こどもに戻る日

文字数 2,672文字

 彼女にとって、今この場で同じベンチに座り、隣でウキウキとした様子で風呂敷包み(冗談でなく、本当に唐草模様の時代錯誤も甚だしい風呂敷である)を開いている少年は恐らく、唯一であろう同年代の友人であった。
 恐らく、と付けてしまうのは、その辺を本人に未だ確認した記憶が無いからだ。改めて確認するようなものでもないが、確証もないその関係性を、一体何処から基準付けて良いものか、歳よりも思慮深く、言い方を変えれば考えすぎる彼女は決めかねていた。
 この問題を思う時、幼いこどもなら、そんな問題は問いかけ一つで終わってしまうだろうに、とも彼女は自嘲したくなる。
 それでも彼女が少年を友人という位置に心の中で置いているのは、彼女自身の意思というよりも、想像の中で少年にその旨を問いかけた時に、毎度のように『当たり前だろっ? っていうか友人じゃないの? えぇぇえ!?』等と酷く驚愕されるからだ。
 この予想はあながち間違っては無いだろう、とも思う。
 毎回用意される二人の時間は作為的なものが多々に含まれているものだったが(けれどそれに気づいているのは彼女のみだ)少年の気性を考えれば、少し関係を持ったものなら容易くそんな想像はできる筈だ。
 そして、少年は悪い意味でそれを裏切ったりはしない。
 だから、間違ってないのだろう、友人という関係で。
「今日はさー、ローストビーフ入れてもらったんだ」
 思索に耽っている所で、お気楽としか表現しようの無い、少年の明るい声がした。
 見下ろせば黒の重箱の蓋が既に開かれていて、ぱかぱかと遠慮なく少年がその下を開く度に鮮やかな食べ物の色彩が目に刺さるように入ってくる。入れてもらった、というのは恐らくこの弁当を作ったのが少年の兄なのだろう。
 本来は仕事に忙殺されている筈の既知の青年を思い、改めて彼女は少年を見る。
 兄弟である青年と目の前の少年は、似ている場所を探すのが難しい程に、全くもって近似が無い。
 少年の黒く真っ直ぐな髪は兄の栗色でふわふわした天然パーマとは明らかに異なっていたし、鋭めの黒の一重の目も、兄の鳶色の二重と明らかに異なる。性格からしても狡猾にして老獪で何を考えているか解らない底知れぬ恐ろしさを常に感じさせる兄とは異なり、先に述べたように弟は非常に解り易く、しかも明朗快活を地でいっている。
 最初こそその裏を常に探っていた彼女ですら馬鹿馬鹿しくなる程に、少年には表裏無く、明け透けだ。
 だからこそかもしれない。
 時折こうして少年に誘われる時間を、断れないのは。彼女の周囲は常に大人ばかりで、そして彼女自身もその中に常に溶け込んで腹の探り合いをする日々だったから、時折この何も得る事が無い只食事をするだけの時間が、貴重に思える。
 勿論少年の他にもそんな時間を過ごす相手は居たけれど、彼はまた別だった。
 唯一、同世代だった。
「最近どうよ?」
 いただきます、と出だしだけは丁寧に(そういう所はきっちり躾されているようだった)少年は重箱を突つき始め、それに合わせるように彼女も箸を手に茄子の肉詰めを口にする。
 一流のシェフにも勝ると劣らぬ、弁当とは思えない丁寧な味付けと完璧な造形に、やはり少年の兄は恐ろしいと思う。
 もし、この食事の中に毒が盛られていても、これでは確実に気付けない。
 いや、かの青年は間違いなく気付かせるようなヘマはしないのだろう。そんなモノを迷い無く口にしているのは、単に利害関係を考えてその可能性が無いに等しい事と、目の前の少年が口にするものに、あの弟をこの世の何より溺愛している青年がつまらぬ細工等しないだろうと確実に言い切れるからだ。
 なにせ、あの青年は弟の為だけに日本の犯罪発生率を10年間3割下げたような男である。
「いつも通り忙しいわ」
「ふぅん。大変だなぁ」
 曖昧な返事をすれば、のほほんと太平楽な返事をする少年は、暢気を絵に描いたような顔をして相槌を打ってくる。元より彼女の仕事を理解出来るとは思っていないのだ。
 かといって、この時間で少年は彼女の権威や信頼を求めてくる訳でもない。
 そして羨望も嫉妬も何も無い。そこに在るのはごく自然な、普通にどこにでもありそうな昼食。
 そう、ただ、ゆっくり食事をするばかりである。いつも通りのこの出だしの後は、少年が食事をしながら延々と日頃の他愛無い学校や家や周囲の出来事を一方的に話し続けて、彼女は逆に相槌の打ち手に変わる。時々非常識な事が含まれているが、その話の殆どは本当にどうでも良いような事ばかりだ。
 近所の犬に子犬が生まれたのだとか。
 近くの商店街の肉屋のおじさんがおまけをしてくれたとか。
 来月は遠足があるのだとか。
 彼女からすれば得た所で何に使えるでもない、本当にどうでも良い事ばかり。それなのに、そんな話を聞いていると肩の力が抜けていくのを彼女は確かに感じる。
 多分それは、本来彼女の歳のこどもが皆持っている感覚。
「遠足の弁当って何がいいんだろうなー? クラスでも意見分かれててさぁ。おにぎり派とかサンドイッチ派とか。なぁ何がいいと思う?」
 こども、という立場、だ。
 この瞬間にだけ彼女はこどもに戻る。
 正しくは、大人扱いをされる事が一切無い。目の前のこどもである少年と対等な、こどもになる。
 どんな事を言っても、自身の心以外に何の責を負う事も無い。普段抱えている重圧の全てが、この時にだけは完全に切り取れる。何より相手がその重圧を全く一切全然気にしていないのだから。
「おいなりは?」
「あ、それいいな。それにしよ」
 後はオカズだと、育ち盛りのためだろう、結構な勢いで重箱の中身を減らしていく少年は嬉しそうに頷いた。そして今度はオカズについての、他愛無い話が続く。
 恐らくその弁当も作るのはあの兄なのだろう。
 大事な弟の為ならどんな手間暇も惜しまないあの青年は、この重箱のような豪華な弁当を弟に当日持たせるに違いない。関係無い場所の話なのにその様がありありと想像出来て、彼女は面に微笑みを浮かべる。
 欲しいとは思わない。
 生まれた場所が場所だけに、今更得られるとも思わない。
 けれど、話に聞くだけでも充分にそれは温かな、こどもの時間だった。
 大人である事を歳不相応に既に求められている彼女は、束の間のこどもの時間を惜しむように、ゆっくりと重箱の中身をつつく。
 時間はまだ少しだけ、ある。
 同い年の友人は、まだまだ話すネタが尽きないようであることだしと、彼女はスパイスの良く効いた香ばしいローストビーフを噛み締めながら、こどもに戻っていた。
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