第43話 奇妙な環形動物
文字数 4,583文字
翌朝。うっすらと窓から差し込む朝日で目を覚ます。
晴れた。今日は体育祭だ。本当に面倒くさいな。
そう思ったところで、枕の感触がおかしいと思い、チラリと目線を下げてベッドから飛び退き、少し震える手で急いで顔や頭に触って確認する。
枕があったはずの場所には紺色の縮緬に包まれてぶよぶよしているアイがいた。
異常は……ないよな。
いつも通り不機嫌そうな顔が鏡の中にいた。
もう一度顔や頭に異常がないか慎重に確認する。
湧き出た汗で髪がべたりと皮膚に張り付く。心臓と胃が直結したような重さ。全身にあふれた汗からすえた嫌な匂いがする。
本当に大丈夫……だよな?
「アイちゃん? 寝ている間に俺に何かしたか?」
アイは触手を伸ばしたので、充電が完了したパッドを渡す。
『してない』
アイは触手をふよふよと引っ込め、また動かなくなる。
大丈夫なんだろうか? 大丈夫だよな? めまいがする頭を左右にふる。主観的には体に異常はない、今しがた受けた強いストレスと心拍数の急激な上昇を除いて。
昨日の夜はどうしたんだったか。確かアイを机の上に置いて寝た記憶はある。夜中に寄ってきたのを枕にしたのか? わからない。何かが既になされてしまっているのならば……もはや考えても無駄なのか?
「ハルくん、あけてー」
今日もかよ。痛む頭に高音が響く。思わず舌打ちが漏れる。舌打ちは最近常態化している悪い癖だ。よくないな。直さなくては。時計を見ると6時少し前。
かわりにため息を1つ。俺は諦めて扉を開けると、パジャマ姿のアンリが勝手にすたすたドアをくぐる。今日は外を徘徊していたわけでもなさそうだ。
「アイちゃん元気かなと思って」
ふんふん、とか、そうなの? とか、よかったねぇ、とか会話をしているようだ。
目覚ましがジリリと鳴る。そういえば、体育祭の弁当を作る約束だったな。……ここにいたくない。嫌な予兆がしないことがかえって不安をかき立てる。
アンリにあとを任せて部屋を出た。前日に寮の料理人に許可を取った通り厨房のはしを借り、何品か作っているとようやく頭が落ち着いてきた。
最近自分の精神状態がすこぶる悪い。どこかでリセットする必要があるが、アイがいてはままならない。糞、ストレス過多すきるだろ。よくわからないものが常に自分の部屋にいる。そしてだいたいの不幸は俺によってくる。チッ。
弁当を詰めて部屋に戻るとアンリはいなくなっていて、アイがベッドの上でじっとしていた。
触手が伸びてパッドを示すので、仕方なく電源を入れる。
『ごはん、ほしい』
そういえば、アイはなにも食べていなかったな。少し、冷静になる。
やはりこいつはただの生き物なのか。単なる生き物であれば、呪いとか、不可視の影響を引き起こす可能性は、少ないのかもしれない。
物理的な影響しか与えないと考えれば、アイがここにいることに利益を感じているとするならば、関係性が安定している限り安全なのだろうか?
深呼吸をする。アンリはわかりやすく俺に不利益になるようなものは持ち込んでこないだろう。それに既に俺が何かされ終わっているとすれば、今更考えても仕方がない、のか。それならば適応を急いだほうが前向きだ。あきらめて頭を切り替えるよう努める。
「お前、なにを食べるんだ?」
『ごはんとおみず』
コップいっぱいの水と、ストックの煎餅を出して1枚与える。
アイは触手で受け取る。ぶよぶよの皮の表面に、固めのゼリーを二つに割ったときのような亀裂ができて、そこにべろんと煎餅が飲み込まれた。聞くと、どうやら今のところ1枚で1日分の栄養は摂取できるらしい。少食だな。動かないから必要エネルギーが少ないのかな。生態は、やはり物理的な生物のようにも思える。無理やり頭を納得させる。
昨日同様、俺は考えるのを放棄して、夜には帰ると伝えて部屋を出た。
雨の翌日の体育祭は、ぬかるんだ校庭ではなく体育館で行われた。窓や扉が解放されているとはいえ、昨日までの雨の影響で湿度は高く、息苦しい。汗、ゴム、マットのほこり、独特の少し不快な匂いが混じり合って屋内にこもる。
そんな中でも体育祭はつつがなく終了した。
俺は得点係で、不幸な俺には珍しく、特に問題もなく役目を終えた。
昼休憩時、アンリと弁当を広げていると、昨日ほどではないが元気のない東矢があらわれた。東矢も学校の怪談のようなものにつきまとわれていると聞いている。
「東矢、昨日よりマシだがまだ顔色が悪いぞ?」
「うん、でも一応目処は立ったから、今日中にはなんとかなりそう」
こいつの『何とかなりそう』は、最悪は回避できそう、という意味に近い。積極的な付き合いはまだ1ヶ月ほどだが、最近なんとなく東矢の傾向が見えて来た。
こいつは楽観的な破滅主義者にしか思えない。ついこの間も無関係なことに首を突っ込んだあげくに死にかけた。しかもかなりヤバ目の死に方が高確率で予想された。
頭が悪いとまでは思わないが、いろいろな物事の区別がついていない気がする。ほっとくと、適当な理由で適当に死んでしまいそうだ。それなら、つなぎ止めて利用したい。東矢はいろいろな意味で役に立つ。
「東矢、そっちが片付いた後でいいんだが、ひょっとしたら、相談するかもしれない。その時は話を聞いてもらえると嬉しい。面倒をかけるかもしれないがすまない」
「いつでもなんでも言って! 今日の夜以降は大丈夫だから、遠慮しないでね」
東矢は屈託なくほほえむ。
アンリもアンリでおかしいが、こいつもこいつでおかしい。いや、なんだろうな、どちらかというとバランスをとるのが恐ろしく苦手なタイプなんだろう。
「ほんと悪いな、多分相談すると思う。……もっと食え」
飯を食わせるだけで、命をかけてくれそうな気すらする。小さな利益を与え続ける限り、俺の害にはならない。
俺はなんでこういう考え方しかできないんだろうな。少し、嫌な気分になる。
放課後、東矢は校舎に向かった。目処を果たしに行くのだろうか。そちらも気になるが、目下こちらも不確定事項が待ち受けている。ままならないな。
体育祭で疲れた体をおして自室の扉を開け、俺は俺をみて固まる。
ベッドの上に、俺が座っていた。なぜか全裸で風呂敷を頭にかぶっている。
一瞬何が起こっているのか真っ白になった頭を復旧させた結果、部屋には俺の真似をしたいと言っていたやつがいたことを思い出した。
「アイちゃん……か?」
全裸の俺はうなずいた。
急いで服を着せると、当然ながら服はぴったりだった。
アイの俺はまさに俺の生写しだった。額の傷の位置や形状、爪の形、全指の指紋も全く同じに見える。昨日アイが書いたひらがなフォントを思い出す。コピペしたように瓜二つだった。
だが、完璧な模倣に思えるその姿も、なんとなく、何かが欠けているような気がした。機械は完全な模倣は得意だが、ファジィなゆらぎは苦手だと聞く。何が違うのかの言語化は難しいが。
そして、予想以上の不快感。自分を客観的にみるというのは、考えていたよりはるかに強い違和感を俺にもたらした。極めて、気持ち悪い。なんだ、これ、普通こんなに気持ち悪いものなのか?
アイは何をするでもなく、ベッドの上にぼんやり座っている。
「うまく真似たようだが、これからどうするんだ?」
『まんぞく』
俺と全く同じ指でパッドをたたく。
客観的に見る自分の姿には生理的な嫌悪しか感じられず、背中に嫌な汗が流れる。思わず口元に手を当てる。早く頭を切り替えなくては。
努めて冷静に考える。……やはり目的がまるでわからないな。
姿を真似ただけで何か行動しようとしているわけではない。真似ること自体が目的の、本能的なものなのだろうか。
「しゃべれないのか?」
そんなに似ているのに。
アイはおもむろに口を開ける。その口内は犬歯より前の歯以外は肉色の空洞で、舌も気道に至るつながりもなかった。3Dプリンタでデータがない部分が再現されないのと同じだろうか。呼吸ができないと声は出ないよな。
『くちのなかをみせて』
……つまりスキャンしたいのか。ひょっとしたら今朝も外形をスキャンされていたのだろうか。
「断る。危険は侵せない」
『さわらない みえるはんいでいい まねしたい』
そういえば、触ることは禁じたが見ることは禁じなかったことに気づく。
働かない頭で……リスクを天秤にかける。
せっかく安全を確保したのに、こちらで条件を追加して、後からアイに追加の対価を迫られるのはまずい。触れないのであれば、リスクの少ない方法を提示するべき。
「どうやって見るんだ? 指を突っ込むとかは断る。空気が流れないと死ぬ」
アイは俺の左手部分の擬態を解除し、その先端が細い何本もの触手に分かれた。自分の姿の一部が崩壊するのを見るのも心臓に悪いが、ばらけた部分は俺の姿より安心できた。……普通逆じゃないのかな。何かがおかしい気がする。
触手は医療用ファイバースコープのような、1ミリ前後の細さの管になる。なるほどこれなら窒息の恐れは少なそうだ。
退路は断たれた気はするが、首筋に不幸の予兆は未だない。
しぶしぶ口を開けるとスコープは口中に滑り込む。接触はないが、異物が歯の裏を往復し、喉の奥を通過するひんやりした冷気が気持ち悪い。
下手に口を閉じることができないことに思い至る。口を開きっぱなしにするのは案外苦しい。咬筋にしびれと鈍い痛みが走る。ああ、嫌なことを思い出したな。俺の記憶の中は嫌なことばかりだ。また、胃の腑が重くなる。
『なにかはなして』
「しゃべり、づらい」
『もっと』
「ものすごく、ねむい、……あ、い、う、え、お?」
「しゃべり、づらい。あー、うー、大丈夫、そう」
苦労の甲斐があったのか、発声練習の後、スキャンは完了した。無駄な息苦しさは報われた。だるさを感じながら唾液を拭う。
アイの口をのぞくと、今度はきちんと奥歯や咽頭、口蓋のシワや舌苔まで再現されていた。
人間の口の中というのは改めて見るとやはりなんだか気持ち悪いな。自分と同じ姿というのも拍車をかけているんだろう。
これでアイは目的に1つ近づいたのだろうか。
「ハルくん、ありがとう」
そう言ってアイはまたベッドの上に座って動かなくなった。自分の声は想像していたより低く、やはり違和感はあったが、自分の感じる声と違う声であることに、少し安心できた。客観的には同じ声に聞こえるのだろうけど。
それにしても自分を見るのは嫌なものだな。俺は俺が好きじゃないことを改めて実感する。まるで不運が実体化でもしたような、そんな気すらする。
妙に疲れるし混乱する。
「アイちゃん、目的は完遂したのか?」
「まだ」
「なにが足りない?」
「わからない」
また、わからない、だ。この狂った生活はいつまで続くのだろう。
だがこいつを俺の姿で部屋の外に出すのはごめんこうむる。せめて。
「俺以外の姿ではだめなのか? アンリ以外で。構造はおおよそ同じだが」
「他のひとを見ればできるかも」
少し考えて思いいたる。外見データが必要なのか。単にスキャンするだけなら、動画であればなんとかなるかもしれない。
動画サイトを開いてたまたま目についた『雨に唄えば』を流す。
軽快な音楽が流れはじめた。
「ありがとう」
この部屋にいるのは苦しい。ここにいたくない。
俺がもう1人いる、ことに対する強烈な違和感と拒否感。
東矢の部屋にでも逃げこむか。
なんでも相談して、といっていたしな。
なんかもう、限界だ。
晴れた。今日は体育祭だ。本当に面倒くさいな。
そう思ったところで、枕の感触がおかしいと思い、チラリと目線を下げてベッドから飛び退き、少し震える手で急いで顔や頭に触って確認する。
枕があったはずの場所には紺色の縮緬に包まれてぶよぶよしているアイがいた。
異常は……ないよな。
いつも通り不機嫌そうな顔が鏡の中にいた。
もう一度顔や頭に異常がないか慎重に確認する。
湧き出た汗で髪がべたりと皮膚に張り付く。心臓と胃が直結したような重さ。全身にあふれた汗からすえた嫌な匂いがする。
本当に大丈夫……だよな?
「アイちゃん? 寝ている間に俺に何かしたか?」
アイは触手を伸ばしたので、充電が完了したパッドを渡す。
『してない』
アイは触手をふよふよと引っ込め、また動かなくなる。
大丈夫なんだろうか? 大丈夫だよな? めまいがする頭を左右にふる。主観的には体に異常はない、今しがた受けた強いストレスと心拍数の急激な上昇を除いて。
昨日の夜はどうしたんだったか。確かアイを机の上に置いて寝た記憶はある。夜中に寄ってきたのを枕にしたのか? わからない。何かが既になされてしまっているのならば……もはや考えても無駄なのか?
「ハルくん、あけてー」
今日もかよ。痛む頭に高音が響く。思わず舌打ちが漏れる。舌打ちは最近常態化している悪い癖だ。よくないな。直さなくては。時計を見ると6時少し前。
かわりにため息を1つ。俺は諦めて扉を開けると、パジャマ姿のアンリが勝手にすたすたドアをくぐる。今日は外を徘徊していたわけでもなさそうだ。
「アイちゃん元気かなと思って」
ふんふん、とか、そうなの? とか、よかったねぇ、とか会話をしているようだ。
目覚ましがジリリと鳴る。そういえば、体育祭の弁当を作る約束だったな。……ここにいたくない。嫌な予兆がしないことがかえって不安をかき立てる。
アンリにあとを任せて部屋を出た。前日に寮の料理人に許可を取った通り厨房のはしを借り、何品か作っているとようやく頭が落ち着いてきた。
最近自分の精神状態がすこぶる悪い。どこかでリセットする必要があるが、アイがいてはままならない。糞、ストレス過多すきるだろ。よくわからないものが常に自分の部屋にいる。そしてだいたいの不幸は俺によってくる。チッ。
弁当を詰めて部屋に戻るとアンリはいなくなっていて、アイがベッドの上でじっとしていた。
触手が伸びてパッドを示すので、仕方なく電源を入れる。
『ごはん、ほしい』
そういえば、アイはなにも食べていなかったな。少し、冷静になる。
やはりこいつはただの生き物なのか。単なる生き物であれば、呪いとか、不可視の影響を引き起こす可能性は、少ないのかもしれない。
物理的な影響しか与えないと考えれば、アイがここにいることに利益を感じているとするならば、関係性が安定している限り安全なのだろうか?
深呼吸をする。アンリはわかりやすく俺に不利益になるようなものは持ち込んでこないだろう。それに既に俺が何かされ終わっているとすれば、今更考えても仕方がない、のか。それならば適応を急いだほうが前向きだ。あきらめて頭を切り替えるよう努める。
「お前、なにを食べるんだ?」
『ごはんとおみず』
コップいっぱいの水と、ストックの煎餅を出して1枚与える。
アイは触手で受け取る。ぶよぶよの皮の表面に、固めのゼリーを二つに割ったときのような亀裂ができて、そこにべろんと煎餅が飲み込まれた。聞くと、どうやら今のところ1枚で1日分の栄養は摂取できるらしい。少食だな。動かないから必要エネルギーが少ないのかな。生態は、やはり物理的な生物のようにも思える。無理やり頭を納得させる。
昨日同様、俺は考えるのを放棄して、夜には帰ると伝えて部屋を出た。
雨の翌日の体育祭は、ぬかるんだ校庭ではなく体育館で行われた。窓や扉が解放されているとはいえ、昨日までの雨の影響で湿度は高く、息苦しい。汗、ゴム、マットのほこり、独特の少し不快な匂いが混じり合って屋内にこもる。
そんな中でも体育祭はつつがなく終了した。
俺は得点係で、不幸な俺には珍しく、特に問題もなく役目を終えた。
昼休憩時、アンリと弁当を広げていると、昨日ほどではないが元気のない東矢があらわれた。東矢も学校の怪談のようなものにつきまとわれていると聞いている。
「東矢、昨日よりマシだがまだ顔色が悪いぞ?」
「うん、でも一応目処は立ったから、今日中にはなんとかなりそう」
こいつの『何とかなりそう』は、最悪は回避できそう、という意味に近い。積極的な付き合いはまだ1ヶ月ほどだが、最近なんとなく東矢の傾向が見えて来た。
こいつは楽観的な破滅主義者にしか思えない。ついこの間も無関係なことに首を突っ込んだあげくに死にかけた。しかもかなりヤバ目の死に方が高確率で予想された。
頭が悪いとまでは思わないが、いろいろな物事の区別がついていない気がする。ほっとくと、適当な理由で適当に死んでしまいそうだ。それなら、つなぎ止めて利用したい。東矢はいろいろな意味で役に立つ。
「東矢、そっちが片付いた後でいいんだが、ひょっとしたら、相談するかもしれない。その時は話を聞いてもらえると嬉しい。面倒をかけるかもしれないがすまない」
「いつでもなんでも言って! 今日の夜以降は大丈夫だから、遠慮しないでね」
東矢は屈託なくほほえむ。
アンリもアンリでおかしいが、こいつもこいつでおかしい。いや、なんだろうな、どちらかというとバランスをとるのが恐ろしく苦手なタイプなんだろう。
「ほんと悪いな、多分相談すると思う。……もっと食え」
飯を食わせるだけで、命をかけてくれそうな気すらする。小さな利益を与え続ける限り、俺の害にはならない。
俺はなんでこういう考え方しかできないんだろうな。少し、嫌な気分になる。
放課後、東矢は校舎に向かった。目処を果たしに行くのだろうか。そちらも気になるが、目下こちらも不確定事項が待ち受けている。ままならないな。
体育祭で疲れた体をおして自室の扉を開け、俺は俺をみて固まる。
ベッドの上に、俺が座っていた。なぜか全裸で風呂敷を頭にかぶっている。
一瞬何が起こっているのか真っ白になった頭を復旧させた結果、部屋には俺の真似をしたいと言っていたやつがいたことを思い出した。
「アイちゃん……か?」
全裸の俺はうなずいた。
急いで服を着せると、当然ながら服はぴったりだった。
アイの俺はまさに俺の生写しだった。額の傷の位置や形状、爪の形、全指の指紋も全く同じに見える。昨日アイが書いたひらがなフォントを思い出す。コピペしたように瓜二つだった。
だが、完璧な模倣に思えるその姿も、なんとなく、何かが欠けているような気がした。機械は完全な模倣は得意だが、ファジィなゆらぎは苦手だと聞く。何が違うのかの言語化は難しいが。
そして、予想以上の不快感。自分を客観的にみるというのは、考えていたよりはるかに強い違和感を俺にもたらした。極めて、気持ち悪い。なんだ、これ、普通こんなに気持ち悪いものなのか?
アイは何をするでもなく、ベッドの上にぼんやり座っている。
「うまく真似たようだが、これからどうするんだ?」
『まんぞく』
俺と全く同じ指でパッドをたたく。
客観的に見る自分の姿には生理的な嫌悪しか感じられず、背中に嫌な汗が流れる。思わず口元に手を当てる。早く頭を切り替えなくては。
努めて冷静に考える。……やはり目的がまるでわからないな。
姿を真似ただけで何か行動しようとしているわけではない。真似ること自体が目的の、本能的なものなのだろうか。
「しゃべれないのか?」
そんなに似ているのに。
アイはおもむろに口を開ける。その口内は犬歯より前の歯以外は肉色の空洞で、舌も気道に至るつながりもなかった。3Dプリンタでデータがない部分が再現されないのと同じだろうか。呼吸ができないと声は出ないよな。
『くちのなかをみせて』
……つまりスキャンしたいのか。ひょっとしたら今朝も外形をスキャンされていたのだろうか。
「断る。危険は侵せない」
『さわらない みえるはんいでいい まねしたい』
そういえば、触ることは禁じたが見ることは禁じなかったことに気づく。
働かない頭で……リスクを天秤にかける。
せっかく安全を確保したのに、こちらで条件を追加して、後からアイに追加の対価を迫られるのはまずい。触れないのであれば、リスクの少ない方法を提示するべき。
「どうやって見るんだ? 指を突っ込むとかは断る。空気が流れないと死ぬ」
アイは俺の左手部分の擬態を解除し、その先端が細い何本もの触手に分かれた。自分の姿の一部が崩壊するのを見るのも心臓に悪いが、ばらけた部分は俺の姿より安心できた。……普通逆じゃないのかな。何かがおかしい気がする。
触手は医療用ファイバースコープのような、1ミリ前後の細さの管になる。なるほどこれなら窒息の恐れは少なそうだ。
退路は断たれた気はするが、首筋に不幸の予兆は未だない。
しぶしぶ口を開けるとスコープは口中に滑り込む。接触はないが、異物が歯の裏を往復し、喉の奥を通過するひんやりした冷気が気持ち悪い。
下手に口を閉じることができないことに思い至る。口を開きっぱなしにするのは案外苦しい。咬筋にしびれと鈍い痛みが走る。ああ、嫌なことを思い出したな。俺の記憶の中は嫌なことばかりだ。また、胃の腑が重くなる。
『なにかはなして』
「しゃべり、づらい」
『もっと』
「ものすごく、ねむい、……あ、い、う、え、お?」
「しゃべり、づらい。あー、うー、大丈夫、そう」
苦労の甲斐があったのか、発声練習の後、スキャンは完了した。無駄な息苦しさは報われた。だるさを感じながら唾液を拭う。
アイの口をのぞくと、今度はきちんと奥歯や咽頭、口蓋のシワや舌苔まで再現されていた。
人間の口の中というのは改めて見るとやはりなんだか気持ち悪いな。自分と同じ姿というのも拍車をかけているんだろう。
これでアイは目的に1つ近づいたのだろうか。
「ハルくん、ありがとう」
そう言ってアイはまたベッドの上に座って動かなくなった。自分の声は想像していたより低く、やはり違和感はあったが、自分の感じる声と違う声であることに、少し安心できた。客観的には同じ声に聞こえるのだろうけど。
それにしても自分を見るのは嫌なものだな。俺は俺が好きじゃないことを改めて実感する。まるで不運が実体化でもしたような、そんな気すらする。
妙に疲れるし混乱する。
「アイちゃん、目的は完遂したのか?」
「まだ」
「なにが足りない?」
「わからない」
また、わからない、だ。この狂った生活はいつまで続くのだろう。
だがこいつを俺の姿で部屋の外に出すのはごめんこうむる。せめて。
「俺以外の姿ではだめなのか? アンリ以外で。構造はおおよそ同じだが」
「他のひとを見ればできるかも」
少し考えて思いいたる。外見データが必要なのか。単にスキャンするだけなら、動画であればなんとかなるかもしれない。
動画サイトを開いてたまたま目についた『雨に唄えば』を流す。
軽快な音楽が流れはじめた。
「ありがとう」
この部屋にいるのは苦しい。ここにいたくない。
俺がもう1人いる、ことに対する強烈な違和感と拒否感。
東矢の部屋にでも逃げこむか。
なんでも相談して、といっていたしな。
なんかもう、限界だ。