ローゼンシュタイン公国
文字数 1,933文字
「——ナさん……アヤナさん……」
まったりした雰囲気の声が聞こえる。やさしく揺さぶられて、やんわり意識を持ちあげられた。
「……おかあさん?」
「スミマセン。お母さんじゃないんです」
声の主が困ったように笑って答える。正しい声の高さを認識して彩那は、はっと目を覚ました。
「ミッ、ミーシッ……」
いつも雑誌や街頭ビジョンの中でしか見たことがなかった顔。そんな相手の顔が至近距離にあり彩那は飛び起きた。一瞬混乱したものの、そういえば婚約者のバイトをすることになっていたんだと、じわじわ思いだした。覚醒しきらない頭を持てあまし、あくびをしていると、
「本国に到着したので、早々にお支度願えますか」
ハインリヒの冷淡な声に眠気が一気に吹き飛んだ。
——寒っ!
現地時間十八時。ローゼンシュタイン公国空港。
王室専用機から降りると、凍える空気と仰々しい警備に出迎えられた。
そのまま人目を避けて裏口へと移動し、どこかの大統領が乗っていそうな頑丈な黒塗りの車に乗せられる。
——うぅ、肩こる
本来ならセレブ体験と浮かれるところだが、緊張感と重々しい雰囲気に窒息死しそうだった。シートも上等すぎて座っていることすら恐れ多い。頭もくらくらする。彩那は無意識に肩をすくめ、うつむいていた。社長が同席した会議のぴりぴり感が可愛く思えた。
「え?」
ふっと右手がぬくもりに包まれた。
「アヤナさん。緊張しているのはボクもいっしょですから」
ミハイルが眉を下げてかすかに笑う。
「……っ」
やっぱり、すっぽり包まれてしまった手——彩那はカァッと顔が熱くなる。胸にも灯ったその熱はじわりしみこんで、硬直していた体がふぅっとゆるんだ。ためらいつつもミハイルを見つめると、彼は目を細めて頷く。色々な意味で酔ってしまいそうなミハイルの声と表情に背筋がぞくぞくした。
ゴホンと、まったくもってわざとらしい咳払いに現実へと引きもどされ、彩那はパッと手を引っこめた。
「あらかじめ申しあげておきますが、王宮内は監視カメラにより、二十四時間体勢で監視しております」
「わたしがミハイル殿下を襲うとでも?」
なぜこちらが問題を起こす前提なんだ。
闇に染まる田園地帯の中を進みながら今後のことについて説明を受ける。
王宮内のスタッフには、
「ミハイルが記憶喪失であること」
「医師の助言で婚約者の彩那が同行すること」
のみが伝えられているとのことだった。
「王宮内であればご自由に行動していただいてかまいません。一部立ち入り禁止の場所も」ありますのでご注意ください」
ほとんど念押しの内容に辟易していると、
「あなたは非公式の婚約者ですし、あくまでアルバイトの立場。勝手に出歩かれて不祥事でも起こされては、王族の威信にも関わります」
ハインリヒが厳しい声で釘を刺す。
「期間限定の雇用関係なのですから、後々妙なうわさや勘繰りを受けるのは、 あなたにとってもわずらわしいでしょう」
さも配慮しているような言い方だが、契約書どおり用が済んだら、即おはらい箱にしたいだけだろう。
「ちゃんとモデルも務めてもらえるんでしょうね?」
『モデルを務めてもらう』と、契約内容に一応含まれてはいるが、ほごにされないようこちらも念押しをする。
「それについては、ミハイル様が所属されているプロダクションのほうにも了解を得ています。松田さんの控えにも承諾書類を同封して、ご自宅に郵送すうrよう手配してあります」
そういうところはきっちりしているようだが、どうにもハインリヒの命令口調に、気持ち的には納得できない感が強い。
「だいじょうぶですよ。ボクもちゃんと覚えていますから」
「あ、ありがとうございます」
ミハイルのフォローにあっさり納得してしまう。さすが芸能人、いや王子様と言うべきか。
「また、こちらに滞在している日本人もごく少数です。第一に王城は山頂にあるので、外出には車が必要となります。今回、国外運転免許証の手続きは申請しておりませんので、あなたは自動車の運転はできません」
取得してから一度もハンドルを握っていないから、どっちみち運転は無理だ。
「だれかに運転してもらうのは?」
決まりごとの多さに、彩那はうんざりとたずねた。
「我が国は地域によって言語が異なりますが用件を伝えられますか?」
そういえば公用語が四つあるという話だった。あっさり返り討ちに遭い彩那はあぜんとする。
「王宮所在地一帯はドイツ語が主言語ですが、英語を話す者も多いですね」
つまりはお城の中だけでも二ヶ国が飛びかっているというわけで。
「スタッフにも英語のみを話す者とドイツ語のみを話す者、その両方を話す者がおります」
「お城の中でおとなしくしています」
そのほうがおたがいのためらしい。
まったりした雰囲気の声が聞こえる。やさしく揺さぶられて、やんわり意識を持ちあげられた。
「……おかあさん?」
「スミマセン。お母さんじゃないんです」
声の主が困ったように笑って答える。正しい声の高さを認識して彩那は、はっと目を覚ました。
「ミッ、ミーシッ……」
いつも雑誌や街頭ビジョンの中でしか見たことがなかった顔。そんな相手の顔が至近距離にあり彩那は飛び起きた。一瞬混乱したものの、そういえば婚約者のバイトをすることになっていたんだと、じわじわ思いだした。覚醒しきらない頭を持てあまし、あくびをしていると、
「本国に到着したので、早々にお支度願えますか」
ハインリヒの冷淡な声に眠気が一気に吹き飛んだ。
——寒っ!
現地時間十八時。ローゼンシュタイン公国空港。
王室専用機から降りると、凍える空気と仰々しい警備に出迎えられた。
そのまま人目を避けて裏口へと移動し、どこかの大統領が乗っていそうな頑丈な黒塗りの車に乗せられる。
——うぅ、肩こる
本来ならセレブ体験と浮かれるところだが、緊張感と重々しい雰囲気に窒息死しそうだった。シートも上等すぎて座っていることすら恐れ多い。頭もくらくらする。彩那は無意識に肩をすくめ、うつむいていた。社長が同席した会議のぴりぴり感が可愛く思えた。
「え?」
ふっと右手がぬくもりに包まれた。
「アヤナさん。緊張しているのはボクもいっしょですから」
ミハイルが眉を下げてかすかに笑う。
「……っ」
やっぱり、すっぽり包まれてしまった手——彩那はカァッと顔が熱くなる。胸にも灯ったその熱はじわりしみこんで、硬直していた体がふぅっとゆるんだ。ためらいつつもミハイルを見つめると、彼は目を細めて頷く。色々な意味で酔ってしまいそうなミハイルの声と表情に背筋がぞくぞくした。
ゴホンと、まったくもってわざとらしい咳払いに現実へと引きもどされ、彩那はパッと手を引っこめた。
「あらかじめ申しあげておきますが、王宮内は監視カメラにより、二十四時間体勢で監視しております」
「わたしがミハイル殿下を襲うとでも?」
なぜこちらが問題を起こす前提なんだ。
闇に染まる田園地帯の中を進みながら今後のことについて説明を受ける。
王宮内のスタッフには、
「ミハイルが記憶喪失であること」
「医師の助言で婚約者の彩那が同行すること」
のみが伝えられているとのことだった。
「王宮内であればご自由に行動していただいてかまいません。一部立ち入り禁止の場所も」ありますのでご注意ください」
ほとんど念押しの内容に辟易していると、
「あなたは非公式の婚約者ですし、あくまでアルバイトの立場。勝手に出歩かれて不祥事でも起こされては、王族の威信にも関わります」
ハインリヒが厳しい声で釘を刺す。
「期間限定の雇用関係なのですから、後々妙なうわさや勘繰りを受けるのは、 あなたにとってもわずらわしいでしょう」
さも配慮しているような言い方だが、契約書どおり用が済んだら、即おはらい箱にしたいだけだろう。
「ちゃんとモデルも務めてもらえるんでしょうね?」
『モデルを務めてもらう』と、契約内容に一応含まれてはいるが、ほごにされないようこちらも念押しをする。
「それについては、ミハイル様が所属されているプロダクションのほうにも了解を得ています。松田さんの控えにも承諾書類を同封して、ご自宅に郵送すうrよう手配してあります」
そういうところはきっちりしているようだが、どうにもハインリヒの命令口調に、気持ち的には納得できない感が強い。
「だいじょうぶですよ。ボクもちゃんと覚えていますから」
「あ、ありがとうございます」
ミハイルのフォローにあっさり納得してしまう。さすが芸能人、いや王子様と言うべきか。
「また、こちらに滞在している日本人もごく少数です。第一に王城は山頂にあるので、外出には車が必要となります。今回、国外運転免許証の手続きは申請しておりませんので、あなたは自動車の運転はできません」
取得してから一度もハンドルを握っていないから、どっちみち運転は無理だ。
「だれかに運転してもらうのは?」
決まりごとの多さに、彩那はうんざりとたずねた。
「我が国は地域によって言語が異なりますが用件を伝えられますか?」
そういえば公用語が四つあるという話だった。あっさり返り討ちに遭い彩那はあぜんとする。
「王宮所在地一帯はドイツ語が主言語ですが、英語を話す者も多いですね」
つまりはお城の中だけでも二ヶ国が飛びかっているというわけで。
「スタッフにも英語のみを話す者とドイツ語のみを話す者、その両方を話す者がおります」
「お城の中でおとなしくしています」
そのほうがおたがいのためらしい。