過去と未来の中

文字数 4,301文字


 親とはぐれてしまった。
 広いショッピングモールの中、迷子になってしまった彼女は一番近くにあったベンチに腰をかける。はぐれたら動き回らないよう、彼女は親から言われていたのをしっかり覚えていた。そうして何があっても必ず見つけてやるとの父親との小指での約束も、覚えていた。
 だから泣きそうにはなったけれど、泣かずにその場で待つ事にしたのだ。
 既に彼女は妹一人弟一人がいるお姉さんであったし、来年にはまた増えるのだとこっそり教えてもらっていたから、こんな事で泣く訳にもいかない。
 だからじっとこらえてベンチの上で座っていた。
 場所は、ペットショップの近い小さな中庭のようになっている所。此処で楽しそうに歩いていた子犬を見かけてそれに見蕩れている内に、いつの間にかはぐれてしまったのだ。今日は平日だったけれど珍しく休みをとった父が幼稚園を休ませてまで連れてきてくれたのは、もうすぐ近くに迫っているお母さんの誕生日のプレゼントを買うためだ。
 その為に、何時も送り迎えしてくれているのは父だったから、母にいつも通り幼稚園に行くフリまでしてこっそりと二人でやってきていた。まだ幼い弟と妹は母と家に居る。これは、父と彼女との二人で企画した吃驚イベントなのだ。
「わん」
「っひゃ!?」
 そんな彼女の前に突然、彼女よりも大きな白い犬がやってきた。一声吠えはしたけれどその声は控えめで、ベンチに座る彼女の前に同じく座ったその犬は、黒い目を輝かせて彼女を見上げている。後ろに見えているふさふさの尻尾はぶんぶんと揺れていた。
 犬に苦手意識は無いものの、さすがにすぐ手を伸ばすには目の前の犬はあまりに大きくて、彼女はしばらくじっとその犬と見つめ合うような形になってしまう。
 その間に、恐らく犬の飼い主なのだろう女の人が走りよってきた。
 よく見れば、犬の首輪からはぶらりと太い手綱が落ちている。
「こら、ラン! 脱走とは良い度胸…………あら?」
 近くに来たその女性は、長いさらさらした黒髪の、背の高い人だった。一人でベンチに座っている彼女とその前に座っている白い犬を交互に見て、少しの間、目を瞬かせる。
 そうして犬の手綱を拾い上げた女の人は、そのまましゃがんだ状態で彼女と視線を合わせるように顔を覗き込んでくると、問いかけてくる。
「お嬢ちゃん、一人?」
「……お父さんと、はぐれて」
「そっか」
 小さな声で答えた彼女に、頷いた女の人は立ち上がると、彼女の隣に座った。座り込んでいるランという名の犬はそのままだ。
「私は、綾。お嬢ちゃんの名前、教えてもらってもいい?」
「水姫(みなき)」
「みなきちゃん、か。この子はランっていうの。どうやら水姫ちゃんが凄く気に入ったみたいだから、ちょっと一緒にいてもらっても、良い? この子すっごく人見知りでね。中々こんな事、無いのよ」
 綾と名乗ったその女性が示す大きな犬は、水姫からすれば人なつこそうな、吠えるばかりの犬とは違う大人しそうな犬に見えた。少なくとも人見知りするような犬には見えない。良く躾された、良い子の犬だ。現に今も大人しく座っている。
 だから、水姫は首を傾げて綾を見上げる。
「何で? イイコそうなのに」
「いやいや、これがねぇ、水姫ちゃんを気に入ってるから今はイイコなんだけど、気に入らない相手に対してはがるる〜〜って、容赦なく怒るのよ、この子。しかも、怒らない相手より怒る相手の方が多いんだから。本当に、人見知りなのよ」
「そうなんだ。水姫、気に入られた?」
「うん。もう、さっき水姫ちゃんみつけてまっすぐ走って来たくらいだからね。私いきなりだったから吃驚してリード離しちゃったもの」
 赤いリードを示しながら笑う綾は、よく見ればとても綺麗な人だった。
 水姫の母もかなり綺麗な人であったけれど、どちらかといえばそれは可愛い、という部類であって、今目の前で笑っている綾は水姫の母とは異なる、本当に綺麗な女性だ。テレビの中でモデルなどと呼ばれている人と同じくらい綺麗だと水姫は思う。
 そう、水姫の父親も綺麗という部類だが、どちらかといえばそれだ。
 水姫自身は母似であるらしく、それを父は何時も嬉しそうに自慢するのだが、水姫は父や、目の前の女性のような綺麗な人も好きだ。勿論母も好きだが、綺麗な人はまた全然違うと、まだ幼いながら思う辺り、彼女も女の子なのだった。
 その綾は、その後彼女の父が汗だくで水姫を探し当てるまでずっと彼女の話し相手になってくれた。
 話している間に二人は『友達』になって、その後文通する約束まで交わしたのだ。
 二人の文通は、水姫が小学校三年生になる辺りまでずっと続いた。何故その辺りまでなのかといえば、その後突如綾からの連絡が途絶えたからだ。何があったのか、水姫は解らないまま、時間は過ぎ続けて、そして彼女はその後も綾に文を出し続けた。
 本当なら文の宛先を調べれば良いのかもしれない。
 だが、水姫が綾から教えてもらったそれは曰く『私書箱』というもので、簡単に持ち主の宛先が解るものではなかったのだ。唯、宛先不明や、宛先誤りなどで返送されてくる事はずっと無かったから、それだけを頼りに水姫は返事の無い文を出し続けた。

 十年単位で契約していたらしい私書箱の請求書が来たのは、彼が高校卒業を控えて大学も既に決まった、残るは卒業の準備ばかりである春の近いある日だった。
 心当たりの無いその私書箱は、ほぼ八年前に無くなった母の名義になっていて、一先ず何が残っているのか確認してみようと訪れた先で彼を待っていたのは、沢山の母に宛てて贈られた手紙の山だった。
 しかもそれの送り主は全て同じ人物の名前で。
 私書箱一杯に詰まったその手紙を全て、念の為持ってきた紙袋の中に一度に放り込んで持ち帰った家の中、自分の部屋で一人それを一通ずつ確認していこうとした彼は一通目の差出人を見た瞬間に凍りついた。
 そうしてすぐ他の全ての手紙も慌てたように確認したが、それらは全て同じ名前で。
 呆然とその、沢山の手紙を見下ろして彼は呟く。
「神宮…………」
 彼女の名は、珍しい。
 何処でもあるようなものでないソレを呼べないのは、呼んでしまえばきっと後戻り出来なくなる、抑えきれなくなる自身を知っていたからだ。今ですらもう、大切で仕方ない彼女を、けれど傷つけ続けてきた事でこれ以上侵してはならないと、自分で引いた境界線。
 それなのに、何故、こんなところから繋がりが出てくるのだろう。
 宛先は全て彼の母になっていて、消印は丁度両親の死んだ後から続いている。
 ずっと、出し続けられていた、受け取り手の無い手紙。一番最近のソレは一週間程前の日付になっていた。返事など、八年も無かったのに、それでも出し続けられていた。
 酷く優しい彼女らしい、行為。
 母と彼女にどういう繋がりがあったのだろうと、思った瞬間に彼の脳裏に不意に記憶が甦る。

「ふふふ〜」
「どうしたの?」
「母さん、文通始めたんだって」
「ぶんつう? 誰と」
 上機嫌に手紙を手に笑う母の姿に、父に問いかければ柔らかな笑顔でそんな返事が返ってきた。文通の意味くらいは知っていたから問えば、それが年下の女の子だという事以外、何処でどう知り合ったのかも父も知らないと言う。
 だから直接母に問うてみた。
「母さん、誰と文通してるの?」
「えへへ、すっごい可愛い女の子よ。アンタと同じ歳だって」
「はぁ!? じゃあ、字なんてまだマトモに書けないんじゃないの?」
 彼自身はもうひらがなもカタカナも小学校レベルの漢字も書けるが、自分と同じ歳くらいの子どもはそうでない方が普通である事くらい、聡い彼は理解していたから、文通と言われてもしっくりとこなかった。
 幼稚園のレベルを考えれば、せいぜい絵と、ミミズののたくったような字が良い所だ。
 だが母は嬉しそうな顔のままで言う。
「良いのよ、字なんて。これから覚えるものだし。それよりねぇ、この子、すっごく可愛いわよぉ? しかもあのランが懐いたんだから!!」
「ランが!?」
 信じられない。
 ランは、彼の家で飼っている犬で、家族以外に懐く様を見た事が無かった。ただ、人を見る目は犬だけれど間違いないから、少なくともランが懐かない相手には心を赦さなくても良いというのが父や母の良い分でもあった。
 この家で彼の誕生日パーティを一度行なって、幼稚園のクラスの子達を招いたけれど、パーティに来た者に対しランはその中の誰一人にも懐かなかった。だから両親など、その子達とは距離を置いて付き合って良いとまで言った程には、ランは家族に信頼されている。
 そのランが懐いた少女。
 しかも、この母が可愛いと言うだけの容姿。(母は自分の見た目が良いせいもあるのか、容姿には厳しいのだ)
「将来が楽しみだわぁ。あの子のお父さんって人もまぁ、見たけど、中々の美形だったしね。何よりランが懐くんだからきっと、良い子よ、あの子は」
 ふふふと嬉しそうに笑う母は、その子から届く手紙をそれ以降、何時も楽しげに読んでいた。
 時に届くのが滞ると、その様子を心配するくらいには、母にとって少女は大事な友人だったのだ。年齢差など関係無しに。

(何で、忘れてたんだ…………)
 何故母が、手紙の宛先を私書箱にしていたのかは解らない。
 直接家にする事で他の誰かに先に読まれる事を防ぎたかった位に独占したかったのかもしれないし、他に何か理由があったのかもしれない。今となってはその理由は解らないが、母が無くなってから今まで彼は完全にその過去を忘れていた。
 無くなる直前まで確かに母に文通相手が居る事を、知っていたのに。
 その名を、見た事もあったのに。
(神宮、水姫)
 母が大事に想っていた文通相手。自分と同じ歳の少女。
(俺は、何て事を……)
 彼にとっても今では大切な、けれど傷つけてしまった…………少女。八年分の手紙を、返事の帰らない相手に対して出し続けられるような、優しい、彼女。その優しさにつけ込んで、傷つけるような形で手を伸ばして、離せないでいる、相手。
 こんな所に繋がりがあった。
 本当はずっと、繋がりがあったのだ。
 彼が忘れていただけで。
 己をいくら責めても足りない程の痛みが、八年分の手紙の重みと共に襲ってくる。けれど弁明する権利すら既に彼には無く。
(全部、言おう)
 その日、彼は決心した。
 ずっと避けていた審判を受ける事を。彼女からの裁きを、受ける事を。
 過去の過ちの清算がそれで出来るなどと、そんな軽々しい事を考えたりは出来なかったけれど、この手紙を前に最早審判から逃げる事など、出来る筈も無かった。
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