重なり合う手

文字数 4,486文字

 どん、と身体がぶつかり合って、彼女は思わずよろめいた。バランスを崩した身体をけれど倒れないよう支えてくれたのは、ぶつかってきた誰かの伸ばされた手だった。腕を掴まれどうにか体勢を整えた彼女は小さく安堵して息を吐く。
 それはぶつかってきた相手も同じのようだった。
「あー、ごめん、俺、見てなかった」
「いえ、私の方も同じですから、すいません」
 さっぱりと謝ってきた相手の少年に、彼女の方も深く頭を下げて謝った。
 実際には彼女の方が人の通りが多いショッピングモールの通路でぼうっとしていた所が大きいのだ、少年の方はそれに気づかずぶつかってきたのだろうと彼女は思う。顔を上げて見た相手の少年は、彼女の弟と同じくらいの年齢だろう子だった。
 真っ直ぐな黒髪に、同じく真っ直ぐな目をした少年だ。同じ位の年齢の少年にありがちな、どこか気負った所が一切感じられない、酷く自然体の少年で、裾の長いコートを着ていた。
 服にはあまり詳しく無いのだが、艶を抑えた黒のコートに茶の上着、そして色のあせたジーンズはそれぞれに安っぽく無いように思える。最近質の良いものに触れる事が多くなったからこそか、そんな部分が彼女の目を引いた。当の少年の方は彼女の視線に気付く事なく、「怪我無かった?」等と問うてくる。
「いえ、大丈夫です」
 丁寧な言葉遣いは、癖だ。
 ただ歳下だと明らかに解る相手にそれは珍しい態度である事は違いなく、言われた少年の方がきょとん、と目を瞬かせる。
「お姉さん、丁寧だね?」
「すいません、癖なものですから」
「ふぅん。珍しいけど、良いんじゃない? お姉さんに合ってる」
 にこっと笑った少年の方には、全く本当に年上に対する気負いらしきものが見当たらなかったのだが、それはそれで少年によく似合っているように思えて彼女の方も思わず微笑んでしまう。
 自分の癖が時に距離を置いていると周囲に誤解される事もこれまでしばしばあった。
 だから、この少年のように全く気にしない態で接し続けてくれる相手の方が実はとても少ないのだ。
 まるで弟のような気さくさは、少年独自の雰囲気に由来するものだろうか。出会って間もないにも関わらず彼女はもう相手に対する警戒感が殆ど無くなっていた。こんな事は滅多に無い事だ。
「俺ね、今、兄貴探してるトコなんだけど、お姉さん、すっげー背の高い茶髪見なかった? やたら顔が目立つヤツ」
「いえ…………そういう方は見てないですけれど」
 どうやら迷子であるらしい。それにしても不安気や危機感等全く無い少年の、全くてらいのない兄の表現に返答しながら彼女は自分の弟を思い出していた。彼が迷子になっても、さすがにこんな暢気な態度はしないに違いない。
 それ程までに少年は酷く自然体だった。
「貴方は、長い黒髪の綺麗な人見ませんでした? こう、真っ直ぐな綺麗な髪をしてるんですけど」
 だから彼女の方も自然に問いかけてしまった。
 実は彼女も迷子なのだ。というより正しくは連れである友人とはぐれてしまって途方に暮れてしまったというのが正解なのだが。訊かれた少年は少し上を見てしばらく考えるような仕草をした後で、残念そうな顔をして首を横に振った。
 彼女の連れは、今彼女が述べたような容姿そのままで、その髪の見事さ一つとっても酷く目立つ存在である。それでも記憶に無いのなら、きっと少年は本当に見かけていないのだろう。
 さすがにこの歳で迷子センターに駆け込むのも、そして呼び出されるのも避けたいものだと彼女は思う。
「お姉さんも迷子? じゃあ俺たち一緒だねぇ」
 兄を捜しているらしい少年の方は、酷く太平楽な様子でそう笑いながら言う。
 どうやら今の状況に関して少年の方は然程危急を感じていないらしい。
 年下であるのにその様がとても心強く感じて、さっきまで不安を感じていた彼女自身の気持ちすら軽くさせるだけの力を持っていた。その様子を見ていると、自分の方もどうにかなるような気がしてくるのだ。
 不思議な少年だと、彼女は思った。
「じゃあ、ちょっと一緒にいない? 多分俺たち一緒にいる方が目立つ気がするし」
「? それは構いませんが…………」
 目立つ、という意味を理解出来ない彼女だったけれど、警戒心をすっかり無くした彼女は少年の提案に抵抗も無く頷いた。

 しばらくの間、他愛無い話を二人、近くにあったベンチでしていた。
 主に少年の方が話をして、それに彼女が頷くような形だ。少年の話は兄の話や日常の些細な話、知っている人の話などとても様々なもので、彼女に飽きさせるような暇も与えなかった。その年齢にしては珍しく、少年は年上の人と話をするのに慣れているようだった。
 名前を信介という彼は、楽しそうに色々な話を彼女にしていた。その様子があまりに楽しそうだったから、彼女も十分楽しかった。
 そんな中で、不意に信介が宙に目を遣りきょとんとする。
「あれ、お姉さんの連れ?」
「え?」
 その視線を追うように彼女もそちらを見上げたけれど、何も見えなかった。だが少年の方はその目に何かを映しているらしい。
「あ、見えない? ゴメン。じゃああれお姉さんの連れの人の連れなのかな? ってことはもうすぐお姉さんの連れ、来るんじゃない?」
 まるで当然のように少年が言うのを、彼女は見る。
 短い時間しか共にしていないが、相手が嘘を言っているようには思えなかった。では、少年は間違いなく彼女には見えない何かを見ているのだ。
「何がいるの?」
「ネコ…………じゃない、虎だって。二匹いる。ちっこいのが」
 そう少年が言っている間に、ばたばたと忙しない足音が直ぐに聞こえてきて、更には彼女の名を呼ぶ友人の大きな声がそれに重なるように聞こえてきた。
「神宮ちゃん〜〜〜〜っ!!」
 足音の勢いは止まらないまま、彼女が振り返ったその瞬間に、友人であるその人が抱きついてくる。
 彼女が探していた華央院桜、その人だ。
「良かったぁぁ! これで神宮ちゃん見つからなかったらもうどうしようかと思ったよぅ」
「華央院さん」
 長い黒髪は、彼女のものとは全く異なり真っ直ぐで艶がある、典型的な日本髪。華央院は舞妓の老舗の跡取り娘であり、将来を非常に期待されている舞の担い手であり、神宮の同学校で初めて出来た友人でもある。休日は舞や出張の多い華央院が、珍しく取れた今日の休みに二人はこの場所に来ていた。
 賑やかな再会を少年がにこにこ笑いながら見ている。
 しばらくの間、神宮の身体にしがみついて色々と言っていた華央院は、少し後に落ち着いたのか、ようやく神宮の隣にいる少年に気がついた。その頃には少年は暇を持て余したのか、しゃがんで何か撫でるような仕草をしている。
 まるで、ネコの子でも撫でているような。
 その様に、華央院が目を見開いた。
「神宮ちゃん、この子」
「あ、あの、さっき知り合った」
「この虎、お姉さんの虎? 何かネコみてーだねぇ」
 のほほん、といった様子で言うのを華央院が更に息を飲む。
「まさか、見えて…………」
「あー、うんまぁ一応?」
 そんな、神宮にとってはよく分からない会話が行なわれる中、更にもう一つの声がそこに乱入する。
「信介!」
「あ、兄貴だ」
 どうやら、少年の待ち人が訪れたらしかった。声のする方を見遣れば、そこからやってくるのは少年が言っていた外見と完全に一致する、すらりと伸びた背に柔らかな茶の髪も鮮やかな、しかも綺麗な顔立ちをした青年だった。
 確かに非常に存在自体が目立つ、綺麗な男で、弟である少年とは一致点を探すのも難しい。
 しかしよくよく見れば青年は、少年と色違いの同じ服を着ていた。
 近付いてきた青年は弟の頭をぐしゃり、と撫で付ける。
「待ってなさいって言ったでしょ」
「ごめん〜」
「全く、もう」
 どうやら、少年の方も無事に再会が出来たようだった。さっきまで無かった安堵がその幼い部分をまだ残す顔にふわり浮かんでいる。きっと、ずっと話し続けていたのは不安を自身でも払拭する為だったのだろうと今なら解る。
 小さく安堵する彼女に、少年の方が笑いかけてくる。
「お姉さんの方も、逢えたみたいだし、良かったね」
「えぇ。貴方も」
「うん。一緒にいてくれて、ありがとね。じゃあね! また逢ったら、今度は一緒にドーナツ食べようね!」
 互いに好物を言い合って、それは一致したものの一つだった。手を振ってそう笑ってくる少年に、頷いて彼女も手を振る。その横の少年の兄だという青年も微笑んで、会釈しながら去っていく。今度は迷子にならないようになのか、青年の手はしっかり弟の腕を掴んでいた。
 その二人を見送りながら、華央院がぽつりと呟くように言う。
「神宮ちゃん、あれ、何者?」
「え?」
 華央院は時折、不思議な少女だった。同い年ではあったけれど、舞台にも立ち、希代の舞い手と呼ばれる華央院は最初に彼女に会った瞬間から、まるでそれまで長い事知り合いであったように懐いてきた。その一種強引な親愛行為により二人は今の親友関係に至る訳だが。
 その華央院は、校内でも有名な人見知りだと知ったのはつい最近で。
 けれどこういう反応は神宮自身初めて見るものだった。まるで何か探るかのような目で、遠くなっていく兄弟の姿を見ている。他の誰にも、華央院がそんな顔を向けていたのを見た事は無い。
「偶然、知り合った子ですけど」
「…………やっぱり神宮ちゃん、凄いわ。偶然であんなの引っ掛けるなんて。いや、むしろ互いに引き合ったって言うべきなのかしらこれは」
「華央院さん?」
「ん、何でも無い。行こうか、神宮ちゃん」
 にっこり笑って華央院が手を引くから、彼女も兄弟に背を向けて歩き出す。
 偶然の出会いの二度目が訪れるのは、もうしばらく後。

 二人の少女と別れた兄弟は、特に弟の方は上機嫌で今逢った彼女の事等を兄に報告するかのよう、楽し気に話していた。
 特にそれは二人が逢う直前の下りになって、更に熱くなる。主に興奮しているのは弟の方で、聞いている兄の方はその弟を微笑ましく見ながら相槌を打つばかりだったのだが、そんな事はおかまい無しに少年は身振り手振りまで交えて話す。
「ちっこい虎がさ、向こうから走ってきてさ、『見つけました』って。あれ、お姉ちゃんの方は見えてなかったみたいだから、多分あの連れの姉ちゃんの方のだよな?」
「そうだねぇ」
「兄貴も見た? あの二匹の。虎もちっちゃいと可愛いのな!」
「うん、見たよ。アレは確かにあのもう一人のお嬢さんのだろうね。虎の主人もいたみたいだし」
「知ってるのか? なぁなぁアレ何?」
「まぁ、僕も初めて見たけどね。アレは阿吽の虎っていって……」
 そして兄が話し始めるのを、目を輝かせて弟は聞くのだ。まるで御伽話のようなそれを。
 少なくとも長い黒髪の少女の方は、希代の舞い手として情報として見覚えがある兄の方は、弟の為に解り易く、時に情報を端折りながらも、見たままの部分から解る事実を面白おかしく話してみせるから、しばらくの間弟は喜んでその話を聞き入った。
 偶然に重なった出会いが、再び訪れるのはもう少し先の話。
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