行く宛の無い者
文字数 2,595文字
その人は、少年が来る更に前から、その場所に拘束されている言わば先輩のような立場であったけれど、実際には親子程にも歳の差があった。それ故だろう、まるで自分の子のように少年が其処に来た日から、あれやこれやと何くれ構わず世話を焼いてくれたものだった。
歴代ではその地位に最も長く在籍している事もあってなのか、その世話焼きの青年に与えられている権限は少年よりずっと多くて、そして同時に多くの事も理解しているようであり、時にその目は少年を痛ましく見たりもする。
但し、実際の所、その少年は無理矢理に連れて来られたその場所を殊の外気に入ってもいた。
衣食住に困る事無く、欲しいままの学習が与えられ、害される心配が殆ど無い。
廃れた街の片隅でいつも踞り、その日食べるものにも困って、乞食として路上で寝泊まりしていた頃と比べれば、大幅に制限される自由等大した問題ですらなかった。元より帰る場所も、帰りたい場所も少年には無かったから。
世話を焼いてくれるその人にそれを伝えれば、困ったように笑われた。
「ノエル、僕にはそんな時は無かったから、君の気持ちを理解する事が出来ない。ごめんね?」
青年は正直だったから、そう言って、ノエルの頭を撫でた。
そして寂しげに続ける。
「でも、この場所が君にとって幸いであるのなら、それは良い事なのだと思う。僕にとっては、少し違うけれど」
「わかるよ。だって、ハヤトには帰りたい家族がいるんでしょう?」
この場所に来る前に、結婚をしたのだと言って。
ハヤトが時折見せてくれる聖書の間には、綺麗な金髪の女性の写真が挟んである事も、こっそりと教えてもらった。それがハヤトの奥さんで、来る時にはお腹の中に子があったのだという。無事生まれていれば、ノエルよりも少し年上なのだという。
この場所は、囚われている限り、外に出る事は叶わない。
だから今少年の頭を撫でてくれている青年は、生まれた筈の自分の子にすら一度も会えていないということで、聡い少年は自らがその子に重ねられている事は知っていた。
けれど、悪い気はしなかった。
そもそもノエルはこういう構われる事そのものを知らなかったし、どちらにせよ少年の頭を撫でる大きな手は温かい事に変わりなかったからだ。これも、以前居た場所では無かったものの一つ。
「うん。帰りたい。でも」
口を閉ざしているのは、それが己の意思で叶うものではない事を互いに知っているからだ。
それでもノエルは言う。
「帰れるといいね、いつか」
それは別れを意味していたけれど、それでもハヤトの浮かない表情を見るよりは、ずっとマシだと思って願うように言う。本当は、温かいその手が無くなるのは少し悲しいと思っていたけれど、けれどそれは前に戻るだけだから、大した事は無いのだと自身に言い聞かせて。
くしゃり、ノエルの頭を撫でる大きな手が動く。
見上げれば、青年の黒い目がじっとノエルを見下ろしていた。
「ノエル、俺の子にならない?」
不意にかけられたその問いは、真剣味を帯びていて、少年はきょとりと目を丸くする。
「ハヤトの子の代わりってこと? 別にいいけど」
大して深く考えもせずに軽く頷くノエルの様子に、問いかけた本人の方は「あぁそうじゃなくってな?」と頭をぶんぶん振って開いた方の手で己の固い黒髪をかき乱し、もう一度ノエルを見下ろした。
「ノエルは、孤児で、間違いないんだよな? 他に家族とか、親戚とか、頼れる相手とかいないんだよな?」
「そうだよ。前に言ったじゃない」
生まれた日すら解らない。
クリスマスに、教会の前に置き去りにされていた捨て子だった。その時拾った年老いたシスターによって少年はノエルという名を与えられたが、シスターが死んで以降は路上で暮らしていた。当然、家族等知る由もなく、この場所を出ても頼る当て等無い。
だからこそノエルは此処を出なくても良いとまで思っている程だ。
そんな少年に、ハヤトは。
「だからさ、俺と家族になろう。本当の家族に。戸籍も含めてさ。そうしたらもし此処を出たとしても、ノエルは俺の子で、家族だろ。そういう意味で言ってるんだけど。代わりじゃない、ノエルに、俺の子の弟になってくれっていう意味なんだけど」
「え…………」
真正面から顔を合わせて、言い聞かせるように、願うように、言う。
それはノエルからすれば想像もつかないような話だった。それでも必死に考えてみる。目の前の大人が自分の親になって、そうして何時だったか見せてもらった金の髪の綺麗な人も親になるかもしれなくて、更には目の前の人の子供が、兄弟に。
まるで夢のようだと思う程、それは現実離れしているように少年には思えた。
けれど、目の前の大人は大真面目に言うのだ。
「あー、でも、うん、うちの奥さんがそれまでの間ずっと俺の事待っててくれてるかはアレだから、もしかしたら俺と二人で親子かもしれないけど、そこは勘弁な? 俺、奥さん以外結婚する気無いし」
しかも子供とは会えてすらいない最悪の親父だしね、俺。
はははと乾いた笑いを上げながら、それでもハヤトは更に重ねて言うのだ。「俺の子にならない?」と。完全に選択肢をノエルに委ねて、少年を見るから。
「しょうがないな。もし、ハヤトが帰った時一人だったら可哀想だから、なってあげるよ」
だから、ノエルは了承した。
断るような理由も無く、夢のような話は二人の間、成立した。
言い出した本人といえばノエルが承諾した瞬間に「おっしゃぁぁぁぁ!!」と驚く程の大声で叫んで歓びを表したから、これまで誰からもそういう意味で必要とされてこなかったノエルは、そんなハヤトの姿に視界が滲んで、服の裾で目を擦った。
嬉しい時に泣いていいのだと、その時はまだ知らなかったから。
悲しい涙しか知らなかったから、誤解される事を畏れて、涙を隠した。
それから数年。
ノエルの元から、ハヤトの姿が消えた。
それは交代という名の別れが訪れたという事でもあったけれど、新しい出会いも齎す。
しかも、交代でやってきたのは金の髪で、少し年上の、どこか見覚えがあるような顔立ちをした。
「はじめまして、エリカさん」
(僕の、お姉さん)
他でもない、誰よりハヤトが会いたがっていた筈の子供であったから、その不遇にはノエルも同情はしたけれど、ノエルの寂しさは本人が考えていた以上に無かったのだ。
歴代ではその地位に最も長く在籍している事もあってなのか、その世話焼きの青年に与えられている権限は少年よりずっと多くて、そして同時に多くの事も理解しているようであり、時にその目は少年を痛ましく見たりもする。
但し、実際の所、その少年は無理矢理に連れて来られたその場所を殊の外気に入ってもいた。
衣食住に困る事無く、欲しいままの学習が与えられ、害される心配が殆ど無い。
廃れた街の片隅でいつも踞り、その日食べるものにも困って、乞食として路上で寝泊まりしていた頃と比べれば、大幅に制限される自由等大した問題ですらなかった。元より帰る場所も、帰りたい場所も少年には無かったから。
世話を焼いてくれるその人にそれを伝えれば、困ったように笑われた。
「ノエル、僕にはそんな時は無かったから、君の気持ちを理解する事が出来ない。ごめんね?」
青年は正直だったから、そう言って、ノエルの頭を撫でた。
そして寂しげに続ける。
「でも、この場所が君にとって幸いであるのなら、それは良い事なのだと思う。僕にとっては、少し違うけれど」
「わかるよ。だって、ハヤトには帰りたい家族がいるんでしょう?」
この場所に来る前に、結婚をしたのだと言って。
ハヤトが時折見せてくれる聖書の間には、綺麗な金髪の女性の写真が挟んである事も、こっそりと教えてもらった。それがハヤトの奥さんで、来る時にはお腹の中に子があったのだという。無事生まれていれば、ノエルよりも少し年上なのだという。
この場所は、囚われている限り、外に出る事は叶わない。
だから今少年の頭を撫でてくれている青年は、生まれた筈の自分の子にすら一度も会えていないということで、聡い少年は自らがその子に重ねられている事は知っていた。
けれど、悪い気はしなかった。
そもそもノエルはこういう構われる事そのものを知らなかったし、どちらにせよ少年の頭を撫でる大きな手は温かい事に変わりなかったからだ。これも、以前居た場所では無かったものの一つ。
「うん。帰りたい。でも」
口を閉ざしているのは、それが己の意思で叶うものではない事を互いに知っているからだ。
それでもノエルは言う。
「帰れるといいね、いつか」
それは別れを意味していたけれど、それでもハヤトの浮かない表情を見るよりは、ずっとマシだと思って願うように言う。本当は、温かいその手が無くなるのは少し悲しいと思っていたけれど、けれどそれは前に戻るだけだから、大した事は無いのだと自身に言い聞かせて。
くしゃり、ノエルの頭を撫でる大きな手が動く。
見上げれば、青年の黒い目がじっとノエルを見下ろしていた。
「ノエル、俺の子にならない?」
不意にかけられたその問いは、真剣味を帯びていて、少年はきょとりと目を丸くする。
「ハヤトの子の代わりってこと? 別にいいけど」
大して深く考えもせずに軽く頷くノエルの様子に、問いかけた本人の方は「あぁそうじゃなくってな?」と頭をぶんぶん振って開いた方の手で己の固い黒髪をかき乱し、もう一度ノエルを見下ろした。
「ノエルは、孤児で、間違いないんだよな? 他に家族とか、親戚とか、頼れる相手とかいないんだよな?」
「そうだよ。前に言ったじゃない」
生まれた日すら解らない。
クリスマスに、教会の前に置き去りにされていた捨て子だった。その時拾った年老いたシスターによって少年はノエルという名を与えられたが、シスターが死んで以降は路上で暮らしていた。当然、家族等知る由もなく、この場所を出ても頼る当て等無い。
だからこそノエルは此処を出なくても良いとまで思っている程だ。
そんな少年に、ハヤトは。
「だからさ、俺と家族になろう。本当の家族に。戸籍も含めてさ。そうしたらもし此処を出たとしても、ノエルは俺の子で、家族だろ。そういう意味で言ってるんだけど。代わりじゃない、ノエルに、俺の子の弟になってくれっていう意味なんだけど」
「え…………」
真正面から顔を合わせて、言い聞かせるように、願うように、言う。
それはノエルからすれば想像もつかないような話だった。それでも必死に考えてみる。目の前の大人が自分の親になって、そうして何時だったか見せてもらった金の髪の綺麗な人も親になるかもしれなくて、更には目の前の人の子供が、兄弟に。
まるで夢のようだと思う程、それは現実離れしているように少年には思えた。
けれど、目の前の大人は大真面目に言うのだ。
「あー、でも、うん、うちの奥さんがそれまでの間ずっと俺の事待っててくれてるかはアレだから、もしかしたら俺と二人で親子かもしれないけど、そこは勘弁な? 俺、奥さん以外結婚する気無いし」
しかも子供とは会えてすらいない最悪の親父だしね、俺。
はははと乾いた笑いを上げながら、それでもハヤトは更に重ねて言うのだ。「俺の子にならない?」と。完全に選択肢をノエルに委ねて、少年を見るから。
「しょうがないな。もし、ハヤトが帰った時一人だったら可哀想だから、なってあげるよ」
だから、ノエルは了承した。
断るような理由も無く、夢のような話は二人の間、成立した。
言い出した本人といえばノエルが承諾した瞬間に「おっしゃぁぁぁぁ!!」と驚く程の大声で叫んで歓びを表したから、これまで誰からもそういう意味で必要とされてこなかったノエルは、そんなハヤトの姿に視界が滲んで、服の裾で目を擦った。
嬉しい時に泣いていいのだと、その時はまだ知らなかったから。
悲しい涙しか知らなかったから、誤解される事を畏れて、涙を隠した。
それから数年。
ノエルの元から、ハヤトの姿が消えた。
それは交代という名の別れが訪れたという事でもあったけれど、新しい出会いも齎す。
しかも、交代でやってきたのは金の髪で、少し年上の、どこか見覚えがあるような顔立ちをした。
「はじめまして、エリカさん」
(僕の、お姉さん)
他でもない、誰よりハヤトが会いたがっていた筈の子供であったから、その不遇にはノエルも同情はしたけれど、ノエルの寂しさは本人が考えていた以上に無かったのだ。