愚かさは時間と共に朽ちて

文字数 3,189文字

 最初は、確かにそんなつもりではなかったのだ。ただ子供が玩具を欲しがるような、そんな気持ちだったというのが最も近い。
 彼女だけは拒絶しないこの体の意味すら、考える事も無く。ただ、欲しいままに抱いては少し満たされる、だけど直ぐに乾いて彼女を求める。そんな不毛な行為を繰り返しているだけだった。
 欲しい時に得られるように、逃げられないように、逃がさないように追い詰めて、そうして手の中にいる彼女の姿に愚かな安堵を抱いて。逃げ道も与えずに追いつめた自分から、優しい彼女が逃げ出すはずなど無いのは分かりきっているのに。そういう風に仕向けたのは他ならぬ自分自身だというのに。
 満足出来なくなるのもあたりまえの話だ。
 欲しかったのは、都合のいい玩具としての彼女ではない。ただ欲しい時に得られれば良い、そんなものですらない。求めたのは換えのきかない、たった一人の、いつだって傍にいて欲しいと切望している存在としての彼女。それは、捕まえて閉じ込めて手に入るようなものではなくて。捕まえるでもなく、ただ、傍にいて欲しかった。何に強制されるでも無くそのままに。
 自分でそれに気がついたときはもう遅く、僕の手の中には無理やり捕まえた彼女がいて。今更手放して、失う事の方がずっと恐ろしいと感じた。そうする位なら、例え傷つけても傍に置きたい、なんて。
 そんな身勝手な気持ちを抱けたのも最初のうちだけで、自分よりも彼女の方がずっと大切になるのに、さして時間は掛からなかった。当たり前にやって来た成長期が、出会ってからあまり身長の伸びていない彼女を更に小さな者に見せるほどに、募っていくのは、どうしようもない愛しさ。
 傷つけるなんて、出来なくなった。だけど、手放す事は尚更…………出来やしない。

 するべきことは多くて、出来る事なら彼女の事だけを思っていたいなどと言ってみた所で、結局この肩に掛かる責任を無視出来る筈も無いのだ。そして、まだ学生の身でありながら時間の殆どをそんな『仕事』に費やされて、自由時間は数える程しかない。
 それでも、少しでも時間が出来れば彼女を呼んだ。空いていなくても、昼休みなどには必ずと言って良い程に。最初の内こそ、そんな短い時間の中で抱いたりもしたけれど、今ではそんな事はしない。傍にいる、声をかけたりする、それだけで穏やかな気持ちになれる事はもう知っていたから。
 まるで穏やかな水面のような澄んだ大きな目に、柔らかに波打つ長い髪。顔の造りは、高校生だというのに何処かあどけないままで…………そう、もう何度も抱いたのに、それでも汚れる事を知らない。染まる事もなく、彼女は彼女のままで。今は制服の下に隠れている肌の滑らかさを知っているのは自分だけだと思うと、馬鹿馬鹿しい満足感を感じる。
 意思など無視して捕まえているくせに。彼女は、ただ、自分の家族を守る為だけに、その身の自由の全てを差し出したに過ぎない。優しすぎるから。
 そう、手招きをするだけで静かに側に寄って来る。今では彼女の目に疑問も戸惑いも浮かぶ事はない。それだけの時間をもう、共に過ごした。
「此処」
 指し示した場所に、大人しく腰を下ろす彼女。服が触れ合う程に傍にいる、それだけでとくりと一つ高鳴る自分の鼓動。彼女を無理矢理手に入れてからもう結構な時間が経つのに、強引な手段で奪った始めの頃とはもう全く違う、この思い。
 あの頃は、自分の事すら分かっていない程無知だったのだ。ただ、知っているつもりだった。
 それを教えてくれたのも、彼女という存在で。彼女を知る程に、露になっていく自分自身を知る程に、後悔と愛しさと、色々な物が混ざりあった甘くて苦いものが溢れて来る。
 触れたくても触れられない、それは氷で出来た綺麗な彫像にも似た、儚さを感じる気持ち。
「ちょっと手伝ってくれる?」
「はい」
 口実でしかなかった。柔らかい手に触れたいが為の。
 おかしいと思う。手に触れる以上の行為だって何度もしてきたのに、ただその手に触れるだけでもこんなに緊張するのだから。
 振り返れば…………そう。普通の男女が経る過程とはまったく逆の経緯を経て、今に至る自分と彼女。一方的だが、体を繋げたのは最初の頃で、キスをしたのはそれからしばらく後だった。最初の行為と比べれば大した事が無いかもしれない、そのキスにすら酷く酔いしれた自分が居て。
「あ……」
 振れた手を、引き寄せた。
 それに引き寄せられるように傾いた彼女の体を、抱きしめる。不安定に置いてあった書類が何枚かぱさりと落ちた音がしたけれど、気にならなかった。
「沙羅弥、書類が……」
「ん」
 ふと思い出してしまった過去の感覚を、冷ます為には今の彼女の熱が必要だったなどと、どう説明できる感覚でもなくて、適当な相槌で誤摩化した。少し冷たい彼女の髪の感触と、心地よい肌の温もりと、今では生活の中に染み込んだ柔らかな匂いに目を細める。
 少し身じろぎしただけで、逃げようとはしない彼女。今この世界でたった一人、自分から触れたいと願い、この体が拒絶しない相手。それ以上に、心が落ち着く、居場所。
 大好きだなんて、今更伝えられる権利すらないのだろうけれど…………多分、この気持ちを言葉にするならそんなものでは足りなくて。でもそれは思い浮かべるだけですら罪になりそうな、あまりに深くて強い気持ち。
「ちょっと、疲れた」
 そんな、ありきたりな言葉で誤摩化した。
 ただその一言だけで、彼女は大人しくなるから。いや、例え言わなくても大人しいままなのだけれど、自分が理由を欲しかっただけだ。こうやって、甘えられる言い訳を。
 理由が無ければ触れられない程、自分の中の彼女という存在は大きくて、何処か神聖で。そう、汚してしまったと、だけど全然穢れないままだと思う程に。
「かなり、慣れたな」
「え?」
「最初の頃は、さ。俺がいきなりこんな事するだけでも、結構緊張してただろ? だけどほら、今は全然緊張してないだろ、神宮」
 こうやって触れ合うからこそ、分かる。言葉以上に確かに伝わって来る、彼女の状態。始めの頃はそれでも自分の事ばかりにかまけて、彼女の事まで気遣う余裕なんて全くなかった。だけどこうして、今となったら、言葉以外で伝わって来る情報の多さに驚く。
 その目を見るだけで。
 触れるだけで。
 分かるような気がするのは、もしかしたら単なる思い込みや勘違いかもしれないけれど。引き寄せるとそのまま、くたりと体を預けて来るその事に密かに喜びを感じている自分がいるのだ。時間が経つ程に抵抗が無くなっていく事に、安堵を感じている。まるで受け入れられているような気がして。
「そうですね」
 小さな肯定が帰ってくる。
 こんなやりとりすら、勘違いしそうになる。彼女は、望んでここに居てくれているのではないか、なんて。有り得ないのは分かっていても。
 欲しいのだ。彼女の全てが。手に入るのなら、どんな事だってする。それこそ、許されるのならばこれまでの事全て跪いて許しを請うて、この先の人生全てを捧げたっていい。いや、自分の中ではもう既に彼女に全て奪われているのだけれど。
 気づいていないだろう? 時折見せてくれる微笑みだけで、自分の心を奪って離さないこと。
 本当は、最初の契約などとうに失われている事を。甘えて乞われる只それだけで何でも差し出すのに。
「知ってる? 俺も、緊張してたんだよ」
「え?」
「何でも無い。じゃあ仕事するかな」
 今でも緊張しているなんて、まして言える訳も無い。
 大切すぎて、時間が経つ程に愛しさは増過ぎて、もうどうしようもなく心は彼女に囚われたまま、それでも尚気づかれないようにそっと閉じ込める。まだ、閉じ込めることができる。
 そうして、腕の中の存在をそっと手放した。
 きっと限りあるのだろう、その時間を、ほんの少しでも伸ばす為に。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み