大切の意味を探していた

文字数 2,265文字


 自分の身一つで家族が救われるというのなら、大切な家族だから、迷いは一瞬だった。
 決めてしまえば、後はそのまま急流に飲み込まれる一葉の如く、あっという間にその身は変化に晒された。それでも己自身の選択であったのだから、彼女はただそれについて行く為に強い意思をもって立ち向かうつもりであった。
 そう、最初はそれだけで、他には何も思っていなかった。
 だから、変わったのは状況ではない。
 彼女自身だ。
 自分に伸ばされる手が不快にならなくなっていた。それどころか、その手は酷く心地よく優しく、時に温かく彼女の心を包むから、いつの間にかどうしようもなく大切になっていた。欲しい、と言っても良い、執着を伴うその感情を、きっと恋と呼ぶのだろうと、生まれて初めて他者に抱くそれに最初は驚き、次に彼女は恐怖した。
 その手が今は伸ばされていても、何時離されるのか解らない。
 そして彼女はそれが離されたその時に、追いかける権利すら有していないのだ。
 これ以上堕ちてはならない。そう思う程に、裏腹に気持ちは深く深く相手の方へと傾いていく。大切だった家族よりも更に大切な場所へと、相手がすとんと収まっていく。止める事が、出来ない。止めてしまえばどれ程良かっただろう。
 気付いたときはもう手遅れ。
 後には戻れない程に、彼女は深みに嵌っていた。
「神宮」
 苗字を呼ばれて、伸ばされる彼の手を、彼女は動く事も出来ずに受け止める。
 元々から整った顔をしていた男だった。最初こそまだ成長期で何処か両性的なものを残していた(本人曰く顔は母親譲りなのだという)彼は、それでも一年も経てば最初の頃とは全く異なる男らしさをその身に纏うようになった。それでも、整った姿は変わらなかった。
 寧ろ更に人目を惹くような、そんな成長を続けている。
 さらりと流れる真っ直ぐな髪も、綺麗に配置された目鼻立ちもそのままに。長い指先まで、男でありながら何処か綺麗だと思わせる圧倒的な存在感がある。
 そんな彼の手が、彼女の髪に触れ、すっと撫でるように動いた。
「どうした?」
「え?」
「さっきから、俺を見てた」
 そう言って浮かべる微笑は甘やかで、それが如何に彼女の心をどきりと動かすか、きっと当人は解っていないに違いない。伸ばされた指先が更に頬に触れるのを、どんな気持ちで彼女が受け止めているのか、きっと解っていない。
 何時か他の誰かのものになってしまうだろうその手を、今だけでも自分だけだと思いたいと。
 そんな切なさばかり抱えているなんて。
 彼女は、確かに彼のものだ。けれど彼は、彼女のものではない。二人の間にあるのは一方的な所有の関係でしかない。何時しかそれが痛いと思うようになってきた。それでも、彼の手が伸ばされる今の場所から離れる事が、出来ない。
 その権利すら、無い。
 でも、権利があったとしても彼女は行使しないだろう。
 もう大切なモノの一つなのだ、彼は。
「何でもないです」
「そうか?」
 首を傾げて離れていた距離を彼の方から縮めてくるのを、彼女はただ待つしか無い。まるで木偶のように立ち竦んでいる彼女に、あっという間にゼロに近い距離まで縮めてきた彼は両の手の中に彼女の身体を閉じ込めてくれる。
 その瞬間に彼女がどれ程安堵するかを、きっと彼は知らないのだろう。
 まだ此処にいて良いのだと思える、その瞬間を如何に彼女が喜んでいるか。きっと、知らない。彼女も、言わない。言えない。
「別に、良いんだぞ? 幾ら見てくれても」
「いえ、その」
 くつくつと笑う気配がする。抱きしめられている形ではその表情は伺い知れなかったけれど、少なくとも彼がこういう風に話して、そして触れる相手は今の所、彼女しかいないことを知っている。だから、それだけで充分だと思おうとしている。
 必死に、放っておけばどんどん強欲になってしまう自分を抑えている。
 それなのに彼はまるでそんな彼女の気持ちを煽るように、言葉を綴るのだ。
「俺の名前」
 最初の頃に比べ、成長期なのだろう彼の背は更に伸びて、けれど彼女は変わらないまま。
「呼べるのは祖父さん達以外、神宮だけなんだから」
 少し上から降ってくる、優しい声は、けれど残酷に彼女の気持ちを荒ませる。前に踏み出せない事を解っているからこそそれは残酷に彼女の中に響く。しかし耳を塞ぐ権利すら、無い。
 本当はその甘い言葉にそのまま身を委ねてしまいたかった。
 けれど、それをしてしまえば最後、きっと彼女は自分の役割を果たせなくなる。それを確信していた。
 身体を差し出す約定は、心が無ければまだ大した苦痛ではなかった。其処に、心が交わった瞬間、一気にそれは刺となって彼女の心を縛るものに変わった。けれど、解く事も出来ない茨の鎖。
「沙羅弥」
 不思議な響きの、彼の名を、呼ぶ。
 答えるように、少しだけ身体を抱き込む腕の力が強くなった。
 そっと、手を伸ばして、彼の服の裾を掴む。
 彼女にとって大切なものの一つに彼自身が入ってしまっていると知ったら、この男は一体どうするのだろうと彼女は思う。面倒になって彼女を放り出すだろうか? それともまた異なる道が生まれるのだろうか? もしかしたら唯、嗤われるだけかもしれない。
 例えどれになるとしても、彼女は選択が出来ない。
 知っていた筈の大切の意味が、彼を知った事でまた変化してしまった。そうして築かれたこの関係を打開する鍵を持っているのは彼女では無かったから。
 ただ、許された名を、呼ぶ。相手からは自分の名を呼ばれた事は一度も無かったけれど。
 それしか出来なかった。
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