揺らぎの狭間を見る
文字数 2,680文字
ふっ、と目の前の茶の髪の青年が空を見上げるような仕草をしたから、その珍しさに青年の傍に居た彼、天野景は瞬きと共に相手を見上げた。身長差がかなりあるその顔は、何処か遠くをみるような眼差しで、あまりそのような姿を見た記憶は無かったから天野は思わず問いかけた。
「どうしたんですか?」
「あー、うん、ちょっと待ってね?」
そして返ってきた言葉が酷く曖昧であったから、コレはやはり余程の事なのだと天野は確信する。
この青年が直ぐに返答出来ないような事等、天野の経験上では殆ど無い筈であった。仮にあったとしてもそれは天野等が想像つかないような遥か高度な話であるか、当人が誤摩化したいような事であって、それだってこんな曖昧な言葉では誤摩化したりはしない。
目の前にいる彼、御空はそういう男だった。
天野は自分自身が『天才』だと物心ついた頃から周囲にそう言われ、またその才を伸ばす為だけに用意された環境で育てられた経緯を持っているけれど、その天野をして御空は自分を遥か越える才を持っていると認めていた。
次元が違う、とはこういう事を言うのだと、知っていた。
時には本当に人間離れした事までしてのけるから。
その御空が、しばし惑うように止まっている。どれ程その様が珍しいのか、御空を知ろうとする天野だからこそよりそれが理解できた。
「あぁ、どうにかなったかな。うん」
本当に独り言を零した後に、御空の視線が天野に戻ってくる。
「悪いね、けーくん。実はちょっと今消失があって」
「え!?」
物体の消失、という言葉に天野の動きの速い頭は宇宙的な規模にまで至る。実際に、例え砂粒一つであっても消失をすればそこを埋めるかのように収縮が発生する事は、予想するまでもなくて。
「あぁ大丈夫、どうにか代替えは置いたから問題は起こっていないんだけれど」
けろりとあっさりそう言ってのける御空は、こういう点において人間離れしている。それは今更なのであえて天野はつっこんだりはしないけれど、大まかに言えばこの御空という男、存在自体がまるで三文ファンタジー小説の存在のようなものだった。
出会いこそ御空の論文を読んだ天野が自分から来たが、その後付き合いを続ける上で沢山の論理的に説明の付かない事を、御空は天野の目の前で示してみせた。人間の解っている事等、しょせん世界のごく一部に過ぎないんだよと言いながら。
そう言う本人が人間かどうかを天野は知らない。
尻尾は掴ませない狸を前に既に知ろうという好奇心も無く、それでも友人としてこれ以上無い程天野はこの青年を信頼していた。それに足る相手であると、経験を得ていた。
そして面白い事を何より好む御空にとっても天野はどうやら十分友人足り得ていることも、天野自身知っていた。
「誰か、消えちゃったみたい。異界に」
「あのぅ、その異界って、よくあるアレ? 別次元っていう」
「そうだねぇ。それが近いかな? 戻ってくるのは何時か正直僕も解らないけれど、困るよねぇこういう事を勝手にされちゃあ。こっちが壊れたら一体どうしてくれるんだか、全く」
さらりと言ってのけるその表情には、言葉程の危機感が無い。
けれど実際には総てが事実なのだろう。
軽い言葉の中に潜む奥行きは遥か終りが見えない程に深く遠く、その全容は天野自身理解出来た事は一度として無い程で。
「誰か、ってことは、人、なんですね?」
「そうみたいだね。早く戻って来れればいいんだけど」
そうもいかないだろうねぇと軽い口調で言う御空は、口元に淡い笑みを浮かべていた。
終りが見え始めた頃のある柔らかな秋の午後、青年が不意に言った。
「あ、戻ってきた。うわ、でも増えた」
その言葉に天野はずっと前、目の前の青年が言っていた言葉を思い出す。まるで夢物語のような話、色々と訊いた中でも群を抜いて非現実めいていた青年の言葉の中にあった、『戻る』というキーワードの中にある、天野の知らぬ誰か。
あれからもう何年も経っている。
いや、十を遥かに越える年月が過ぎ去っている。幼い子供も大人に変わる程の時間。
長い、と称してもおかしくない程の時間だ。国の有様が変わる程の時間なのだから、相当だった。それでも天野の優秀な頭脳は、遥か昔の数十分のやりとりを鮮明に思い出していた。
「前に言ってた、消えた人ですか?」
「うん。でも本人そのままだし、余分なものが付いてきたよ、全くもう。調整する方の身になれってんだよなぁ。危なく地球爆発もんだよコレ」
「神隠しって、こういう現象の事だったんですかね?」
「まぁ、場合によるけど、今回はそれに該当するだろうね」
あははと笑う表情は言葉のわりに、やはり軽いままで。
恐らくそれは、御空にとってその事態は『面倒くさい』ものであっても『つまらない』ものではないからなのだろう、と天野は思う。短くない時間を御空と過ごしてきた中で天野が知ったのは、この綺麗な青年が最も厭うものの一つが『つまらないもの』であるという事だ。
それがどんなものであれ、『つまらない』事・モノを御空は厭う。
きっと、飽いているのだ。
存在している事そのものに。
本人には確認していないその結論は、恐らく正しいのだろうと天野は考えている。そして今のこの時間も御空からすれば、つまらない時間を潰す遊戯にも等しいのだろうと。
不思議とそう考えても腹は立たなかった。それ程に、相手は次元が異なっていたから。
「調整、出来たんですね」
「まぁね。むしろ一応それをしなきゃいけないからね、まだ此処に居たいからには」
くすくす笑う青年は最近嵌っているという紅茶を一口、飲んだ。
午後の、本当に静かな、別荘で。
そろそろ起き上がる事すら難しくなった天野の代わり、動き回っている御空はそれでも一日一回はこのように姿を現しては、緩やかな時間を過ごす。その前後は打ち合わせなり、報告なりが行なわれたりする。
既に天野自身、己の身体すら自由にならない。解っていた未来ではあったけれど、時にそれはもどかしくて、寂しい。けれどこうして、天野の居なくなった先を残してくれようとする相手が存在する、それが天野景にとっての最大の救いだった。
「ありがとうございます。康介さん」
「何言ってんの、けーくんってば。これは僕の我侭なんだから」
その言葉に込められた意味をも吹き飛ばすかのよう、御空康介は肩を竦めて苦笑いしてみせるのだ。
飽いた自分の勝手な行為だと。
天野は、何時か訪れるだろう自分の終りのその先で、目の前の相手が飽くような事が来る日が出来るだけ遅く来るようにと、ひっそりと願った。
「どうしたんですか?」
「あー、うん、ちょっと待ってね?」
そして返ってきた言葉が酷く曖昧であったから、コレはやはり余程の事なのだと天野は確信する。
この青年が直ぐに返答出来ないような事等、天野の経験上では殆ど無い筈であった。仮にあったとしてもそれは天野等が想像つかないような遥か高度な話であるか、当人が誤摩化したいような事であって、それだってこんな曖昧な言葉では誤摩化したりはしない。
目の前にいる彼、御空はそういう男だった。
天野は自分自身が『天才』だと物心ついた頃から周囲にそう言われ、またその才を伸ばす為だけに用意された環境で育てられた経緯を持っているけれど、その天野をして御空は自分を遥か越える才を持っていると認めていた。
次元が違う、とはこういう事を言うのだと、知っていた。
時には本当に人間離れした事までしてのけるから。
その御空が、しばし惑うように止まっている。どれ程その様が珍しいのか、御空を知ろうとする天野だからこそよりそれが理解できた。
「あぁ、どうにかなったかな。うん」
本当に独り言を零した後に、御空の視線が天野に戻ってくる。
「悪いね、けーくん。実はちょっと今消失があって」
「え!?」
物体の消失、という言葉に天野の動きの速い頭は宇宙的な規模にまで至る。実際に、例え砂粒一つであっても消失をすればそこを埋めるかのように収縮が発生する事は、予想するまでもなくて。
「あぁ大丈夫、どうにか代替えは置いたから問題は起こっていないんだけれど」
けろりとあっさりそう言ってのける御空は、こういう点において人間離れしている。それは今更なのであえて天野はつっこんだりはしないけれど、大まかに言えばこの御空という男、存在自体がまるで三文ファンタジー小説の存在のようなものだった。
出会いこそ御空の論文を読んだ天野が自分から来たが、その後付き合いを続ける上で沢山の論理的に説明の付かない事を、御空は天野の目の前で示してみせた。人間の解っている事等、しょせん世界のごく一部に過ぎないんだよと言いながら。
そう言う本人が人間かどうかを天野は知らない。
尻尾は掴ませない狸を前に既に知ろうという好奇心も無く、それでも友人としてこれ以上無い程天野はこの青年を信頼していた。それに足る相手であると、経験を得ていた。
そして面白い事を何より好む御空にとっても天野はどうやら十分友人足り得ていることも、天野自身知っていた。
「誰か、消えちゃったみたい。異界に」
「あのぅ、その異界って、よくあるアレ? 別次元っていう」
「そうだねぇ。それが近いかな? 戻ってくるのは何時か正直僕も解らないけれど、困るよねぇこういう事を勝手にされちゃあ。こっちが壊れたら一体どうしてくれるんだか、全く」
さらりと言ってのけるその表情には、言葉程の危機感が無い。
けれど実際には総てが事実なのだろう。
軽い言葉の中に潜む奥行きは遥か終りが見えない程に深く遠く、その全容は天野自身理解出来た事は一度として無い程で。
「誰か、ってことは、人、なんですね?」
「そうみたいだね。早く戻って来れればいいんだけど」
そうもいかないだろうねぇと軽い口調で言う御空は、口元に淡い笑みを浮かべていた。
終りが見え始めた頃のある柔らかな秋の午後、青年が不意に言った。
「あ、戻ってきた。うわ、でも増えた」
その言葉に天野はずっと前、目の前の青年が言っていた言葉を思い出す。まるで夢物語のような話、色々と訊いた中でも群を抜いて非現実めいていた青年の言葉の中にあった、『戻る』というキーワードの中にある、天野の知らぬ誰か。
あれからもう何年も経っている。
いや、十を遥かに越える年月が過ぎ去っている。幼い子供も大人に変わる程の時間。
長い、と称してもおかしくない程の時間だ。国の有様が変わる程の時間なのだから、相当だった。それでも天野の優秀な頭脳は、遥か昔の数十分のやりとりを鮮明に思い出していた。
「前に言ってた、消えた人ですか?」
「うん。でも本人そのままだし、余分なものが付いてきたよ、全くもう。調整する方の身になれってんだよなぁ。危なく地球爆発もんだよコレ」
「神隠しって、こういう現象の事だったんですかね?」
「まぁ、場合によるけど、今回はそれに該当するだろうね」
あははと笑う表情は言葉のわりに、やはり軽いままで。
恐らくそれは、御空にとってその事態は『面倒くさい』ものであっても『つまらない』ものではないからなのだろう、と天野は思う。短くない時間を御空と過ごしてきた中で天野が知ったのは、この綺麗な青年が最も厭うものの一つが『つまらないもの』であるという事だ。
それがどんなものであれ、『つまらない』事・モノを御空は厭う。
きっと、飽いているのだ。
存在している事そのものに。
本人には確認していないその結論は、恐らく正しいのだろうと天野は考えている。そして今のこの時間も御空からすれば、つまらない時間を潰す遊戯にも等しいのだろうと。
不思議とそう考えても腹は立たなかった。それ程に、相手は次元が異なっていたから。
「調整、出来たんですね」
「まぁね。むしろ一応それをしなきゃいけないからね、まだ此処に居たいからには」
くすくす笑う青年は最近嵌っているという紅茶を一口、飲んだ。
午後の、本当に静かな、別荘で。
そろそろ起き上がる事すら難しくなった天野の代わり、動き回っている御空はそれでも一日一回はこのように姿を現しては、緩やかな時間を過ごす。その前後は打ち合わせなり、報告なりが行なわれたりする。
既に天野自身、己の身体すら自由にならない。解っていた未来ではあったけれど、時にそれはもどかしくて、寂しい。けれどこうして、天野の居なくなった先を残してくれようとする相手が存在する、それが天野景にとっての最大の救いだった。
「ありがとうございます。康介さん」
「何言ってんの、けーくんってば。これは僕の我侭なんだから」
その言葉に込められた意味をも吹き飛ばすかのよう、御空康介は肩を竦めて苦笑いしてみせるのだ。
飽いた自分の勝手な行為だと。
天野は、何時か訪れるだろう自分の終りのその先で、目の前の相手が飽くような事が来る日が出来るだけ遅く来るようにと、ひっそりと願った。