遠い人

文字数 5,193文字

 過去を振り返る瞬間、記憶の中、酷く郷愁を誘う人は誰にでもいるだろう。
 烏間にとってそれは物心ついているかも怪しいくらいの幼い少年であったり、人間であるかどうかも疑ってしまわんばかりの見目麗しい青年であったり、柔らかな金の髪を持つ壮年の男であったりする。特に、最後の一人は数年間を共に過ごし、更にはもう既に逢えないとなれば、誰より郷愁を誘うのは仕方ない。
 そうして、彼の人と全く同じような雰囲気を持つ青年に出会った時に、烏間の心の内にぽつんと一つ、水滴が落ちるかのように特別なものが芽生えてしまった事はどうしようもなく避けられない事態だったのだ。
 見た目だけなら全く似ていない、烏間と同じく30代も後半に差し掛かるだろう平凡な容姿を供えたその青年は、けれど真っ直ぐな目が、彼の人を想い起こさせた。
 何も知らなかった烏間に、沢山の事を教えてくれた人。
 一緒に過ごした時間はごく僅か、数年という期間であったけれど、与えてもらえるだけの全てを烏間は彼の人から与えてもらったという自覚があるし、それ故に今その場所にいられるという事も解っていた。
 だからこそ姿を重ねるのは、相手にも、そしてその青年にも失礼なのは承知していたけれど、けれどどうしようもなく相手は烏間にとって、只の背景にはなり得ないだけの特徴を持ち合わせているのだから、こればかりはいかんともし難い問題だった。
 そうして今日も。
 遥か廊下の向こう側で偶然部下と話しながら歩いている姿を見かけてしまった。見かけた、というのは些か可笑しいかもしれない。相手がその彼でなければ間違いなく烏間の視界は注視しなかっただろうから。
 向こうに見えるその青年、山辺はにこりともしないで若い部下に何かを話していた。
(笑えば、いいのに)
 自分に誰より厳しい山辺が職場で笑っている所を、烏間は見た事が無い。
 部署が異なるからそもそも見る機会そのものが少ないという事を差し置いても、山辺という青年は愛想笑いなどとは程遠い男だった。同時に部下へのコミュニケーションも、何時も何処か厳しさを漂わせている所ばかりを見かけた。
 山辺にとって自分の部署内以外は『外』だから、余計にそうなるのかもしれない。
 何となくそう理解しつつ、それでも烏間は見かける度に思ってしまうのだ。
(笑えばいいのに)
 廊下の向こう、山辺は自分を見る視線に気付く事も無く部下に指示を与え、そうして別の方向に歩いていく。勿論それは山辺という青年が視線に疎いという訳ではなくて、烏間自身が己の気配を隠す事にあまりに長け過ぎていたためである。
 烏間は、ある幼子(今は少年にまで育っているが)に出会うまで、ホームレスとして暮らしていた。
 自分が何処で、誰から生まれたかも知らず、気がつけば広い都会の公園で、その他のホームレス達に紛れての暮らしをしていた。家庭とか、そんなものとは無縁に、ただ生きていた。公園のホームレス達は何かと気には掛けてくれていたけれど、彼ら自身色々身を落とした存在であったから、完全に世話になる事も無く、孤独とは何時も隣り合わせだった。
 あの日、幼子の手が伸ばされるまでは。
 それからの目紛しい変化の全てを烏間は覚えている。
 自分に性が、名が出来た日も、この場所にやって来た日も、何もかも。それまでのどんよりとした記憶を破るかのような鮮やかさで、刻み付けられている。その片隅には、数年間を共にした金色。
 今では殆ど誰も呼ばない徒名で彼を呼んだ、壮年の人。
 廊下の向こう、恐らくこれから昼食でもとりに食堂へ行くのだろう山辺の背中は、何故か何時もかの人と重なってしまう。特別な感情と呼んでいいものか、烏間は何時も迷う。
 大事な人だった。
 それだけは間違いなくて、そしてだからこそ山辺も、大事。
 自分の性癖があまり正常でないと自覚している烏間であっても、大事なものと、性癖を向けるものの違いくらいははっきり自覚している(時折混同したくなるけれど)。
 似ているから、似ていると思っているから、何時か突然あの青年がいなくなってしまうのではないかと、烏間は思ってしまうのだ。自分に向ける厳しさは、時にその身を手遅れなまでに冒すものなのだと、その目で見てしまったから。
 ある日突然倒れたその人と、向こうを歩く背中を、重ねる度に、怯えてしまう。
 喪失の恐怖。
 烏間が今此処に居るのは、別にこの国が元々いた場所だったからではない。
 喪失を体験してしまったあの場所に、居続けるだけの勇気がなかったからだ。だからこそ、存在するだけでもリスクを伴う今の場所に、烏間は戻ってきた。幼子にであった頃に与えられた性と名はそのままに、増えた束縛すら受諾して。
 そうして逃げてきた先で、似た青年と出会ってしまった。
 それが、山辺だった。
 歳も、見た目も、職業も、何もかもが違うのに、似ている。気付いてしまったら、もう遅かった。
 笑い顔を見る事も無いポジションでも、その存在が再び喪失されないよう、見張れる場所に居たいと思う程度には、心が傾いてしまった。恐らく笑顔等飽きる程見ているだろう山辺の相棒である青年に羨望を抱かないではないが、けれど傍に居れば恐らく耐えられないだろう自分も烏間は知っている。
 だから、今の場所、この遠くから見る位置で良いと、本気で思っているのだけれど。
(笑えば良いのに。たまには、さ)
 時折は、そんな思いを抱いてしまう。それくらいは赦して欲しいと思った。
 はぁ、と口から漏れ出る溜息は、そのまま空気として溶けるだけで、届く筈も無い。そんな事を何時も繰り返していた毎日。
「あ」
 が、山辺が突然振り返った事で、それがあっさりと覆される。
 ぎょっとした顔をしたのはお互い様で、好かれている自覚も無いが逃げる理由も無い烏間は、仕方なしに山辺が好いていないのは知っている愛想笑いを浮かべて「よぉ、元気?」とギリギリ聞こえるだろう声量で挨拶をする。
 歩数にして10数歩。
 歩み寄るには、遠く、挨拶をしないで会釈だけで済ます(そんな事を残念ながらした事は無いが)には、近い。何時もの『烏間』としての行動は、それで合っている。
 後は、向こうがまるで苦虫でも噛み潰したかのような顔をして、けれど立場上無視する訳にもいかない為に仕方なく「どうも」などと言って足早に歩き去るのが常。
 それに寂しさを感じるのは、どうしようもない。
 だから烏間は心の準備をするのみだ。
 だというのに、この日の山辺は何時もと異なった。
 苦虫を噛み潰したかのような顔をした所までは確かにこれまで通りで烏間の想定した範囲内だったけれど、その後に来るだろう社交辞令の挨拶と、逃げが無い。何かを思案するかのように、視線を彷徨わせて迷っていた。
(何か、用があったっけな?)
 その姿に烏間も、山辺が改めて自分に話しかけなければいけないような用事があったかどうかをざっと頭で流してみたけれど、やはり浮かばない。確かに山辺の部下の医療関係は一手に烏間が請け負っている特殊な状態下であるが、かといって今世話をしている相手も、これから世話をしなければならない予定の相手もいなかった。
 故に、山辺からすれば烏間と話をする用は無い筈だ。
 そうして二人は残念ながら、出会っても軽口を叩き合うような関係でも、無い。本当に残念な事に。
 相手の出方が解らずに言葉を告げない烏間がじっとその場で立ち竦む。方や山辺の方は、何かを飲み込んだかのような(恐らく苦虫だろう)顔で、改めて烏間を見ると、常に無い行動を更に開始した。
 烏間の方に歩いてきたのだ。
(ううううわ、こっち、来てんだけど! アレ? 何かあったっけ? 無いよな? 無い筈だよな? 俺何か忘れてるか? ええええっ!?)
 無駄な行為を嫌う山辺である。業務以外の用等ある筈も無く、かといって烏間には思い当たる事項等何一つ無くて、久々に、本当に久々に彼はパニック状態に陥っていた。
 猫が二本足で立ち上がった所で、こんなパニックにはならないだろう。
 それ程に、慌てた。
 思わず逃げようかとも思ってしまった程である。ごくりと嚥下する中、曖昧な距離はあっさりと手を伸ばせば届く距離にまで縮められてしまう。その間、山辺の方は何やら複雑な顔をしていた。
 距離に耐えかね、先に声を出してしまったのはやはり烏間で。
「どうした? 俺とお茶でもしたい?」
 はははまさかねー、などと続けたその言葉に、真顔で「あんまり時間は割けませんけど、飯食べながらなら良いですよ」と言われた烏間は、今度こそ完全にパニックの頂点になり、思考まで止めてしまった。


 目の前で、山辺が片手で器用に、しかもとんでもない早さでノートパソコンを弄りながらホットサンドを食べている。その様をしばらくの間観察した後、烏間は自身の前に置かれた親子丼のスプーン(箸は苦手なので使わない)を丼の中に踏み込ませる。
(何? この状況。どうなっちゃってんの?)
 烏間としては、嫌ではない。
 嫌ではないのだ。むしろ山辺の方だったはずだ、こういう状況を厭うのは。
 それなのに、今目の前で、会話が弾んでいる訳でもないけれど少なくとも一緒に食事をしているこの現実を一体どう解釈すれば良いのか、烏間は只戸惑っていた。食事中にまで仕事をするなどはしたないとか、そんな事思う余裕すらない。
 一体目の前の男に何が起こっているのか、むしろ其処を心配してしまう。
「あの〜。山辺?」
「あぁすいません。どうしても片付けなきゃならないので、不快なら席を外しますが」
「いいいいや仕事は別にいいんだって。どんどんしちゃって良いよ、うん。俺も食べてるし」
「そうですか」
 そうしてまた仕事に戻る山辺を前に、烏間は完全に心の中で白旗を揚げる。
 そうでなくとも目の前の男は烏間からすれば大事な存在であるし、仕事の邪魔をしたい訳でも害したい訳でもなく、ついでに一緒に居るこの時間が嬉しいとすら思っている。相手の思惑がどうであったとしても、結局は烏間自身に選択権は無いのだ。
 言い方は悪いが、惚れた方の負け、という諺が浮かぶ。
 本当にその通りだと思いながら烏間は食事を進める。
 昼時を過ぎた食堂に人はまばらで、まして端の方にいる彼らの傍には誰も寄ろうとはしない。その一因は目の前の山辺であるし、もう一因は烏間自身。二人それぞれ異なる意味で、職場内では相応に知られている。
 邪魔が入らないのは結構な事であったが、慣れない沈黙はただただ烏間を食事に向かわせた。
 元々、食べるのは早い。
 それは公園暮らしをしていた頃からの癖でもあり掟でもあったが、仕事をしながらの山辺と比べ、結果的に早く食べ終わってしまった。
 再び沈黙が降りる。
 流れるのは山辺の生むキーの音と、食堂のBGMだけ。
 しばらくの間、烏間は滅多に無い山辺との時間、彼を観察する事に使っていた。
 正に働き盛りの男は、実際の所実年齢よりは若めに見える。そして烏間が姿を重ねる相手とは一切似ている所は無い。端正であるのは間違いないが、誰もの目を引くかと言えばそうでもない、ごく普通の日本人的な容姿をしている。
 やはり似ているのは、雰囲気なのだろう。
 仕事だけに集中する姿を見ながら、烏間は我知らず口元に笑みを浮かべていた。
 何時も浮かべるものとは違う、純粋な郷愁のそれ。
 不意に視線を上げた山辺が、言う。
「いつもそれっくらいなら飯くらいは食うのに」
「へ?」
「俺の周りはそうでなくても煩いのが多いんだから、静かな相手なら歓迎なんだけど」
 そしてまた仕事に戻る山辺を、思わず烏間は凝視してしまう。
(今のは、もしかして、いや、もしかしなくても、何か、俺、ちょっと近付くの赦された?)
 本来開いていた距離は、おおよそ烏間の態度の問題であり、山辺の問題でもある。烏間自身はそれでも仕方ないと思っていた。それが、何があったか知らないが、相手からどうやら歩み寄られたらしい。何という変化だろう。
(本当に俺の人生って、一瞬でひっくり返るよなぁ)
 昔、幼子に手を伸ばされた事と、重なる今。環境も何もかも変わったあの出来事に比べればこれは些細な変化かもしれなかったが、烏間自身からすれば同じ位置に置いて良い程に大きな変化である。なにせ、自分ではどうしようもないという点においては一緒なのだから。
 まじまじと見てしまった事で、「視線が煩い」と怒られても、慌てて「悪ぃ」と視線をそらした烏間の顔は緩んだままで。
 その後山辺の食事が終わるまでの僅かな間、二人は言葉を交わす事も無く只其処にいた。
 次の約束は無くとも、烏間の心は満たされたままで。
 もしかしたら笑顔を見られるのもそう遠くないのかも、しれない現実を知る。


 その日烏間は、もう届かない先に居る人に、自分は大丈夫だと、伝えようと思った。
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