月の裏側

文字数 2,768文字



 それに気がついたのは、最初に戻ってきた時。
 日が射す事の無い冷たい世界で、ひっそり息づくその存在に興味を惹かれて近付いた。それは本当に純粋な好奇心で手を伸ばしただけの事だったけれど、自分と良く似た色を感じたから余計に気になったという部分は否めない。
 別段知識も何も無く伸ばした手は、最初強く払いのけられた。
「何だよ、お前」
 きつい目で睨んでくるのは鉄色の髪の男。
「また女装してんのかよ、趣味悪いな、大体何しに来たんだよ」
 続いたその言葉に、相手が自分を誰かと間違えているのだと直ぐに気がついて、更にはそれがどうやら男を指していると解った瞬間に、むかついた。正直な話、この見た目は色以外生まれ持ったそれから変わっておらず、故に女装などと言われる筋合いは無い。
 だから彼女は真っ直ぐに睨み返した。
「誰と間違えてるのか知らないけれど、アタシは前から女よ」
「は? 康介じゃ……ないのか?」
 その名に、今度は女の方がきつい眼差しになる番だった。
「ちょっと、冗談でも止めてくれる!? あんな手抜き身勝手バカヤローと同一視しないでよね」
 苛立ちも込めてそう言い放てば、目の前の男はぽかん、とその表情を変える。そのあからさまな表情の変化を前にしても、彼女の苛立ちが消える事は無い。何しろ例えられた相手が悪過ぎた。色々な意味で彼女からすれば腹立ちこそすれ、平穏ではいられない。
 何せ元凶である男だ。
 自身で選んだ事を相手のせいにする気も無いが、だからといってこの現状を作り出した事それ自体の罪が消える訳ではない。寧ろ、そんな事関係無くこの状況が何時しか訪れる事は確定していたのだから、より混沌に突き落とした責任は重い。
 まだ、早過ぎるのだ。
 アレがしたのは、結局の所、赤子にナイフを持たせて遊ばせてしまったのと同義。そして本来なら未だ来る筈の無かった余計な危険を呼び込んだ。
 しかも理由が、総て己の遊興の為だというのだから、傍迷惑極まれり、である。
「お前、本当に?」
「だーかーらっ!! これ以上疑うとマジ喧嘩売ってるって解釈するわよ!? あんなアホと一緒にしないで!」
 それでもまだ不安そうに問われるものだから、より腹が立ってがん、と足を踏み鳴らして抗議をすれば、ようやく相手は理解したようでふっと表情を緩めた。
「そっかー。何か近い感じだから間違っちゃった。悪かったな、マジで」
「ホントよ。あんな極悪非道野郎に間違われるなんて…………一生の恥だわ」
 溜息と共に吐き出せば相手の男は思いっきり笑い出した。
「そっか、ははは、そっかそっか。本当に悪かった。何かアンタとは話が合いそうだなぁ。俺も同意見!! アイツ程ヤなヤツいないよな!」
「よね!? アレ程嫌なヤツこの世にいないわよ!」
「そうそう!! 最悪だよな!」
「…………」
「…………」
「何だ、アンタ、良い奴じゃない」
「そう言うお前こそ。さっきはほんと悪かった。あんなのと一緒にして」
「いや、構わないわよ」
 そんなに根を保つ性格でもなく、彼女はひらひらとその手を振って「それよりも」と目の前の男を見る。彼女が此処に来る原因になったのは、正しくは彼ではない。原因を生み出し保持する起因にはなっているだろうが、原因そのものは別に居る。
 感じる。
 かすかな命の鳴動。それは明らかに彼のものではなく。
「私は、アレと対極にあるけど、アレと似たようなモンよ。ところで、此処に居るのは、誰?」
 同じだけれど、対極。その言葉に男が視線を眇める。
「じゃあ、お前がアイツの言ってた『まだ目覚めてなかった片割れ』ってこと、か」
「結果的にそういう事」
「そっか…………じゃあ、もう結構経ってるんだな」
 ふっと男が笑った。その足下からゆっくりとせり上がって来るのは、透明な膜のような丸い中に眠る、真白の長い髪を持つ美女。長い睫まで真白とあれば、それは染めたものでない事は容易に解る。そして同時に、その存在こそが彼女が感じていた命だった。
 微かに、細く、けれどしっかりと其処に在る命は、然れど異質なモノ。
「貴方は、このヒトの?」
「うん。本当は俺、異界から来てんだ」
「い、異界!? 平行じゃなくて、異界?」
「そう、異界。最初はアリアが、彼女が異界に喚び出されて、それで戻って来るとき、俺がついて来た。どうしても、離れたくなくて」
 つう、と美女の眠る核の外を撫でる手は優しく、そして語る男の目は確りとした理性が在る。この世界における男に近いソレとは、微妙に異なるその有り様は、成る程異界から齎されたため故かと彼女は納得する。
 彼女のソレですら、ここまでの個は未だ持ち得ていない、今だ発達途上にある。
 其処まで考えて、この場所に彼等がある理由に、彼女は辿り着いた。
 彼女が生まれる前であるなら尚更に有り得る、恐らく彼等の存在にとっては不都合な未来。
「同一化が、始まりそうになった?」
「…………うん。それで、俺はそれでも良かったけど、アリアが駄目だって」
 その名は、美女のそれなのだろう。
 これ程までに心を育てたその存在を、同一化により失わせる事等選べない、その気持ちを恐らく誰より理解出来るのはその育てられた当人ではなく、この場を訪れた彼女だった。
 二つある選択肢の内、彼女が生まれるまでは限りなく低かったもう片方。
 異界の存在であり本来であれば在るべきでないにも関わらず、しかし彼等は彼女と同等に近しい。だからこそ、世界が安定の為の同一化という選択を強要しようとしたのも、ある意味では仕方ないのかもしれない。だが、今は違う。
 彼女はもう、此処に居る。
「そうね。私でも、そう言うでしょう」
「だからアリアは眠ってる。俺、アリアの意思ならそれが何であっても頑張るよ? 頑張るけどさ、でも、ホントは少し、寂しい」
 けれど意識が目覚めていれば同一化は進むだろう。
 故に彼女は、眠りを選んだ。
 隔絶を、それに伴う孤独を、この大事な存在に選ばせてまで。
 それでも同一化を選ばなかった彼女の意思を、無下に出来ないこの存在の心を理解していて尚、彼女は同一化したくなかったのだろう。それによる彼という個が失われる事を、拒んだ。
「そう。じゃ、そろそろ起きてもらおうかしら?」
「え?」
「私が目覚めた。故に貴方達の同一化は、私が拒絶できる。私は拒絶する。それならば、これ以上彼女が眠っている理由も無いんじゃない?」
 そう言った瞬間の彼の表情は、本当に幸せそうで。
 これが、同一化の無いそれの有り様の一つなのだと彼女は、その目に刻んだ。
 そうして永き眠りにあったかの女性が、月の裏側、永遠の闇の中からゆっくりと目覚める。長い睫の中の瞳の色は、濁った血のそれにも似ていて、存在自体が平穏とは遠い事を知らしめるかのように、瞬く。それが争乱のもう一つの切り札の覚醒、だった。

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