善悪の基準

文字数 4,086文字


 こういうのは苦手だ、と伊藤は思う。
 そもそもこの大学でこのサークルに入ったのは、上下関係が非常に希薄で一番ユルい感じの様子が非常に合っていそうだと感じたからで、別に先輩風を吹かせたいならもっと他にも色々と似たようなサークルはあったのだ。数千人規模の大きなこの総合大学内には。
 なのにこれから伊藤がしなければならない事といえば、曰く『先輩風を吹かせて後輩を指導する』と言った類のものであって。
 本当なら正直面倒くさいのでやりたくない。やりたくないのだが、他のサークルの者は誰も知らないし、かといって表沙汰にして良いレベルで無くなっている。要は、此処で内々に済ませない限り、後々更に面倒くさい事になる事が目に見えているのだ。
 だから、伊藤自身が動くしかなかった。卒業を控え、就職先も決まり、本当なら残す課題は卒業論文ばかりだという楽な(否、ある意味で卒業論文は最大最後の難関なのだが)状態である筈なのに、こんな面倒事を抱え込んでいる場合ではないというのに。
 カララン、と喫茶室の扉が開かれる音。
 大学内に在る喫茶室は、学食と異なり意外に使用する者は少ない。恐らくはその値段が明らかに学生向けではない、外の一般的喫茶店と変わらないような場違いな値段設定をしているからだろうが、だからこそ何時も人は少なめで、出来るだけ人に聞かれたくない話をするのはちょうど良いスペースでもあった。
 入ってきたのは、染めた茶髪の青年と、黒髪の青年。
 伊藤より一学年下の二人はサークルの後輩であり、さっきまで伊藤に面倒くさいと思わせていた事の原因部分の中心に存在して居る者達であり、伊藤自身が此処に呼び出した相手である。
 小さく手を挙げ自分の所在を二人に教えれば、そう広くもない店内の端を陣取る伊藤の姿を直ぐに見つけた二人は急ぐでも無く歩いてくる。呑み会で横になればそれなり話もし、部室で一緒になれば雑談にも興じてきた事のある、普通の後輩達だ。
 これまでなら。
 けれど今現在、伊藤と二人の間には一つ解決しなければならない問題があって、それが伊藤がしばらく二人が現れるまでこの場所で面倒くさいと思いつつ考えていた事だった。
「お疲れさまっす、伊藤先輩」
「お疲れ様です。今日はどうしたんですか? 俺たちに用って」
 問いかけてくる二人は、無邪気なものだ。けれどだからといって伊藤はこの問題を先延ばしにする事はもう出来ない。期限は迫っている。
「あーうん。そこ、座って」
 示した向かいのソファーに、二人が腰掛ける。
 中年の女性のウェイトレスが水を二つ新たに持ってきて、伊藤はそれぞれに注文を聞いた。二人はそろってカフェオレを頼む。少しだけ伊藤は安堵した。カフェオレなら出来るまでにそう時間はかからない。ならばそれが出てきた後なら、ウェイトレスが側に寄ってくる事は無い。
 安っぽい形を裏切らない、安っぽい内容だ。
 頼んだカフェオレは三人が新たに話し出す前に持って来られた。
 それを二人の方に置いてもらって、切られた支払い用の紙は伊藤がそのまま自分の方に置いた。呼び出した後輩に奢らせる程先輩として情けない者は無いし、最近は新しいバイト(春からの就職先での、職場研修を兼ねたソレだ)の実入りが恐ろしく良くて(代わりに内容も激務だが)、生活に困窮する間も無い。
「ありがとうございます」
「いいって。それより、あー、話なんだけどな?」
 頭を下げられても、これからする話を思えば、気が重くなるばかりだ。
 かといって今此処で誤摩化したらこの先に待つのは、目の前の二人の後輩の将来の不幸。解っているから、こんな時間を態々用意した。今を逃せばもう、時間がない。
「お前ら、今すぐ『クラウ』止めろ。一時的じゃねーぞ? この先ずっと、って意味だ」
 その名を出した瞬間に二人の肩が揺れたのが解った。
 伊藤自身、薄々自分の所属しているサークルにハッカーがいる事位、解っていた。そもそもそういうものに興味がある者が集うサークルだったから、その力量がどうあれ存在しないとは言い切れない。伊藤自身は犯罪的な行為こそしてきていないが、それに限りなく近いことならしてきたし、人の事をとやかく言えるようなお綺麗な人間でないとは思っている。
 ただ、目の前の二人が問題を引き起こしてしまい、それが明るみになる前に、伊藤自身が己を身代わりにする事で表沙汰になる事を今現在は辛うじて防いでいる形である事を、この困った後輩達に伝えなければならない。そしてもう二度と同じ事をさせないようにしなければ、次は無い事を。
「伊東先輩、何でソレを」
 きょとんとした顔をして茶髪の後輩が問いかけてくる。名前は山本。もう片方の黒髪の後輩は片岡という。
 本当にそのままなら何処にでもいそうな大学生だ。
 実際、今出した『クラウ』と冠するハッカーグループである事を除けば、二人は本当に唯の一大学生でしかない。伊藤にとってはサークルの後輩。
「あんまり言いたか無いんだけどよ。お前ら、機関にハッキングしやがったろ」
「あ…………」
 一般的に機関と称する先は、国家のそれでしかなく、二人は当然思い当たる事があったのだろう、伊藤がそれを告げると同時に息を飲んだ。
 その姿を見ながら伊藤は話を続ける。
「お前らの侵入、きっちりばっちりバレてんだよ。既にお前らの履歴から名前から住所から何もかも抑え済、後はもうしょっぴくだけっつー状態な訳だ」
 あぁ本当にこんな話は一大学生がするようなものではないと、伊藤は思う。だが、そんな状態にまでなっているのは揺るぎない事実だ。
「何で、それ、伊東先輩が」
「何で知ってるんですか?」
 当然のように問われる。それは伊藤も話をするにあたって予想済だった。正直な話、あまり周りに言いたい事ではなかったのだが。
 渋々、伊藤は用意していた唯一の回答を出す。
「俺のなー、春からの就職先、機関なんだよ」
「「えっ!?」」
 真っ当な経緯でそうなった訳ではないから、正直卒業直前まで周囲には隠しておこうと思っていた事実。
 一般に機関への就職と言えば、公務員で、しかも地方ではなく中央のそれ、上層に当る訳だから大企業に就職が決まる並に大事だ。伊藤の在籍するこの大学の中でも、機関に就職先が決まる者が伊藤以外に後何名いるか、もしかしたら居ないかもしれない。それ程の難関就職先でもある。
 多分、公表したら大学内でも大騒ぎだろう。
 だから言いたく無かった。現に目の前の二人も叫んでそのままぽかんとしている。(そうだよなこれが普通の反応だよな)と改めて伊藤は思う。
「ま、マジですか……?」
「嘘ついてどうするよ。実際さっき俺が言った事、正しかったんだろ? そもそも最近俺が毎日のようにしごかれてるバイト先って、まんま機関だからな」
 がしがしと頭を掻きながら伊藤は告げる。
 戸惑うように言う片岡の表情が、ゆっくりと青ざめていく。恐らくはゆっくりと己達が置かれた立場が理解出来始めたのだろう。どんな理由があれど、機関にハッキングを試みそれが明るみに出れば懲罰は避けられない。勿論それは一般企業等相手でも同じだが、機関は更なる厳罰が待つ。
 当然明るみにならなければ灰色として罪にも問われないのだが、そうでなかったから今、伊藤はこの二人をこの場に呼び出し話をする羽目になっているのだ。
 それは、伊藤が二人を説得し二度と活動させない事を伊藤自身で保証する事が条件で許された、唯一にして最大の機関からの処遇留保。
「マジでさぁ、勘弁してくれよお前ら。やって良い事と悪い事ってな、もう解る歳だろ?」
 深々とした溜息が伊藤から零れる。
「お前らだって解って、どうするって訊かれて、なぁ? 俺がとりあえず二度とお前らを『クラウ』として活動させねーようにするってトコで今、処分を止めてもらってるトコなんだよ。此処でお前らが嫌だって言ったらすぐさまお前ら手配されてしょっぴかれんの。そこまできちゃってんだよ状況は」
 手配された後など、最早語る必要も無いだろう。
 そうして伊藤が改めて後輩二人を見遣れば、さすがに全てを飲み込んだだろう二人の顔色は完全に変わっていて、ほっとする。此処で状況も理解出来ない程に駄目だったら実はどうしようかと、本気で悩んでいたのだ。
 元より善悪で考えれば侵入行為が良い筈が無い。どんな理由があれど、法に則らないそれは違法行為であるし、それに手を染めるからには本来公平に裁かれねばならない。
 けれど、後戻りが許される余地が与えられるなら。本人達がそれに気がつけるなら。
 猶予される余地は、残されても良いと伊藤自身は思うのだ。それが例え後輩であるが故の、身内としての甘やかしであったとしても。
 しばらくの沈黙の後、はっとしたように山本の方が伊藤を凝視して言う。
「先輩。一つ、訊いても良いですか?」
「何だ?」
「普通、処分を止めてもらうとか、出来ないと思うんですが、先輩は、そんな事を俺たちの為にしてしまって、大丈夫なんですか?」
 聡い後輩は、どうやら余計な事にまで気付いてしまったらしい。
 伊藤は改めて溜息を零した後に、自分の前に最初から置いてあったブラックコーヒーを一口飲み下す。とうに冷めてしまったそれは、逆に身体の中を冷たく通り抜けて、意識を醒せる。
 確かに、普通そんな事は出来ない。
 許されたのは偏に伊藤の所属する場所の特殊さと、伊藤自身の立ち位置の為だ。
「あー、大丈夫。取り敢えずお前らが二度と活動しねーんなら」
 かの少年に気に入られたというその立ち位置が、本来なら許されない特権行為を許された。さすがに行使が許されるのは、この一度だけだろうけれども。
「…………解りました」
「もう、しません」
 二人の後輩は、伊藤の望んだ結論を出した。
 これでようやく安心して卒業を目指せるというものだと苦笑いする伊藤がその後、二人の後輩から機関に何故入る事になったのかを問いつめられて別の意味で困る事になるのは数分後の話。
 冬の平日の大学内、喫茶室の中。
 一つのハッカーグループが事実上、解散した日だった。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み