人がそれに与えられるもの

文字数 4,387文字


 それが現れたのは、冬を迎える前、世界が来たる季節を前に終わりの鮮やかさを広げる季節で。
 白い石の敷き詰められた庭、その中にぽつんと残された楓の色づいた葉がひらひらと落ちる中で、ぽつりと唐突に立っていたのが、それ、だった。
 自身の家の庭の中で見知らぬ存在がいるのだから、普通であれば直ぐにでも警察に連絡をしただろう。最早世捨て人のように生きているという自覚のある自身であるが、それでも警察という存在を忘れてはいない。けれどこの時には、そんな常識的な行為は一切思い浮かばなかった。

 長い髪を涼風に翻しているそれが、あまりに美しくて、人の姿をしているにも拘らず人に思えなかったからだ。

 声を掛ける事も忘れて不躾にもじぃっと見つめてしまった自分の視線が痛かったのか。
 それは、ゆるりと自分の方を振り返った。
 真白の、長い袖がひるりと翻る。てらてらとしたその生地は、けれどそれ自身が光を放っているかのような輝きでもって昼の光を纏い込んでいる。上下、同じような色をしたそれは一連なりで、決して現代の衣服を倣っているとはいえない。あえていうなら、物語の中にでも存在するのかもしれないが。
 その服の上、唯一の鮮やかな色彩が長過ぎる髪。明るい、甘ったるいカカオ菓子のようなその色。
 色素の薄い髪と同じ色をした目が、まっすぐに自分を見た瞬間にぞくりと、全身に鳥肌が立つ。整い過ぎた造作が、動いている事に恐怖が伝う。
 だから。
「−−−−」
 何か声を発したらしいそれの、言葉を全く理解出来なかった事に安堵した。
 このような姿をした人間が存在する事を、たかが言葉一つ通じない事を理由に何処かで否定する事でようやく、均衡を崩しかけた心が平衡を取り戻したらしかった。




 それが何なのか、結局問おうとは思わなかった。
 最初こそ言葉は全く通じなかったけれど、恐ろしい早さでもってそれが自分とのコミュニケーションを行えるまでに言語や表情や動作を身に付けて行くのを(それはまるで既に存在する答を機械に打ち込んで行くかのような速やかさでもって行われた)理解して尚、問いかけるという事は選ばなかった。
 どうでも良かったのだ。
 それが何処から来た何か、等という事は。
 また同時に、追い出そうとも思わなかったのも、それの起源を気にしないのと同じような理由だった。何処に帰るのかなどと、どうでも良い疑問は出会った時にも捨ててしまったのかもしれない。
 ただただ、時間を共にした。
 それが何処にも行かない事を良い事に、それと過ごす時間を手にした。
「もし、君がこの先も人の中で存在しようと思うのなら、その髪は目立つかもしれないけどね」
 鮮やかな色をした畳の上で、同じく鮮やかな色の髪をあちこちに散らせて転がっているそれを見下ろして笑えば、それは自分の髪を手にして、こちらの髪の色と見比べて肩を竦めた。人らしい動作は既にそれにとって当然のようにこなせるものである。
 こちらの言葉を理解したらしいそれに、けれど言葉を続ける。
「でも、僕は好きだけどね」
 布団の上からそれの髪に手を伸ばして触れれば、何処か硬質でいて、けれど柔らかい滑らかな感触が指先に伝わって。今まで触れたものどれとも異なるその感触に、密やかに嘆息する。
 この頃には一日の半分以上を、この何の面白味も無い白の寝床の上で過ごすようになっていたから、異質を拾い集め凝縮したかのようなそれの存在は、何よりもの救いのようでもあった。異なる所一つ思うだけでも一日が過ぎた。言葉一つを教えるだけでも、長い時間が短くなった。
 おかしい事だと思う。
 終わりは目の前にあるのに、じわじわと寄ってくる事を全身で感じているのに、そこにいたるまでの短い時間を自分は飽いていたのだ。
 そんな時にそれは現れた。
 まるで何かの僥倖のように。
 背中に羽根でも生えていたなら、天使だとでも思ったかもしれない。
「なら、このままでいいかな」
 それは、くすりと笑って、自分の髪の色を定めたようだった。そんな感じで、恐らく自分は、一緒にいる時間の中で、その先のそれの形の一つ一つを定めたのかもしれない。ただ、何一つ否定などした事は無かったから、結局それはそれのままだった。





 庭の冷たい白い石の上、更に白い冷たい粉が積もって行く。
 雨戸とガラス戸、そして障子を開け放し冷たい空気に震える事も無くそれが縁側に腰を下ろして庭を眺めるのを、布団の中で冷たさからは隔絶されている自分が責める謂れも無く、そのままにさせた。
 この頃にはもう、起き上がる事も無かった。全身に力が入らず、瞬きばかりがようやく可能だった。そういう病魔が体中を蝕んでいる事を、思い出すのも億劫になる程前には知っていたから、あぁそろそろなのだと思うだけで、目の前に迫った死の影に怯える事は既に捨てていた。
 孤独であったら、あるいは人の中だったら、怯えたのかもしれない。
 けれど自分の傍にいるのは、それ、だけで、だから未知の未来である死を怯える気持ちはいつの間にか無くなっていた。未知のものならもう、一つだが、知っていたから。
 望んだ訳ではなかったけれど、借宿の礼でもしているつもりか、それが自分の世話を焼くようになったのは冬が訪れる直前だったか、初雪の頃か。未知の者が自分の終を看取るのかと思えば、中々に悪くないとも思える程には静謐が心に根ざしていた。
 鎌でも持っていれば、死神だとでも思ったかもしれない。
 だとしても恐れるものではなかったけれど。
「僕を知る者は、いない」
 声を出したつもりだったけれど、部屋の中に響いたのはひぅひぅとした音ばかりだった。
 けれどもそれはこちらを振り返って真っ直ぐに自分を見て、興味深げに光るその双眸はこちらの意思を違える事無く受け取っている事を疑う余地はなかった。こういう時、人間ではないと思う相手は便利であると思う。疑う理由も無い。
「僕は、忌み子だから」
 するりと立ち上がって、それが枕元までやって来る。
「何故?」
 やはり、ひぅひぅという音しか残さないこちらの言葉を、それははっきりと理解しているらしい。問いかける言葉ははっきりと、先を促していた。
 ふわりと髪を広げて、こちらの顔の隣に腰を下ろした。
 それの綺麗な顔が見下ろしてくるのを、ただ見上げる。寝返りすらままならないが、それはこちらの視界に入るように座っている。
「僕の両親は、血の繋がった兄妹だった。その子どもである僕は、存在自体禁忌だ」
 両親は、既に亡くなっていた。
 昔は膨大な財産を持っていたらしい一族の末裔であるらしく、唯一の子どもである自分一人が生きていくには充分すぎる程、財は残っていた。だが、元より血族には恵まれなかったらしい家柄らしく、親類縁者は全く存在していない。
 両親は、禁忌を犯す人間らしく、他の交流もなく只、この広い家の中で密やかに暮らしていた。そして禁忌の最大の形である自分は、生まれて以降、戸籍は出生不明児として、両親の末兄弟として籍に入っている。制度上は拾い子を養子にした形である、らしい。
 近所との交流も無く、学校に通う事も無く、この広い家の中で両親と暮らすのは、生活としては歪であったのだろうけれど、物心つき、思春期を経て尚、両親を恨むような気持ちは浮かばず、今こうして自分は死の間際にまで来ている。
 多分それは、愛されたからだった。
 この身は禁忌の果てに、罰のように健常さを持たぬものであったけれど、殆ど家から出る事も無く、知っている事など殆どが文字や映像越しの、実体を持たないものであったけれど。
「遺伝子は、変化を求めるから」
「でも、僕自身は生まれて来て良かったと思ってるんだ。遺伝子に拒絶されても」
 自分の生の意味は、祝福してくれた誰かの存在により、肯定されたから。
 例え他の誰かが、遺伝子が、世界が拒絶したとしても。
 そう言えば、それが笑った。それの長い指がゆっくり伸ばされて、自分の手に触れる。最初の頃は氷のように冷たかったその手は、いつの間にか自分と同じような温もりを持ち合わせるようになっていた。出会った以降に変化した、数少ないものの一つである。
 おそらくは、季節が変わる中、冷たさを少し忌避した自分の感情が伝わったのだろう。
「これは構造的な問題であって、罪だの罰だのは、後から勝手に与えられた意味でしかないよ。禁忌とは、人が定めるもので、遺伝子や世界が定めるものじゃない」
 綺麗な綺麗な顔で、それは言う。
「そっか」
「そうだよ」
 本当でも嘘でも意味は無く、それがそう言うから、そういうものだと思えた。
 この世に、神がいるとは思った事は無い。けれど、それの存在に関しては、神がかりてきなものを信じても良いかもしれないとひっそり考えていた。少なくとも人の力ではない何かは確かに存在しているのだと、それ自身が証明している。
 こんな、人の世界すら殆ど知る事のない自分の前に、何故か人から外れた何かが現れるのは、それ自体が物語じみていて、可笑しい。
「君は、僕の為に来たのかな?」
 思わずそんな馬鹿馬鹿しい子どもじみた妄想を話したら。
「僕は、ただ存在してるだけだけど、少なくとも今僕が此処にいるのは、君の為だ」
 意外な言葉を返されて、動きの弱まった心臓がどくりと波打った。
 まさか、それが、自分の為に此処に留まっているなど、言われるまで全く一欠片も想像しなかったから。
「何故?」
「君の少ない時間を、僕の為に使う事を、君が望んでいる。そうすることで僕の中に残る事を、望んでいる」
 そして、僕も望んだ。
 続けられたそれの言葉に、視界がぼやけた。
 泣いている事を隠せる程、力は残っていなかった。




 終わりが、目の前にある。
 そうしてようやく焦り始めたのは、決して恐怖や焦燥からではなくて、終わりまで傍にいる気でいるらしいそれに対して何かをしてあげたいと、分不相応な望みが首をもたげるようになったからだった。
 自分の事を記憶に残してくれるだろうそれに、感謝の形を。
 手がかりを求めるように、それに問いかけた。
 もう瞬きすら出来なくて、目を閉じたままの視界の暗闇は、その先にいるだろうそれの姿を映す事は無い。
「僕が死んだ後は、どうする?」
「そうだね。君に色々教えてもらったから、人の中に行ってみようか」
 まるで近所に出かけるかのように言うそれに、ふと思いつく。
 自分が消える事でそれに渡せるものがある。
 思いついた事に、安堵した。
 これは、これだけは、誰でも与えられるものではない。自分こそが用意出来るものであった事が、誇らしかった。




「最後に一つ、どうしても聞いてみたい事があるんだけれど」
「何?」
「君は、何だろう」



 最後の最後。
 与えられた答えに、その酷く非現実的でいて、そのくせ現実的な回答に、笑う力が残っていない事が悔やまれた。
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