雲海 ①

文字数 696文字

「——ヤ。アヤ、アヤ」
「んー……?」

 まだ窓の外が暗い時間、体を揺さぶられ彩那は目を覚ました。

「ごめん、早い時間に。起きられる?」

 申し訳なさそうにミハイルがささやく。

「ふわぁ、なぁに?」

 ものすごく眠い。今浮上した意識もまたすぐに落ちそうになる。

「ちょっと来てほしい場所があるんだ」

 明るくも真剣さを含んだ声に、何か大事な案件である気がして、重いまぶたをこじ開けた。

***

 着替えをすませ、彩那はミハイルと廊下を歩く。
 スタッフはすでに起きているが、なるべく足音を立てないようにそっと床を踏みしめた。

——どこに行くんだろう

 たずねても「秘密」とはぐらかされてしまった。しかもミハイルは小さなバスケットを携えている。てっきりハインリヒもついて来るのかと思ったが、いない。
 夜が明けきらないうちに、こっそりふたりで部屋を抜け出すのは探検に行くみたいでわくわくする。

「うぅ、寒い」

 玄関から外に出ると冷蔵庫の中みたいだった。マフラーにコートと完全防備だが、ひんやりした風に、ほっぺたが凍りそうである。一晩中雨が降っていたらしく通路の石畳は濡れている。

「足元滑るからつかまって」
「ありがとう」

 こういうことをさらっとしてしまうところが憎い。
 バイトなのに本当に恋人になったんじゃないかと、かんちがいしそうになる。ちょっと照れつつ彩那はミハイルの手につかまった。

 どこからか鳥のさえずりが聞こえる。

 まだいろいろなものがまどろみにある時間。人工的ではない、解放された朝の静けさが心地よかった。

 ミハイルに手を引かれて中庭を横切り、城門塔横の門を出て、稜堡(りょうほ)まで足を伸ばす。

 少しずつ空は白み始めていた。
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