黄昏・弱音・ひとでなし

文字数 2,246文字


 はぅー。
 思ったよりも大きくなったため息は、冷たい空気の中、白くもならず消えてゆく。
 強すぎる風が息を留めないのは当然で、けれど身を引き裂くような冷たさはいっそ心地よさすら与えてくれたから、彼は動く気になれずにただぼんやりと視線を彷徨わせていた。見えるのはまるでタケノコの如く大地より生えている沢山のビル、そして曇天。
 気が晴れるような要素など何処にも無い。

「どーしったのっ? サフォンド」

 いきなり背後から掛けられた声。予測はまた出来なかったが、今では驚くこともない。
 振り向く気も起きない。
 強すぎる風にも攫われない、はっきりとしたテノール。
「ほっとけよ…………。自分の職場はどうしたのさ」
「ふふふ。うちの子たちは皆いい子で優秀だからね。それに僕のやるべきことはちゃんとやってるから。それよりも、君こそどうなの? こんなところでなにしてるのかな?」
 それは俺の台詞だよ。わざわざ一人になりたくて、このビルの、出入り口もない天辺に来たって言うのに。心の中だけで返した言葉は、結局世界に響く事は無かった。
「アリアちゃん、心配しているんじゃない?」
 足音も軽く近寄って、隣に並んで座りながら、一番痛いところを的確に突いてくる。
 いつでも変わらない柔らかい笑顔を浮かべているだろう、その男を、今は見れなかった。
 風に攫われて靡いているだろう茶の髪や、面白がっているだろう茶の目、表情なんかは態々見なくても簡単に想像がつく。忌々しいが、一番大事な女を除けば、恐らく彼がこの世界で一番目に知っているだろう相手はこの男である。
 それは自分の興味とは関係無い。どうしようもない所で発生する知識であったが。
 そのせいか、弱音はあっさりと口をついて出てしまった。
「…………僕は、さ。アリアと一緒にいて、いいんだろうか」
 思い浮かぶ、白い髪の女。世界一大切な、守るべき人。
 代わりなんて居ない。居たらこんな世界に彼はいない。
 大事過ぎて、愛し過ぎて、この先に失う事を何より恐れて、自分の意味と形すら投げて手に入れた人。彼女が自分に向けているのが同じ気持ちであるかどうかなんて意味が無い。優しすぎる彼女は、愛情も同情も区別をしない。そして付け入るように、ただ、彼は尽くす。
 けれど、自身が齎す弊害を何より彼は知っている。
「僕がいるせいなんじゃないか? 僕がいなければ、アリアは今みたいな職場にいることもなくて、普通の、安全な人生を送ってるはずだろう? 僕が……っ」
 ぎり、と握りしめた手がコンクリートを引っ掻いた。
 普通の人間であれば赤い名残がつくだろうが、そこに残るのは抉られたコンクリートだけ。
 これが、自分の罪であることを、彼は知っている。
「あー、サフォンド。サフォンド=ホーリーブレード!」
 いつになく強い口調で呼ばれて、彼はようやく隣を見た。風に揺れる茶の髪。やっぱり笑ってたけど、苦笑。
 端正な顔に、少し歪んだ口元がある。
「無意味な仮定はやめなさい」
 なんでそんなこと知ってるんだとか、この男にそういう質問は無意味だ。
 そういう存在だった。
 男は髪を片手で鬱陶しそうに押さえて、肩を器用に竦めてみせる。言葉一つ響かせるのにも影響のあるこの男は、けれど動作を怠る事は殆ど無い。芝居がかったものですらまるで自然の如く、その身に乗せてみせる。
 にやりと笑って、男は言葉を続けた。
「アリアちゃん一人の基準で考えるなら、君は確かに必要だったよ。だって、仮に君がいなかったとしても僕はアリアちゃんを見つけただろうし、間違いなく今の場所に引き込んでたからね」
 言われた言葉を理解したのは一瞬だった。
「おっ、お前っ!!」
 今の現状をそもそも招いた原因は目の前の男だったのだと、根本的な事を思い出してしまい思わず睨みつける彼に、けれど白々しく男は言葉を続けていく。
「だって、君がいなくても、彼女の能力はやっぱり必要だ。むしろ君がいなかったら、君たちが今二人でやってる事は、全てアリアちゃん一人でやってもらってただろうね」
 確かに、彼の大事な女は、誰よりも強い。
 単純な個人の戦闘能力でかの女性を上回る者は、今の所此処に居る二人だけだろう。それだけ突出している。もはや常人の域は離れ、御伽話の域であるにも拘らず、多忙な日々が終わらない程の環境を持ってきたのはこの男だった。
 彼なら問題ない。けれど、かの女性はそれでも人間だし、女性である。
 仕事から帰って一息つくはずの職場内ですら、上司であるにも拘らず綺麗な女であるかの女性に懸想する者も居たりして、中々これでも彼は気の休まらない日々を送っているのだ。
 もし一人で働いていたら。
「こっ……このっ、ひとでなしっ!! 鬼っ!! 悪魔っ!!」
「ふふふっ、そんなこととっくに分かっていたと思うけど?」
 けらけら笑う男に構っている暇は既に無かった。
 彼は自分の意味を思い出したから。
「帰るっ! アリアんとこ戻るっ!」
「うん。そうした方がいいよ。今また事件が起こってねー」
「っ!! それを早く言えよ、馬鹿っ!」
 鮮やかな笑顔で、怒って立ち去る彼に男は後ろから「頑張ってねー」という気の抜けた言葉を掛けただけで、追いかけて来ようとはしなかった。

 ほんとは、分かってるんだ。
 俺の独白は意味のない弱音で、アリアはこんなこと訊いたらきっと怒るだろうって事。
 彼女の魂は誇り高く、俺の身勝手な選択ですら、彼女にとっては守るべきもので。

 何より、今更彼女と離れるなんて、出来る筈も無い。
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