シャワーとか、歴史とか 5-(3)

文字数 1,223文字

「変な話じゃないよ。アヤにとっては重要なことなんだから」
 否定せずに受けとめてくれる言葉に、ちょっと泣きそうになった。
「ミーシャは、どうしてわたしのこと助けてくれたの?」
 涙をごまかそうと話題をふる。
「どろぼうって叫んでるのが聞こえて。ほとんど無意識だったよ」
「すごい足も速いし。ほんとすごかったよ。瞬殺だったもん」
「ローゼンシュタインは徴兵制度があるからね」
「やっぱりきびしいの?」
「野営訓練はきつかったかな。起床も早かったし」
 ミハイルの苦笑まじりの返しに、少しほっとした。ほんのちょっとでも、思い出せたこともあるようだ。
「アヤはいつも何時に起きるの?」
「七時くらいかな。時間的には間に合うけど、いっつもパンかじりながら出てる」
 もっと早く起きればいいのだが、六時なんてまだ完全に夢の中だ。
「お酒もほどほどにしないと、朝辛いよ? ボクと会ったときも大変だったでしょ」
「あはは」
 あんな盛大に胃の中身をぶちまけた嘔吐したことなんて忘れてもらいたい。すぐに帰りたくなくて並木通りまで足を伸ばしたけれど。それをしなかったら、今こうしてミハイルといっしょにはいなかった。
「膝も怪我していたし。だれかとぶつかって転んだの?」
「いや、あれはパンプスのヒールが折れて……」
 今思い返してもかなり痛かった。「顔面も地面にぶつけたから痛かったし」話しながら、ふと、ある人物の姿がよぎった。
「あ、でも。どろぼう男にバッグを盗られる前、すっごく美人の外国の人とぶつかった」
 真っ赤なルージュが印象的で、背の高いすらっとした女性だった。
「なんかモデルさんみたいで~。わたしも惚れちゃいそうだったもん」
 一瞬しか見てないけれど、とにかくきれいだった。うっとりとしていると、突如低い声が発せられる。
「ねぇ、アヤ。僕も正真正銘のモデルだよ?」
「……もちろんわかってるよ?」
 ミハイルの言葉の真意がわからず彩那は首を傾げた。
「じゃあ、僕とその女性。どちらがアヤにとって魅力的なの?」
「え?」
——なんかミーシャ、怒ってる?
 そんな変なことを言ってしまったのだろうか。第一にくらべるものでもない気がする。無機質なドライヤーの音だけが重く響く。
「そういえば、ぶつかったときに”エン、チュルディグン”みたいな言葉を話してたような」
 何か言わねばと必死で考えたら、そんな記憶の一端をつかんだ。もっとかっこいい発音だったと思うが、自分で言うと残念なカタカナ発音になってしまう。
「ああ、それってたぶん”Entschuldigung.”って言ったんだと思うよ」
「そう! それっ!」
 ぴったり同じ言葉に彩那は思わずはしゃぐ。
「ドイツ語で『失礼』や、『すみません』って意味だよ」
 やはり本場の発音はきれいだ。
「ミーシャはマルチリンガルなんだよね。頭の中ごっちゃにならない?」
「うーん。そういう環境だったから、考えたことないかな」
 門前の小僧というやつらしい。そもそもの前提からしてちがうようだ。
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