少年は微睡みの中で

文字数 2,460文字


 小学校の半ばに、兄は働き始めた。
 正確には元いた職場に戻っただけなので、復職というらしい。それまではどうしてたんだと訊いたら、当人は育児休暇だと言っていた。そんなの、さすがに自分がまだ小学生だったとしても長過ぎる休暇だと思ったが、当の本人である兄は暢気に「だって信ちゃん大事だし」とかのたまわったのを覚えている。
 それからは所謂鍵っ子になった訳だが、実際はそれほど家の中独り兄の帰りを待つような日は殆ど無かった。何故か知っている人達が良く夕食に来たからだ。
 はっきり言って過保護な部分が多々ある兄の友人達がその来訪者の殆ど(全部でないのは、その中に一部友人である事は真っ向否定する鉄色の髪をした綺麗な青年などがいるからだ)で、兄の帰りが遅い日は大抵そういう人達が現れた。
 それぞれと色んな話をするのは楽しくて、そういう意味では信介に特に不満はなく日々は過ぎていたと思う。
 さすがに中学校に上がった辺りからはそれが兄の差し金であると気付いたから、あまり周囲に迷惑をかけないように釘を刺して以降、そんな来訪者の数は少しずつ減っていった。その代わり、夕食を作る信介の料理の腕と買い物の目利きの能力が上がった。
 両親は、信介が生まれた後で直ぐに亡くなっている。
 だからそれ以降信介を育てたのは、兄独りで、何時かその兄も働かなければならないのだからこういう形、つまり一人きりの時間が増える事は思春期に入った頃には当然予想出来る範囲内で。
 けれどそう、慣れない孤独の時間は時を持て余す事も少なくない。
 かといって勉強をするような真面目な習慣も無い少年は、そんな時間は近くの商店街(夕食の買い物を繰り返す中で様々な店の人達といつの間にか仲良くなっていた)に小さな買い物がてら出かけては、特に用もない客も少ない古いタバコ屋のおばあちゃんとおいしい煮物の作り方の会話に耽ったり、道具屋の親父に構われたりもする。
 それでも毎日そんな事を繰り返す訳にもいかない。
 かといって何か部活動に入るようなつもりも無かった、入ってしまうと、何時帰ってくるか判らない兄の夕食が作れなくなってしまう。兄と二人きりで生きてきたという自負は人一倍強く持っているからこそ、それを疎かにするような事は出来る筈も無かった。
 きっと兄自身はそんな事に囚われず、彼が部活動をしたいといえば全く反対しないだろうけれど。
 だからこそそれに甘えたくはなかった。
 まだ作れる料理のレパートリーはそれ程多くはないけれど、何時も喜んでくれる兄を少しでも支える事が出来るなら。これまでずっと兄として彼を支えてくれたから、自分だって、と。
 その日は、後は圧力釜の中煮込まれるだけのシチューと冷蔵庫の中簡単なサラダを既に用意していて、もうこれ以上する事も無い。
 リビングのふかふかのソファーの上でごろりと寝転んだ信介は、窓の外夕暮れから迫る夜を、少なくなっていく光と共に感じながら部屋の電気をつける事も無く微睡んでいた。その日は、最後の授業がマラソンだったから何時もより少し疲れていたというのもある。
 微睡みの中、しんとした部屋はどこまでも静けさがゆっくりと彼をより深い眠りに誘おうとする。
 初秋の部屋はこのまま眠ってしまうには少し肌寒い。多分こんな場所で眠ってしまった事が兄にばれてしまえば、あの口煩い過保護な兄は黙ってはいないだろう。兄の部屋をどれだけ使おうと何の文句も言わないくせに、こういう事には黙っていないのだ、あの兄は。
 それだけ大事にされてきたからこそ、親がいない寂しさを感じる暇が無かったとも、今では薄々思えるようになってきたけれど。
 今日は何時戻る予定だったっけ、と遠くなりかける意識の端で思う。
 確か、二十時だった筈だ。
 忙しい兄の部署は戻れる時間も日によってまちまちで、時には日付が変わった辺りに戻ってくる日だってある。そういう場合は必ず十八時頃には連絡が入ってきて、先に寝ているように言われるのだ。寝ていなければ後で怒られる。
 勉強してなくても怒らないくせに、寝てないと怒るなんて、やっぱ変なの。
 くすり、微睡みを享受している彼の口元に笑みが浮かぶ。
 どっちにせよ自分の家の状態が普通の家庭とは遠く異なる事くらい、この年齢になれば当然判る事で、けれど亡くなった両親には悪いと思うけれど馴染みの無い年に一度墓に行くだけの親よりも兄の方が身近になってしまうのはしょうがない。
 普通の兄弟よりは仲がいいのだ、とは思う。周りから訊く兄弟と、信介の兄弟は全然違う。
 判っている。
 それは恐らく、兄が独りで信介を育てたからでもあるし、年齢差からくるからでもあるし、相手があの兄だからでもあるのだろう。様々な要因で今がある。
 沢山の知っている人、仲良くしてくれる人、それら全て過去から今に繋がっているのなら。
 今が好きだから、悪くないと思うのだ。
 そんな事を思っている内に、意識が完全に深みの方へと沈んでいく。その中最後に思ったのはやはり兄の事で、あぁまた怒られるなというそんな意識だった。


(もう、信介ってば、こんな所で)
 あぁやっぱり。予想通りの反応されてるや。
(仕方ないな。んしょっと。あー、やっぱり信介も大きくなったなぁ。昔はあんなに小さかったのに)
 当たり前だろ。これからもっと大きくなる予定なんだからな。さすがに兄貴より身長は大きくならないかもしれないけど、でもまだ成長期なんだから。
(でも寝顔は変わらないね)
 馬鹿やろ。
(もう少し、このままでいさせてね。大人になるのを急がないでよ。寂しいでしょ)
 本当、馬鹿だろう。大人になろうが、ずっと、兄弟なのに、何言ってんだか。本当に兄貴は俺がいないと、駄目だな。駄目駄目だ。
(一緒に、いさせてね)
 仕方ないから、一緒にいてやるよ。だって、駄目駄目なんだから。俺がいないと、どうせまた馬鹿な事して周りに迷惑いっぱいかけたりするんだろうから。だから、いてやるよ。
(ごめん)
 だから、そんな声、出すな。
 いつもみたいにしてろよ。
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