共に在る時間の限り

文字数 2,534文字


 だぁ、と元気な声を上げるのは彼の胸元にいる弟だった。
 まだ言葉も不自由な幼児は、しかし既にその性格の兆候を現すかのように日々元気に声を上げる事を止める事は無い。丁度今仕事している彼が少し身体を動かして弟をあやせば、それだけでも嬉しそうに笑う。小さな手を一生懸命伸ばして彼が叩いているキーボードへ触れようとしているのだが、当然届かない。
 あう、と伸びた小さな手がぶらぶらする姿は、可愛らしい。
 その旋毛を見下ろしてそろそろ食事をとらせなければと思う彼の傍、やってくるのは半透明の少女で。
「う!」
 幼児はその少女を見つけると、嬉しそうに見上げてまたその手を伸ばす。
 今度は少女の方が手を伸ばしてくれたからまるで触れ合うよう、二人の手は届いたけれど、少女はうたかたの存在であったから触れ合う事は無い。だから幼児は不思議そうに首を傾げる。
『信介、暇? 康介、ごはん』
「うん、ありがとうね、沙良ちゃん」
 仕事の手を止めて信介の頭をぽんぽんと撫でながら、彼は沙良に笑いかける。沙良の拠り所である唐杉は先日の事件の件で今現在、病棟で療養がてら始末書三昧である。その相棒の山辺は当然唐杉のあいた穴の分まで現場に出ており、それは他の者達も同じだ。
 そうして誰もいなくなっている部署内にこっそり子連れでやってきているのが、本来そこでは休職中で不在中の、部署の主でもある彼だったのだが、どうやら唐杉の始末書三昧な様を見ていても面白く無い沙良がふらりと離れて、彼を見つけたのだった。
 本来、沙良にとっても唐杉の上司なのだから敬う先であるはずだったが、沙良の場合は彼を呼び捨てにしていたし、康介もそれを咎めた事は無い。沙良の中、時間は進んでいないのだから、誰も彼も同位置なのだ、唐杉以外は。
 大事になった少し前の事件。
 康介の部下達は十分な動きをした。最後の悲劇は、彼等が最大限に頑張った上でも尚、起こってしまったものだ。責めに値するものではないし、そもそも未然に防いでいる数が数だ。
 勿論ヒトの命は数の問題では無いだろう。
 だが、それでも彼等が救った命があるのも事実。
 そうして、もしも康介があの場にいたならば総て救えたかと問われれば、残酷ではあるがそれは頷くしかない。けれど康介は休職中なのだ。公的に、それは現実であり、故にあの事件はあれが最良の結果だ。
 例えそれを身勝手と呼ばれようとも、康介はまだ復職する気は無い。
 おんぶ布に包まれた弟は、まだまだこどもだ。幼児、と言って良いだろう。這う事は出来るようになったが、まだ立つ事は出来ない程の。
 共にいる時間が、惜しい。
「まーくんには、僕らの事、内緒、ね」
『内緒?』
「うん。今日此処に来ている事も、他も」
 それでも誰もいない所を見計らってこっそりと訪れては、直せる部分は直していく。
 譲歩するのはそこまでだ。
 こういう作業なら後からでも間に合う事は多い。
 けれど、子どもが大人になるその時間は酷く短いのだ。更に一緒に居られる時間など、家族といえどほんの僅かで、例えばこんな風に未だ言葉も形にならない時間など、後どれ程だろう? そして信介にはもう、家族は康介しかいないのだ。
 だから誰に責められようとも康介が迷う事は無い。
 限られているから、共に在りたい。
 その願いは単純故に、揺るぎないもの。誰しもが何処かで知る気持ち。
 半透明な少女が不意に姿を消した。唐杉の元に戻ったのだろう。いないいないばあの、いなくなった状態にも似たそれに信介が嬉しそうに声を上げる。康介が当然のようにかの少女を見ているその影響下に在る幼子は、当然のように少女の姿をその目に映していた。
 未だ、触れられない意味すら知る事も無く。
「だうう!」
「はい、じゃあご飯食べにいこうね、信ちゃん」
 その頭を撫でて机の上を片付けて立ち上がる、その瞬間に部屋の扉が開いた。その先に立っていたのは鉄色の髪の青年。数少ない、この部屋への直接の立ち入りを赦されている部署外の人間の1人であり、先日は康介の部下を助けてくれた本人でもある。
 康介の姿を認めた途端、その当人サフォンドは怒りも露に叫んだ。
「くぉら康介コノヤローっ!!」
「やぁサフ久しぶりー」
「暢気に挨拶してんじゃねーぞコラ、何そのまま帰ろうとしてやがる!!」
 部外者ではあるが、康介と同格であるサフォンドの言動には全く遠慮というものが見当たらない。元より、そんなものは無かったか。出会った頃を思い出して康介は微笑み、その腕の中の弟は新しく現れた騒がしい存在に興味をいたく惹かれたようで「んばっ」と目を輝かせてサフォンドの方を見た。
 その明らかに場違いな声にようやく幼子の存在に気付いたらしいサフォンドが目を瞬かせ、ずさりと後ろに下がる。
「オイ、その子、まさか」
「信介ちゃん。僕の弟だよ。ほーら信介、あれがサフォンドお兄ちゃんだぞぉ?」
 丁度帰るつもりだった康介はそのまま足取りも軽くサフォンドの方に歩み寄ると、鉄色の髪を良く見せるかのように弟を掲げた。青年の銅の目と、幼子の真っ直ぐな黒目が交差して。
 何か酷く幸せそうな表情で、その幼子は笑った。
 瞬間サフォンドは凍りつく。容姿などから、子どもにそんな反応を返されたのは初めてで、本当にソレだけの理由で驚いてしまったのだ。
「んば」
「お、おう」
 にょい、と伸ばされた幼子の手に、存外子ども好きなサフォンドは大人しくその手をとった。反射的に握り返してくる小さな手はふにふにとして頼りない。ヒトの命の原型は、何時だってこれほどまでに儚く、弱い。
 だからサフォンドには握り返す勇気はなかった。
 そんな彼を見ながら康介が言う。
「じゃあ、またね〜」
「ばぁば」
 そうしてヒラヒラ手を振りながらいなくなった康介の姿が消えた後、結局誤摩化されたとサフォンドが気付くのにあと数秒。先日の事件に関して、色々と言いたい事があったのだが、結局それらは口に出される事も無いまま胸の奥にしまわれたのだ。
 少なくともその幼子は、サフォンドの格付けの中、頂点のそのすぐ下辺りという好位置をその出会いでキープする事になる。
 そうして、兄に似ず可愛らしい様の弟に、再びサフォンドが出会うのはそのずっと後の事だった。
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