第7話 真っ暗な、井戸の中
文字数 3,701文字
僕とナナオさんは、手早く夜食の後片付けをして井戸をのぞき込んだ。
井戸は板でふさがれた上に網がかけられていて、人が落ちないようになっている。でもとくに鎖とか鍵で止められているわけではなくて、簡単に取り外せた。山の上のほうだからわざわざ子供が遊びに来たりしないし、入ろうと思う人もいなさそうだ。案外警備はゆるいのかもしれない。
井戸は神社の中でも手水舎の裏手、森の近く、ようするにこの神社内のどこよりも真っ暗なところにあった。そして、のぞき込んだ井戸の中はさらに暗く、吸い込まれるような闇が広がり、底を見ているだけでどこまでも落ちていくような気分になれた。奈落、という言葉が頭をよぎる。見ているだけで平衡感覚が狂う。
ようするに、ものすごく、怖い。これはおばけが怖いとかそういう怖さと全く違って、純粋に命の危険を感じる恐怖。見てるだけで全身が震える。井戸の底から、冷たい風が手を伸ばしてきているように感じる。
「ナナオさん、あの、本当にここに入られるんでしょうか?」
なんか変な敬語が出る。なんていうか、ここに入る選択肢はありえないのではないでしょうか。
ナナオさんは平然として、つるべを結ぶロープをギュッギュッと確かめながら、何いってんの、っていう顔で僕を見る。
井戸の直径は80センチメートルぐらい、ギリギリ一人は入れるくらいだろうか。なんていうか、桶の滑車が設置された屋根がなければリソグで貞代が出てくる井戸にそっくり。嫌なことを考えてしまう。
「大丈夫だって、私が入るからボッチーは上で見張ってて」
「いやいやいや、そういうわけにはいかないでしょ!」
「いや、だって、どっちか上で待ってないと何かあった時こまるじゃん?」
まあそうだけど。そうだけど!
僕がここに残って女の子に井戸に特攻させるわけにはいかないじゃないか。さすがに。
「ちょっと冷静に考えようよ、どのくらい深さがあるかわからないし」
ナナオさんはその辺の石をつかんで、おもむろにポイと井戸に投げ入れる。
すぐにピチャっという音とカツンという音がした。あれ、あまり深くないのかな。
でも確か、垂直落下の場合は1秒で5メートル、2秒で20メートルくらいだった気がする。
10メートルちょっとくらいはありそう……。ひゅうと井戸から風が吹く。
ナナオさんがつかんでるロープも古びているし、そんなに丈夫そうでもないよね。
「そんな深くなさそうだし、大丈夫じゃない?」
ナナオさんの楽観はどこから来るんだろうか?
考えているうちに、ナナオさんは、よっ、という掛け声とともに気楽に井戸の淵に足をかけたので、僕はあわててナナオさんに抱き着き、井戸から引きはがして、井戸のそばに倒れ込む。
「おおっ!? ボッチー積極的だな」
「……ナナオさんさぁ、ほんとは怖いんでしょう?」
ナナオさんに抱きついた時にわかった。ナナオさんの膝はカクカク震えていた。やっぱり強がってる。混乱してるのかもしれない。
「……そんなに無理しなくてもいいんじゃないかな。僕らには無理だと思う」
「でもさぁ。……やっぱりかわいそうだよ。なんとなくさ、できるところまではやってあげたい」
ナナオさんはカクカク震えて井戸のそばにへたり込みながらもまだつるべのロープを握りしめていた。この様子だと、ナナオさんが無事に井戸の底まで降りられるかすらも心配だ。でも、ナナオさんの瞳を見ても、どうやら行かないという選択肢はないらしい。
僕は、ハァ、と小さくため息をつき、ナナオさんの持つロープを奪う。ささくれて、ざらざらした感触をきゅっと握りしめる。
「僕がいくよ」
「や、私がいくよ、なんとかしたいのは私だからさ」
ナナオさんは焦って両手を伸ばして僕からロープを取り上げようとするけど、僕はさらに手を伸ばしてロープを遠くに押しやる。
「そんなこと言って本当は怖いんでしょ? それに、女の子を危険なとこにいかせて僕だけ残るのはカッコ悪いじゃない。それから……何かあった時に僕はナナオさんを井戸から引き上げる自信がない」
僕は肘をまげて力こぶができないところをナナオさんに見せる。
「ちょっ、そりゃないだろ!」
ナナオさんはふくれて少し笑った。
僕は基本的にはインドア派で力に自信はないし、ナナオさんは僕より身長も高くて健康的だ。まあ、僕も怖いんだけど、ナナオさんを行かせるわけには、いかないよな。絶対何も考えてなさそうだし。
それにしてもこれ、降りるのか。改めて井戸を見下ろすと、ぽっかり闇が口を開けていた。喉からヒクッと変な音が出る。
でも、僕はあきらめて、自分を抑えて準備を進める。桶とロープの結び目をリュックから出した登山ナイフで切り離す。桶は穴が開いていて使ってなさそうだし、水もほとんどないようだから、ロープをもらってもいいよね。
ロープを空にしたリュックに括り付けて井戸の底に落とす。これで、井戸の深さと水の深さがわかる。リュックを引き上げてみると下から2センチくらいの高さでぬれていた。水はほとんどなくて、衝撃の吸収は期待できないか。
井戸から底についたロープの長さはやっぱり10メートルほど。命綱にするには僕が井戸の底から1メートルくらい浮く高さでロープを調節するのがいいのかな。ベルトの下にロープをもやいに巻きつけて、井戸の高さを計算して、近くの太めの木までピンと張り、命綱を括り付ける。
「おお、なんかすげぇな」
「ナナオさん、闇雲に飛び込んだって底まで落ちるだけなんだからね、本当にもう」
ただ、一応ロープは備えだけど、あんまり信用できないから、結局は手足で支えながら少しずつ降りるほうがいい。垂直降下なんてやったことないし。
「じゃぁ、ナナオさん、僕はいってくるけど、何かあっても絶対に井戸の中に入ってこないで。何かあった時は警察を呼んで。山を下りるのは日が出てからにして。わかった?」
「お、おう。わかった」
僕は矢継ぎ早に指示を出す。ダメなことはちゃんといっとかないと、ナナオさんは本能で動くからなぁ。
僕は、覚悟を決めて井戸の淵に座る。懐中電灯とか最低限のものだけポケットにしまう。足をささえるものはなにもない。
どうせ真っ暗だし両手両足がふさがるわけだから、目をつぶって降りても同じだよな……そうしようかな。少しでも、恐怖は抑えたい。
「それじゃ、行ってくるけど、本当に無茶はしないでね? 僕が井戸から出られなくなった時にナナオさんに何かあったら、だれも助けにこれないから」
「わかった」
ナナオさんは神妙な顔で返事する。
何故降りる僕のほうが注意をしているのだろう?
「貞代とかでないように祈ってる」
本当に一言多いな……。
僕はあきらめて、目をつぶって井戸を降り始めた。
井戸の中はひんやりと涼しく、手足を支える石壁はとても冷たい。
一歩一歩、手足をひとつずつ、交互に20センチほどずつ下げていく。時々背中と足で踏ん張って手を休める。少しずつ遠くなっていくナナオさんの励ましの声だけが頼り。たまに変なこと言ってるけど。
どのくらいの時間がたったか、石の冷たさと筋肉の緊張で、手足の感覚がすっかりなくなったころ、ようやく腰に張られたロープがピンと引っ張られる感覚がした。僕はポケットにいれていた小さな石ころを取り出して下に落とす。すぐ近くでピチャンと水音がする。いつのまにか井戸の底についていたようだ。
僕は腰のロープをほどいて少しの距離を飛び降りてパシャっと着地する。先ほどのところのつま先から井戸の底までは、どうやら30センチほどしかなかったようだ。ロープの伸びを計算にいれてなかったかも、やばかったな。
僕は上を見上げる。この井戸は屋根があるから、月や星の光も見えなかった。上も下も真っ暗闇で、なんとなくどっちが上なのかよくわからなくなってくる。
僕はポケットから懐中電灯を取り出して、ナナオさんを呼びながら上に向けて振った。
上にチカリと携帯の光が見えた。結構小さい。なんだか、星みたいだ。10メートルくらいでも、遠いものなんだな。なんだか少し、違う世界に来てしまったような、不思議な感じがした。
足が地面についている安心感からか、井戸の中は上から見下ろした時のような吸い込まれるような恐怖は少し薄れていた。むしろ、神社と同じような、神聖な感じがした。
床に懐中電灯を向けると、薄く流れる水に光が反射し、ぼんやりと僕の足を浮かび上がらせた。
懐中電灯を左右にふると、一つの方向に1.5メートルくらいの高さの横穴があった。
「ナナオさん、横穴があった。ちょっといってくる。僕が返ってこなかったら、さっき言った通り警察を呼ぶか、朝になってから下山して!」
「わかった!」
大きな声で叫ぶと、上から小さな返事がした。僕の隣では井戸の上からロープがたれているのだろうけど、真っ暗でよくみえない。なんとなく、蜘蛛の糸のカンダタを思い浮かべた。
次話【井戸の底の星空】
井戸は板でふさがれた上に網がかけられていて、人が落ちないようになっている。でもとくに鎖とか鍵で止められているわけではなくて、簡単に取り外せた。山の上のほうだからわざわざ子供が遊びに来たりしないし、入ろうと思う人もいなさそうだ。案外警備はゆるいのかもしれない。
井戸は神社の中でも手水舎の裏手、森の近く、ようするにこの神社内のどこよりも真っ暗なところにあった。そして、のぞき込んだ井戸の中はさらに暗く、吸い込まれるような闇が広がり、底を見ているだけでどこまでも落ちていくような気分になれた。奈落、という言葉が頭をよぎる。見ているだけで平衡感覚が狂う。
ようするに、ものすごく、怖い。これはおばけが怖いとかそういう怖さと全く違って、純粋に命の危険を感じる恐怖。見てるだけで全身が震える。井戸の底から、冷たい風が手を伸ばしてきているように感じる。
「ナナオさん、あの、本当にここに入られるんでしょうか?」
なんか変な敬語が出る。なんていうか、ここに入る選択肢はありえないのではないでしょうか。
ナナオさんは平然として、つるべを結ぶロープをギュッギュッと確かめながら、何いってんの、っていう顔で僕を見る。
井戸の直径は80センチメートルぐらい、ギリギリ一人は入れるくらいだろうか。なんていうか、桶の滑車が設置された屋根がなければリソグで貞代が出てくる井戸にそっくり。嫌なことを考えてしまう。
「大丈夫だって、私が入るからボッチーは上で見張ってて」
「いやいやいや、そういうわけにはいかないでしょ!」
「いや、だって、どっちか上で待ってないと何かあった時こまるじゃん?」
まあそうだけど。そうだけど!
僕がここに残って女の子に井戸に特攻させるわけにはいかないじゃないか。さすがに。
「ちょっと冷静に考えようよ、どのくらい深さがあるかわからないし」
ナナオさんはその辺の石をつかんで、おもむろにポイと井戸に投げ入れる。
すぐにピチャっという音とカツンという音がした。あれ、あまり深くないのかな。
でも確か、垂直落下の場合は1秒で5メートル、2秒で20メートルくらいだった気がする。
10メートルちょっとくらいはありそう……。ひゅうと井戸から風が吹く。
ナナオさんがつかんでるロープも古びているし、そんなに丈夫そうでもないよね。
「そんな深くなさそうだし、大丈夫じゃない?」
ナナオさんの楽観はどこから来るんだろうか?
考えているうちに、ナナオさんは、よっ、という掛け声とともに気楽に井戸の淵に足をかけたので、僕はあわててナナオさんに抱き着き、井戸から引きはがして、井戸のそばに倒れ込む。
「おおっ!? ボッチー積極的だな」
「……ナナオさんさぁ、ほんとは怖いんでしょう?」
ナナオさんに抱きついた時にわかった。ナナオさんの膝はカクカク震えていた。やっぱり強がってる。混乱してるのかもしれない。
「……そんなに無理しなくてもいいんじゃないかな。僕らには無理だと思う」
「でもさぁ。……やっぱりかわいそうだよ。なんとなくさ、できるところまではやってあげたい」
ナナオさんはカクカク震えて井戸のそばにへたり込みながらもまだつるべのロープを握りしめていた。この様子だと、ナナオさんが無事に井戸の底まで降りられるかすらも心配だ。でも、ナナオさんの瞳を見ても、どうやら行かないという選択肢はないらしい。
僕は、ハァ、と小さくため息をつき、ナナオさんの持つロープを奪う。ささくれて、ざらざらした感触をきゅっと握りしめる。
「僕がいくよ」
「や、私がいくよ、なんとかしたいのは私だからさ」
ナナオさんは焦って両手を伸ばして僕からロープを取り上げようとするけど、僕はさらに手を伸ばしてロープを遠くに押しやる。
「そんなこと言って本当は怖いんでしょ? それに、女の子を危険なとこにいかせて僕だけ残るのはカッコ悪いじゃない。それから……何かあった時に僕はナナオさんを井戸から引き上げる自信がない」
僕は肘をまげて力こぶができないところをナナオさんに見せる。
「ちょっ、そりゃないだろ!」
ナナオさんはふくれて少し笑った。
僕は基本的にはインドア派で力に自信はないし、ナナオさんは僕より身長も高くて健康的だ。まあ、僕も怖いんだけど、ナナオさんを行かせるわけには、いかないよな。絶対何も考えてなさそうだし。
それにしてもこれ、降りるのか。改めて井戸を見下ろすと、ぽっかり闇が口を開けていた。喉からヒクッと変な音が出る。
でも、僕はあきらめて、自分を抑えて準備を進める。桶とロープの結び目をリュックから出した登山ナイフで切り離す。桶は穴が開いていて使ってなさそうだし、水もほとんどないようだから、ロープをもらってもいいよね。
ロープを空にしたリュックに括り付けて井戸の底に落とす。これで、井戸の深さと水の深さがわかる。リュックを引き上げてみると下から2センチくらいの高さでぬれていた。水はほとんどなくて、衝撃の吸収は期待できないか。
井戸から底についたロープの長さはやっぱり10メートルほど。命綱にするには僕が井戸の底から1メートルくらい浮く高さでロープを調節するのがいいのかな。ベルトの下にロープをもやいに巻きつけて、井戸の高さを計算して、近くの太めの木までピンと張り、命綱を括り付ける。
「おお、なんかすげぇな」
「ナナオさん、闇雲に飛び込んだって底まで落ちるだけなんだからね、本当にもう」
ただ、一応ロープは備えだけど、あんまり信用できないから、結局は手足で支えながら少しずつ降りるほうがいい。垂直降下なんてやったことないし。
「じゃぁ、ナナオさん、僕はいってくるけど、何かあっても絶対に井戸の中に入ってこないで。何かあった時は警察を呼んで。山を下りるのは日が出てからにして。わかった?」
「お、おう。わかった」
僕は矢継ぎ早に指示を出す。ダメなことはちゃんといっとかないと、ナナオさんは本能で動くからなぁ。
僕は、覚悟を決めて井戸の淵に座る。懐中電灯とか最低限のものだけポケットにしまう。足をささえるものはなにもない。
どうせ真っ暗だし両手両足がふさがるわけだから、目をつぶって降りても同じだよな……そうしようかな。少しでも、恐怖は抑えたい。
「それじゃ、行ってくるけど、本当に無茶はしないでね? 僕が井戸から出られなくなった時にナナオさんに何かあったら、だれも助けにこれないから」
「わかった」
ナナオさんは神妙な顔で返事する。
何故降りる僕のほうが注意をしているのだろう?
「貞代とかでないように祈ってる」
本当に一言多いな……。
僕はあきらめて、目をつぶって井戸を降り始めた。
井戸の中はひんやりと涼しく、手足を支える石壁はとても冷たい。
一歩一歩、手足をひとつずつ、交互に20センチほどずつ下げていく。時々背中と足で踏ん張って手を休める。少しずつ遠くなっていくナナオさんの励ましの声だけが頼り。たまに変なこと言ってるけど。
どのくらいの時間がたったか、石の冷たさと筋肉の緊張で、手足の感覚がすっかりなくなったころ、ようやく腰に張られたロープがピンと引っ張られる感覚がした。僕はポケットにいれていた小さな石ころを取り出して下に落とす。すぐ近くでピチャンと水音がする。いつのまにか井戸の底についていたようだ。
僕は腰のロープをほどいて少しの距離を飛び降りてパシャっと着地する。先ほどのところのつま先から井戸の底までは、どうやら30センチほどしかなかったようだ。ロープの伸びを計算にいれてなかったかも、やばかったな。
僕は上を見上げる。この井戸は屋根があるから、月や星の光も見えなかった。上も下も真っ暗闇で、なんとなくどっちが上なのかよくわからなくなってくる。
僕はポケットから懐中電灯を取り出して、ナナオさんを呼びながら上に向けて振った。
上にチカリと携帯の光が見えた。結構小さい。なんだか、星みたいだ。10メートルくらいでも、遠いものなんだな。なんだか少し、違う世界に来てしまったような、不思議な感じがした。
足が地面についている安心感からか、井戸の中は上から見下ろした時のような吸い込まれるような恐怖は少し薄れていた。むしろ、神社と同じような、神聖な感じがした。
床に懐中電灯を向けると、薄く流れる水に光が反射し、ぼんやりと僕の足を浮かび上がらせた。
懐中電灯を左右にふると、一つの方向に1.5メートルくらいの高さの横穴があった。
「ナナオさん、横穴があった。ちょっといってくる。僕が返ってこなかったら、さっき言った通り警察を呼ぶか、朝になってから下山して!」
「わかった!」
大きな声で叫ぶと、上から小さな返事がした。僕の隣では井戸の上からロープがたれているのだろうけど、真っ暗でよくみえない。なんとなく、蜘蛛の糸のカンダタを思い浮かべた。
次話【井戸の底の星空】