それが誰の願いかも知らないまま
文字数 2,239文字
実の所、大卒以上の学問を修めているわけだからそんな必要はないはずで。
それ以前に、そんな事をする暇もないし、そこにある危険を考えればリスクばかりでメリットが少ないのは明らかだと思われたのだけど。
そもそも、これまでの「義務」たるソレすら足蹴にしてきた自分が、今更どの面下げてそんな世界に飛び込むんだという世間様のご意見とまったく同じものを、彼女自身も持ってたりしたわけだけど。
現実は、何の因果か壇上に立っちゃってたりするわけだ。
新入生代表のご挨拶をする為に。
入学試験一位にして、稀代の天才の娘で、大財閥の元締め。あぁ見世物にするには十分すぎるわよねと、明らかにマスコミも混ざっちゃってるカメラのフラッシュを浴びながら彼女・天野詩歌は明らかにエセな微笑みを周りに向けた。
はじまりは、いきなり訪問してきたあの男なのだ。
正式なアポを取る事もなくやって来た奴は、受付に「いるのは分かってるし、今日のこの時間が空いているのも分かってるんだから居留守は駄目って伝えて?」とにこやかな笑顔で言い切ったらしい。
多分、この世で最も忙しいはずのそいつ直々の訪問。
嫌な予感がしていた。
とはいえ、相手が相手なので追い返す方が後が怖い。仕方なくヤツを社長室まで通したわけで。それが全ての間違いだったと…………総力を挙げてあの男を撃退しておくべきだった、と後になってつくづく思うことになろうとは。
「というわけで、学校に行くべきだと思うんだよね」
ソファーに腰を下ろして出された紅茶を一口飲んだ後、にっこり笑ってそう切り出したソイツを前に社長&副社長が一瞬とはいえ硬直した、というのは前代未聞な光景だったのだけど、運良くそれを目撃したのは目の前にいた原因だけで。
そもそも開口一番のセリフとして、その接続詞は不適切だろう……というどうでもいい疑問は頭の隅に追いやる。そんな事を言ってどうなるというのだ。
「突然、どうしてそのようなことを?」
辛うじて言葉を、使う事の少ない丁寧語で紡いでみれば男はちょっと面白そうに目を輝かしたけれど軽く頭を振る。
「そんな言葉遣いしなくていいよ。今日は株主としてでも技術提供者としてでも公務でもなく、単に君の親の友人として此処にいるんだからさ」
つまり、それは一番タチが悪い状態ってことよね?
なんて思ったことは表情に出さず。
父が死んだ後に後見人になり経営全てを任された女性は血縁ではなく、身寄りがない為に親族関係のイザコザというものは無かったものの父との関係も明らかでない彼女に全権が委託されたというのは各方面で様々な揉め事を引き起こした。それらを収めたのは父の友人として、また他の意味でも影で有名だったこの男で、彼の助力がなければ今頃はどうなっていたかわからないのは事実だ。
そうでなくてもいろんな意味で敵に回したくない存在なのだ。彼が自分を気に掛けているのはあくまで「父の子供」だからというだけで、自分自身に興味を持たれている訳ではないと分かっているからこその、危うい関係。
「君の親の希望なんだ。君に、学校生活を体験させたい、って」
くすくすと笑いながら。
その言葉が何処まで本当かも分からないというのに。
「拒否権は?」
「…………あると、思う?」
あぁはい無い訳ね。だと思ったわよ馬鹿野郎。
まったく。
温もりの記憶さえない我が父は、こんな男とどんな時間を過ごしたのやら。
長い髪を結ぶ事もなく流していても、教師は注意すらしない。
それなりの寄付もしているのでほとんどのことは見逃される事だろう。
一応入学はしたが、マトモに登校する気も、またそんな暇も無いのは分かりきっているのだ。卒業に必要なギリギリの単位数は既に計算済み。後は予定をそれにあわせていくという煩わしい事をすればいい。
これでは海外の予定は長期休みに入れるしかないだろう。
まったく、面倒な。
その後の説明の為にということでゾロゾロと教室に戻される集団に紛れて動く。少しでも外れればマスコミの餌食だという事は簡単に予想できる未来だったので。
そんな中。
「おめでとう」
その声は、やけにはっきりと響いた。
ふっと視線を遣ると、一人の女性が少し離れた所から此方を見ている。
穏やかな春の風にふわりと長い髪が揺れていた。その姿に、自分を育ててくれた人の姿が重なって「そんなばかな」と首を振る。立ち止まるほどの出来事でもなかったから、そのまま進んでいれば直ぐにその女性は見えなくなった。
保護者は、まだ説明を受けたり必要な物を買い込んだりしている頃。
終りかけの桜の花びら舞い散る校門の傍までやって来た女は、門に体を預けて立つ男の姿にふっとその目を細める。
「久しぶり」
「…………本当ね」
背の高い男の顔を見上げて肩を竦める女。
「変わらない、ね」
「お互い様」
そう言いあって、くすくすと笑いあう。
しばらくそうして笑いあった後、ふっと女の方が真顔になる。
「でも、皆…………変わる」
「君だって変わったよ?」
「そう?」
胡乱な目を向けてくる女に、男は悪戯っぽく微笑んだ。
「此処に来た。どうだった? あの子は」
すっと視線を外して、女は遠くの空に目を向ける。
「そうね。私に似てなくて……良かった。あの人に似てた」
「そっか」
女の方を見て、男はふっと手を伸ばす。
そっと頭を撫でた。
空から目を外して上目遣いに見てくる女に、慈愛に満ちた顔をする。
「大丈夫だよ」
その言葉に、女は泣きそうな顔をして頷いた。