日常
文字数 3,487文字
後輩のつまらないミスをどうにかフォローし終えた頃には、真夜中を少し越えたくらいの時間になっていた。今から家に帰ることが出来なくも無いが、終電に駆け乗って家に帰った所で、明日も朝から仕事がある。
誰が待っているわけでもない家に帰る程の気力は湧かなかった。
落ち着くという意味では、もう10年近く働いているこの職場と広くない我が家はいい勝負なのだ。それならば覚悟を決めて泊まってしまおう…………そう考えて何が悪い。まぁ、覚悟とか言ってみても月の半分は此処に泊り込んでいる現状を考えると、むしろこれは日常の延長線のようなもの。
今はいないただ一人の上司である部長がわざわざ私費でもって用意したと言われているこの部署専用の休憩室は、実は下手なホテルよりも設備&家具が整っていたりするし、泊まることで不都合は無い。着替えも、常に常備しているし。
同じ建物内で働く者達は想像もしていないだろう…………同じ建物の中にキングサイズのベッドがあったり、数人は入れる風呂があったりするなんて。さらにキッチンもトイレも、専用に置かれているなんて。
それだけ見れば相当優遇されているようだが、それら設備の使用頻度を考えるとそうも言っていられない。労働基準法など瓦解して久しい現在のこの国だが、ここまで労働力が酷使されている職場もそうないはずだ。
それもこれも、最もこの職場で戦力になるはずの唯一の上司が休職中な為だが。
「…………意味が無いな」
其処まで考えて、頭を軽く振る。
いない人を責めても仕方ない。
あの人は、自分などの考えなど遠く及ばない所で生きている。その存在の価値は、計り知れない。実力主義であるこの組織で、地位が変わることなく休職などということがまかり通る時点でそれは明らか。
休職されるリスクよりも、辞められるリスクの方が高い、ということだ。
ため息が出る。
「まぁ、仕方ない」
それでも、彼の下で働きたいと思った自分の負け、なのだ。彼に有能だと認められることに誇りを見出してしまった、その時点で運命は決した。
まるで恋みたいだな、と思いながらシャワーだけでも浴びようと風呂へと向かう。
今日は他に泊まっているものはいなかったはずだ。後輩は夜中になる前に家に帰したし、他の者も泊まるほど切羽詰っていなかったはず。仕事場の電気を最後に消したのも自分。
あの広いベッドを独り占めできるのは悪くない。
むしろそれがあるからこそ、家に帰らないのかもしれないなと思い、少し笑った。
そして、シャワーを終えて着替え、ベッドまで来たわけだが。
………………全身を軽い倦怠感が襲う。疲れたから、というのもあるのだろうが。
「何でいるんだ、唐杉」
広いベッドなのに、何故か片方に身を寄せて丸まっている寝ている見慣れた…………今では親兄弟よりも見慣れた気がする…………姿を見つけたからだ。自分で用意しているパジャマ代わりの軽装で、いつもは三つ編みにしている長い髪を今は散らせている。
この職場で唯一、自分と同位置にいる同僚。
髪に関しては、今更「男の癖に伸ばすな」とか言わないし(出会った頃から言ってないが)、年上の癖に童顔女顔なのも見慣れた。奇行が多いのも、まぁ実害が無いから問題ないし、自分には見えない「沙良」という存在が彼の仕事を助けているらしいのも、実際結果が出ているから問題ない。
妙に懐かれているのも、どうでもいい。
「あ、やっくん〜遅かったね〜?」
寝ぼけた顔でそう言ってくる、ソイツ。
遠目で見れば、長い髪もあって女に見えるかもしれない。
空いている方に腰を下ろして睨みつけながら、問う。
「お前、今日は9時前に終わってるはずだろう。どうして此処にいるんだ」
「…………定期失くした」
泣きそうな顔をして、答えてくる唐杉。
まるで迷子の子供のようなその顔を見て、思わず言葉がするりと先に出ていた。
「阿呆」
「酷っ! 僕だって失くしたくて失くしたんじゃないよっ。今日はかなり動いたからどっかで落としちゃったんだと思うんだよね」
「阿呆じゃなきゃ大馬鹿だな。お前、定期失くしたってことはIDも失くしてんだろ? 財布ごと失くしたって事だよな? そうじゃなきゃ自費で帰っているよなぁ?」
「う…………」
あぁもうコイツは、普段は使えるくせにどうしてこう偶に大失敗するんだ?
定期はどうだっていいが、IDを失くすのは拙い。この建物の出入りもそうだが、クレジットや保険証、身分証でもあるIDカードは下手な奴の手に渡れば格好の餌食になるのは間違いない。どうせ帰ってきたときは後輩の誰かと一緒だったから入れたのだろう。普段俺達は大概、後輩の誰かを連れていてそいつらが自発的に入り口を開けるし、もう古参の部類に入るコイツは入り口も顔パスだっただろう。
そう考えるとセキュリティが甘いな。今後の課題だろう。
ウチの部は指紋と瞳孔の照合だからID関係ないしな。
「まったく、そういう事は早く言えよな?」
「だって…………」
「今日は俺だけ泊まりだったからいいけど、他の奴に話せる内容じゃないだろう! これは高レベルの不祥事だぞ!? 俺達が今、どういう地位なのか解ってるよな?」
「…………うん」
二人揃って休職中の部長代理。
代理とはいえ、その権限の殆どは委託されている。実質、この組織の中で天辺にいるわけだ。その意味を自覚しようにも、あの上司の代理としては二人揃って心許ないのは自分達自身が誰より実感しているので、よく忘れそうになるが。
よく考えれば、大使とかと同レベルなのだ。
それがIDを失くし。あまつさえ悪用されようものなら…………考えただけで恐ろしい。
「ったく。ちょっと待ってろ」
「やっくん?」
こういう時、とる行動は限られる。
此処最近は本人が不在なので忘れかけられているが、特にこういう緊急を要する重大な問題の場合に、特に効果を発揮する方法がある。唐杉本人も解っているんだろうが、その後の怖さゆえにあえて意識から外してた可能性が高い。
携帯を、取り出す。
短縮の上位に、その人の番号。こんな深夜だから家の電話よりも携帯の方がいいだろう。小さな子がいることを考えれば気が引けるが、内容が内容だけに早めに連絡を取っておくべきだ。
数回の呼び出し音の後、その人の声。
深夜の突然の電話なのに、特に機嫌を悪くするでもなく…………多分、これから悪くなるんだろうけど。
「夜分遅く申し訳ありません、部長」
「……やっくん!?」
悲鳴のように唐杉が声を上げるが、無視。
手短に起こった事を話すと、しばらくの沈黙の後に「代わってくれるかな?」と一言。その声がやけに穏やかなのが逆に怖い。
携帯を差し出すと、恐る恐る唐杉は手にとって話し始めた…………。
鬱陶しい。
俺は一応、ついさっきまで仕事していて。
今は丑三つ時で。
つまり、かなり疲れているのに。
どうしてコイツと同じベッドで寝てるんだ? いや、ベッドの広さで考えれば問題は無いんだが。何か微妙な気分だな。
「部長、怖かった…………」
そりゃそうだろう。それだけの事はしたぞ、お前。
「別に、怒鳴ったりはしなかったけど……」
あの人の怒鳴ったトコなんて見たこと無いぞ?
「でも、どうにかしてくれるって」
そう言うからには確実に「どうにか」してくれるんだろうけど…………何をどうするのかに関してはかなり興味があるな。
「ごめんね、やっくん」
俺に謝ってどうする。
「今度何かあったら、僕が力になるから」
…………俺がヘマをする前提か? 失礼な。
「こうしてると川の字みたいな……」
それは沙良含め、だよな。
残念ながら俺には彼女が見えないんだが…………どういう状態なんだ? 今。
まぁいい。もう寝ろ。明日も仕事が山のようにあるんだから。
「うん、お休み」
あぁ。
翌日。
朝早くに(他の人間に見咎められないように、なのだろう)直接寝室までやってきた部長が、失くした財布ごと何一つ損なわれてない状態で唐杉に渡して俺達の度肝を抜いた。
ついでに「おしおき」と称して、俺達二人が同じベッドで並んで眠る姿の写真を(本人曰く「いくら僕でも沙良ちゃんは写せないよ〜ポラロイドじゃ」…………他なら出来るのか?)空席のままの自分のデスクの写真立てに飾っていって、後々後輩達に微妙な視線を送られることになる。
どうして「おしおき」に自分が巻き込まれているのか、は疑問であったが、一応連帯責任として甘受しておく。
こんなんでも、一応ヤツは使える相方なのだから。
きっと俺がヘマをした時には巻き込まれてくれる事だろう。