曲がりくねったその先で
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その人は、恐ろしく綺麗な姿をしていた。
ふわりとした柔らかそうな茶の髪は明らかに地毛で、尚且つ瞳も同色だった。着崩したスーツは最初からそうであったかのようにその肢体を包み、これ以上無い程バランスの取れた体躯が外からも明らかに解る程だった。更には衣服から出た皮膚は滑らかな白磁で、欠点を見つけようが無い。
ただ立っているだけで、絵になる。それを地でいく存在。
他に表現のしようも無い程、形容すべき部分の全てが、そんな状態だった。いきなりそんな存在が職場の中に堂々と現れれば、さすがに一事が万事、オオゴトで日々が埋め尽くされているかのような大変な職場であったとしても、しんと静まりかえる。
更にふわり、微笑みまで浮かべられては、殆どの者が息を飲んだ。
大体において、セキュリティが他より遥か厳しいその部署の部屋の中に入れる人間は、所属している彼らと他一部の例外のみで、少なくともその例外達を在籍している誰もが知っていたのだが、今現れた青年は一部の者達は全く知らなかった。
そうして、その他の者達にとって、その人は。
「……部長ぉぉぉぉぉっ!!」
しばしの沈黙の口火を切ったのは、これまでその部署の中で上に立ち働いてきた二人の内の片方、常に騒がしさを伴わせる明るい青年である唐杉で、彼は手にしていた朝の報告用の書類だろう紙を放り出して一目散、現れた青年の方に駆け出していく。
放り出された紙の方は、唐杉の相棒を長年受け持っている(一部では子守りとまで揶揄されている)山辺が、地に落ちる前にキャッチしている。その山辺の方もさすがに駆け出しはしなかったものの驚きを隠せない表情で入り口に立っているその人を見ていた。
がばり。
まるで親子の感動の再会の如く青年に抱きついた唐杉は、「部長だ部長だぁ」と何度も言っている。
その当の唐杉は、もう十年もの間ずっと部長代理という微妙な地位であったのだけれど、抱きついている姿からは部下を従えてきた威厳等全く感じさせない(元より持ち合わせているかどうかは怪しい所だったが)。
危なげなく唐杉を抱きとめた本人は、にこにこと笑みを絶やさないまま、身長差故に下に在る唐杉の頭を撫でる。
「もう、まーくんは大袈裟だなぁ。この前の休みには会ってるじゃない」
「職場とは別ですぅ! うわーい部長が帰ってきたよー!! ちょっとやっくんなにぼーっとしてんの部長だよ部長だってばもう!」
「いや、そこは部長の言う通りこの前会ってるし、そんな感動の再会ってなもんでも無いかと」
一人盛り上がる唐杉を前に、山辺の方はむしろ唐杉のあまりの盛り上がりに引き気味になりながら書類を机に置き、苦笑いする。
そうして山辺が視線を投げる、部署の最奥、もう何年も殆ど主が使用していない机が、その帰りを待っていた。全く、ではない。だから、時折山辺や唐杉や、他の主を知っている者達がそれぞれ気付いた時にはほこりを払っていたりする。
知らない者達からすれば、存在だけはある事を教えられてはいるものの、其処はほとんど学校の怪談の一つのような、永久欠番的な場所でもあった。
なにせ、不在期間が十年なのだ。
その間に部署の中の人員は倍以上に増えているし、逆に創設時から彼の人が抜けるまでの期間に所属していた者の方が圧倒的少数な程で、それ以外に知っているのは偶発的な出会いなどによるものだったから、むしろ知らない方が当然でもある。
その間ずっとこの部署を担っていたのは今会話をした唐杉と山辺ともなれば、更にその上という人間がいきなり出てきても戸惑うのは仕方ない。
「あれ? やっくんはお帰り言ってくれないの?」
唐杉を貼付けたまま部屋の中を、自らの机に向かって進む青年が柔らかな笑みと一緒に問いかけた。
その進路上に立っていた者達が自然、道を空ける。
目の前までその人が来た時、そう他の者達の視線から丁度山辺の顔が青年の姿態によって遮られたその時に、山辺は視線は机に向けたそのままで小さく呟くように言う。
「……お帰りなさい、部長」
「良く出来ました♪」
それなりに身長の高い山辺よりも更に背のある青年は、手を差し出してふわり、山辺の頭を撫でた。
示し合わせたかのようにその瞬間に唐杉が青年から離れ、山辺も一歩横にずれ、ちょうど普段の朝会のような位置に山辺と二人、そして新たに戻ってきた本来の責任者を真ん中に挟んだ状態で立った。そうして部屋の中の全員に聞こえる大きな声で言う。
「というわけで、うちの部長、十年ぶりに帰ってきましたぁ!」
「いやそれ紹介になってないからな」
間髪入れずに山辺のツッコミが入るのを、一部は懐かしげに、その他は訝しげに見守る。
それは、青年が其処に常にあった時には良くあった光景だったからだ。部長である青年を間に挟んで副部長が二人、伸び伸びと話す姿。そう、青年が居た頃を知っていた者達からすればこの十年、部署を担っていた部長代理の二人が常に何処か緊張感を抱えたままであった事を知っている。
それだけ、青年の代理となるのは重圧であるという事実も。
けれど長い十年の月日は、ともすればそれが当たり前に思えてしまう日もあったが、本来の形はこれだったと、昔を知る者達は一瞬で今に馴染んだ。
「斉藤康介、本日付けで部長に復帰するよ。知ってるヒトも、知らないヒトも、覚悟してね。未解決案件は三ヶ月で全部無くすから」
にこ、と邪気の無いように見える笑顔と共に自己紹介した齋藤康介は、その次の言葉で部署内全員(両隣の副部長を含む)を叫ばせた。
その天地をひっくり返すような騒ぎの中も、予想済だったのか顔色一つ変える事無く斉藤は肩を竦めて更に言う。
「もう上と約束しちゃったもん」
にこり、そんな形容と共に吐き出されるのは、それが既に最終決定事項であるというどうしようもない事実。
彼の青年の人と成りを知っている故にどうにか立ち直りは『知っている組』の方が速かったけれど、さすがに唐杉も、それには泣きそうな顔をしてぼやいた。
「……部長酷いよぅ」
「そうだよな、そういえばこうだったよなあの頃」
片や山辺の方はどこか達観した顔をして息をついている。
出来ない、とは言わない。というよりも、この齋藤康介という存在が上に立つただそれだけで、大抵の不可能も無茶も実現されてしまう。それは『知っている組』からすれば身をもって理解している現実で、ここまできて改めてようやく上に立つべき存在が戻ってきたのだと、彼らに思い知らしめる。
そして『知らない組』の方はといえば、事態についていけないままでがやがやと互いに無茶だと言い合うばかり。その様子が恐らく一ヶ月も経てば一変するだろうと山辺等は確信していた。
そんな状況下、更なる爆弾が投下される。
「うーん、でもそれじゃつまらないから、一ヶ月目指してみよっか」
最上級の笑顔と共に言われたその言葉は、その後一ヶ月に渡るこの部署の地獄の始まりの合図に過ぎなかった。
けれども、一ヶ月後実際に残っていた総ての未解決案件が本当に処理されきった頃には、その特殊な部署内に在籍する全員が、自分達の上に立つ人間が斉藤以外に有り得ない事を理解したのだった。