「いやこれ絶対康介の策略だ。間違いねぇよ、俺いなきゃお前死んでるし、コレそもそもお前のとこの仕事だし、あームカつく」
まるで思考を読んだかのように声が続く。
その声は、何時も聞いているよりもどこか深く響くような音で、閉じようとする意識を無理矢理こじ開けるかのようなはっきりとして強い調べをしていた。そのせいもあってか、意識を手放しかけてはその声に柊は引き戻されていた。
延々と続く声は、それを知ってか知らずか、続いていく。
やがて他の声が漸く。
その頃には既に聴覚以外の感覚は失われていたが、声だけははっきりと聞こえていた。
「オイオイ俺だって幾ら何でも救えるものにゃ限界ってもんがあるんですけど?」
「うるせーどうにかしろ命令なコレ」
「うっわ職権乱用」
「煩い医者だろ寧ろ義務だろ、まだ救える筈だぞ此の状態なら」
「あーまぁ、俺ならね。他ならマジ無理だったかもしれないけどね。とりあえずいっちょいきますか手伝え」
「烏間のくせに命令すんな」
「死なせたくなきゃ手伝うべきですよーってか他に人いないし今」
「マジでか」
「おうお前らの行ってたトコの救助活動で手一杯ですよ。俺コイツの為に残ってたようなもんだし」
「…………あの野郎」
「まぁ康介さんだしね。という訳で柊君、君はちょっと九死に一生を得て、もっかい生きる意味って奴を考え直してみような?」
「荒療治すぎねーかソレ」
「いや救う方の身になれってんですよマジで」
その声を最後に、麻酔でも打たれたのだろう、意識は途切れた。
次に目が覚めた時に真っ先に飛び込んできたのは、真白の天井。
そして直ぐに脳裏に浮かんだのは、最後に聞いた言葉だった。
(生きる意味、か)
しばらくの間、目を瞬かせぼんやりと、恐らく麻酔が残っている為なのだろう上手く働かない思考を、それでもその言葉だけに集中させていた。最近は改めて思う事も無かった筈の、恐らくはあえて考えないようにしていた筈の言葉だ、と柊は思う。
(また、俺は生き残った)
そう思って、気付く。
残った。
それはつまり、どこかで死に急いでいたのではないか、と。
毎日の仕事に追われるフリをして、一生懸命生きているフリをして、その実、生という名の贖罪の道を出来るだけ短くしたかっただけなのだと、思い至った。そんな自身の無意識の望みが、命のかかった失敗という事態を引き起こして、そして再び柊の命は救われた。
結局柊の安直な死への欲求は周囲に見抜かれていて、そして防がれたのだ。
本人も気付かないうちに。
「ひーくん」
声が、した。
上司である人の一人。唐杉。近くにいるのだろうが、まだ上手く動かない身体はその姿を捉える為に頭を動かす事すら嫌がった。その代わりなのか、彼の声とともに視界の中に半透明の少女が現れる。
幽霊、と一般的には呼称されるのだろうが、本質は異なるらしい、上司と何時も共にいる少女。
見える者の限られる彼女は、昔、上司が失った幼馴染みらしいという所まで、知っている。
自分の周囲にも家族がいるのだろうかと、少女を見る度に柊は思ってしまう。残念ながら柊が見る事が出来る幽霊等、この少女くらいのものだったが。
柊にとって、他の上司より少し深い繋がりがある相手だった。
直接的には唐杉が、あの惨劇から柊を救い出したのだから。
「僕は、こんな君を見る為に、君を助けたんじゃないよ」
普段は明るい声が、今は硬質で尖っている。
呼応してなのか、唯一目に入る少女も悲しげな顔をして柊を見下ろしていた。
「あの時、皆、死ぬのだと思っていた。でも君だけが、死ぬという結論を『選んで』いなかった。だから僕らは君を助ける事が出来た。今の君が生きているのは、確かに君が『選ばなかった』からだって僕は言ったけど、だからってソレが罪だと、何時、言った?」
言われていない。
それは柊が勝手に考えていた事で、唐杉が言ったのは確かに、それだけだった。
鈍い頭でそんな記憶を掘り起こしている柊の右側で、唐杉が椅子から立ち上がった音がした。何かを言おうと口を開こうとしたけれど、酷く乾いた口内の感触だけで、声は出ない。
「君が死んだら、僕は泣くからね」
その言葉を最後に、足音が遠ざかる。
ついていくように、少女が視界から姿を消した。
冷たく響いた声の割に、温かいその言葉がゆっくりと頭の中に馴染んでいく中、遠ざかる足音と引替えにするかのように近付いてくる足音がする。どうやら、今柊が横になっている場所は、務めている場所の隔離病棟の一つのようだった。
基本的には使われないその場所は、出入りが一部の者に制限されていて、そのせいか部屋の入り口に扉が無い。一度見た記憶の在るその場所と、部屋の出入りに扉の音がしない事が、記憶の中符号を一致させる。
「あんの馬鹿。何が、『死んだら泣く』だ。大怪我したって時点で泣いてたくせに」
新しい足音と共に聞こえてきた声は、もう一人の上司。唐杉の相棒に当る山辺だった。
「とりあえず、大丈夫らしいから、お前の怪我。良かったな、執刀が烏間で。アイツは奇人で変態だけど腕は確かだし」
ぎし、と椅子の軋む音がする。
「何が問題だったのか、考えろ。始末書は一週間待ってやる」
その時には始末書くらいは書けるようになっていると烏間が言っていたから、と山辺は続けた。声がどこか苦々しい。はぁ、と零れる溜息はそのまま苦々しさを彩っていた。
不意に頭がくしゃり、と撫で付けられる。
それは痛い程に乱暴な仕草で、普段はあまり接触の無い山辺からされる、殆ど初めての接触だった。まるでこどもにするかのように、見えないその手は柊の頭をぐしゃぐしゃと撫で付けて、けれどどこか温かさを感じて、普段は厳しさの方が遥かに勝る山辺の別の側面を感じて柊は泣きそうになる。
この上司も、柊が『死んだら泣く』一人なのだろう。それがすとんと心の中に落ちてくるように納得出来た。
「ちゃんと、休めよ」
殊更ぶっきらぼうに言われた言葉が、優しく聞こえる程に。
そして頭を撫でていた手が目を覆ったから、柊はそれに応えるように目を閉じた。
すぐに訪れた睡魔は、それまでのモノとは異なって、まるで総ての悪夢の終りかのように優しく柔らかさに満ちた眠りに柊を誘った。再び目を覚ました時に、柊は与えられた束の間の休みの中で、今度こそ本当にその意味を考える事になる。
惨劇から残された者の、安易な死を選ばなかった、代償の意味を。