与えられた役割の証

文字数 2,461文字


 暢気な声が外から聞こえる。
 その声のする方に目をやった佐倉は見えた光景に思いっきり飲んでいたコーヒーを咽せた。向かいの席の山崎がそれに驚き「おわぁぁっ!?」と叫んでいるが、佐倉からすればそれどころではない。視線をやった透明なガラスの向こう、二人の上司に当る副部長の片方が、何やら鼻歌混じりに干しているのだ。
 …………灰色のロングコート。
 その表の左側(佐倉から見て右側)には、特徴的な黒の刺繍が施されている。
 三本の、菱形と、その上下に真っ直ぐな直線が肩から足下まで貫いて。
「なんだよいきなりっ!」
「あああ、アレ! ナニあれ!!」
 苦情を漏らす山崎に佐倉はそれを指差す。
 相変わらず副部長の一人は、そのコートを丁寧に干す事に集中していた。
「はぁ?」
 指の先を追うように山崎がその光景を目にして、そうして何事も無かったかのようにまた書類作成に戻りながら言う。
「タダの洗濯じゃねーか」
「どこがだぁぁぁぁぁぁ!!」
 さらっと言われた言葉に思わず全力で叫び返した佐倉にも言い分はある。
 かのコートは、機関内で部長格にのみ特別支給される正装の体裁を明らかに備えている。ただ、普通のそれと全てが同じかと言えばそうでもない。普通の部長格のそれには、表の両側に黒の刺繍が施されているし、灰色という色も見た事は無い。
 例外的に彼等の所属する部署の部長のそれは黒地に銀の刺繍だったり、他部署であるが特別機動部のような『特務系』だと白地に黒の刺繍だったりはするが、基本は青地に白の刺繍である。
 それが、灰色で、しかも縁取りは片方のみ。
 偽物かと突っ込みたくもなるが、この部署の場合そう簡単に話が進む訳でもない。
「あのコート何!? 初めてみるんだけど」
 一応、機関内に正式に所属している部署である。まさか偽物を堂々洗濯しているとは思いたくない。そうでなくともこの部署、普通ではないのだから。
「そういえばお前は知らないんだっけ? ほら、唐杉さん達、昔部長代理してたのは知ってるだろ?」
「う、うん」
「その際に、あのコート使ってたんだよ。懐かしいな〜」
 佐倉は、今の部長が復帰してからの所属であるが、山崎はそれより遥か前、今の部長が休職する前辺りから所属しているらしい、部署内でも古参にあたる所属者である。故に、当然だが色々な事を知っている。
 古株ではあるが、ぞんざいな佐倉の口調にも大して気にはしない大らかさを持った、良い先輩だった。
 良い先輩だが。
「いやちょっとまって下さいよ! あれ、部長用のでしょっ!! まだ持ってていいんですか?」
 部長格に支給されるそれはあくまで貸与品である。
 それは正装としての格を表す役割から考えて当然の事であったし、同時にその地位を失えば返還義務が生じるのも当然の事だ。仮に部長代理時に使っていたモノであったとしても、副部長という地位になっているからには通常ロングコートは支給されない。
 副部長迄に支給されるのは、もっと丈の短いソレだ。模様も異なる。
 だから、今の唐杉がそのコートを所有している時点で何かおかしいのではないかと佐倉は言いたかった訳だが。
「あぁ、あのヒト達の場合、代理権は残ってるから」
「は?」
 仕事の手は休める事無く山崎は言う。
「正しくは最初から代理権は持っていた、かな。で、部長の代理権を持っているから、支給されてんの。一応公式な規則で代理権所持者への規定コート支給は認められてるよ〜」
 つまり、この部署で副部長という地位にいる唐杉という上司は、実際には部長としての権限も所持しているのだと、山崎は端的に説明してくれる。
「え? ってことは、山辺副部長も?」
「当然。刺繍の位置が逆のヤツを持ってるよ。後、他の部署だと医療部の烏間副部長とか、対外商業部の島副部長とかが持ってたかな?」
「…………マジですか」
 出てきた名前は、面識の殆どない佐倉ですら名前くらいは知っている程の、そうそうたる面々である。また同時に、どういう事情かは不明だったが、それぞれに部長と慣れるだけの能力を有していながら部長に就任しない者達でもあった。
 つまり、部長でなくとも、代理権を所有している者達にも総じて部長格のコートは支給されるものらしい。
 初めて知った事実に愕然としつつ、(そういえばウチの部長のコート姿なんて殆ど見てないけど)と佐倉は思う。あれは、本当に正式な場でのみ着る義務がある物で、普段の着用義務は無いので少なくとも彼等の上司にあたる青年は殆ど身に付けていた事はない。
 それに合わせてか山辺・唐杉双方も同じくコートは未使用だったので、佐倉は今迄知らなかったのだ。
 なる程と佐倉は納得して仕事に戻った辺りで、部署の扉が開く音がする。
「帰ったよ〜」
「戻った」
 斉藤部長と、山辺副部長が戻ってきたらしい。
 予定では山辺副部長の戻りはあと2時間は後だった筈だが、早く作業が終わったのだろう。山辺の場合そういう事は少なくなかったので誰も驚かない。斉藤の方は30分前に戻ってなければならない筈だが、これもさして珍しい事ではなかったので誰も驚かない。
 さぼっている訳ではないのは皆知っているのだ。
 例え帰りの時間が適当でも、斉藤は誰より有能で仕事をしている上司なのだから。
「おかえりなさーい」
 部署のあちこちから声がかかる、そんな中。
 山辺の顔が、固まった。
 視線の先には未だ二人の戻りに気付かず洗濯もの干しを続ける唐杉がいる。
「か……」
「か?」
 にこっと問いかける斉藤。
「唐杉ぃぃぃぃぃぃぃっ!!!!」
 叫びながら山辺が走って行く先は、ガラスを隔てる扉の方。
 その声に漸く気付いたらしい唐杉が振り返って、固まっている。
「ややややっくん! は、早……」
「何しとるんじゃ己はぁぁぁ!!」
「せ、洗濯」
「仕事中に洗濯すんなぁぁぁぁっ!!」

「「「「あ。」」」」

 その瞬間に部署内の複数名の声が被ったのは、偶然であり。
 あまりに自然に洗濯がされてるものだから、誰もその根本的部分に対し疑問を抱くのを忘れていた事を思い出した合図であった。
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