第51話 あなたの記憶
文字数 6,043文字
6月ももう最終週、、激しい雨と晴れ渡る日が交互に続くようになり、梅雨の終わりが近づいてきた。天気予報の梅雨明け予測は来週。
アイさんがいなくなる時期が近づいている。
アイさんは最近はお願いを受け付けていないこともあるようで、日中は藤友君の部屋にいることもあるようだ。
その分なのか、お願いの内容は極端になった。アイさんの希望なのか坂崎さんが選んでいるのか、猫を探してほしいとか比較的穏当なお願いもあったけど、聞いていて正気を疑うようなのも半分くらいあった。
それから僕らと夕方に出かける時、アイさんはなんだかぼんやりしていることが増えた。
ナナオさんは、大丈夫かよ? って心配しているけど、これは多分アイさんがいろいろ自分の中でシミュレートしているからに思える。
だからかな、最近アイさんに少し方向性、というか個性を感じる。その個性は、ナナオさんにも少し似ている気がする。
これまでに出会った人間のデータとネットで拾ったデータから、アイさん自身のあるべき姿を逆算した上で、白紙から新たに現在の自分へとつながる時間をシミュレートする。アイさんの中に膨大に備蓄されたデータを再計算して、人間の姿を構築する。途方もない再帰型ニューラルネットワーク。
アイさんは人間の自分を生み出している最中。リソースはいっぱいいっぱい。
でも、多分足りない。
結局そのシミュレーションで、アイさんは人間のプロトタイプとか、ナナオさんに似たコピーにはなれるかも知れないけど、『アイさん』という『人』には手が届かない。
アイさんに足りないものは、他の人のデータじゃなくてアイさん自身の原体験。アイさんが自分の意思で独自に選んで進む指向性。
一般的な人にとっての方向性ではなくて、アイさん独自のもの。
ここは正直、期待できるきっかけがない。
坂崎さんは無理だろうし、藤友君も不干渉。僕もナナオさんもお友達枠。そもそもアイさんに影響を与えられる人なんているんだろうか?
◇
畜生。なにがどうなってんだ、全然わかんねぇ。
町は1こを除いで全然変わってねぇように見える。
マサヒコさんがいないこと以外。
アイちゃんとかいうあのふざけた女はマサヒコさんを殺したって言いやがった。
なんで殺したのか聞いたらわけわかんねェことをほざいた。
殺すのが普通? ぶっ壊れてやがる。
マサヒコさん、なんであんなのに殺されちまったんだ。
ぽたぽたと雨の波紋が広がる水たまりに足を突っ込み、裾がぬれる。
うわっ糞ッ ついてねェ。
落ちていた空き缶を蹴飛ばすと、水たまりにおちていたしぶきがかかった。
ジンさんがマサヒコさんを殺るように言ったのか?
まさか? なんで?
ジンさんはマサヒコさんと仲は良かったよな。俺も飲みに連れて行ってもらった。
でもあの顔はジンさんの顔だった。
まじでわかんねェ。畜生ッ!
「おいタツ、聞ぃてんのかコラ?」
イテッ。
タイの兄貴のゲンコツが降る。
「兄貴、いきなり殴るのやめてくださいよ」
「あ? いきなりじゃねえぞコラ」
またゲンコツが降る。
だから痛いって。
「ほんとやめてくださいよ、すんません、ぼんやりしてました」
俺はタイの兄貴と集金にでてるところだった。
タイの兄貴は俺を面倒臭そうにみる。
マサヒコさんとは比べらんねぇけど、タイの兄貴もいい人だ。舎弟にも慕われてる。ちょっと乱暴だけどな。
「なんだよ、まだ悩んでんだな、ジンさんがいってたじゃねぇか、マサの仇はちゃんと打ったって」
その、ジンさんが、マサヒコさんを殺したのかもしれない、んだよな。
「俺はマサヒコさんにはずいぶん世話になったんで」
糞。マサヒコさん、なんでッ!?
ジンさんが敵なら、全然敵討ててねぇじゃねえか。
「まあ、マサはいいやつだったしな」
……なんたよ、その『もう全部終わった』みたいな感じ、ふざけんなよ。
……そういやタイの兄貴もマサヒコさんと仲が良かったのにな。なんなんだよ。それでいいのかよ。意味わかんねぇよ。
「あの、兄貴、聞きたいことがあるんですが」
「ああ? なんだ?」
「あの……マサヒコさん、ジンさんとなんかあったんですか?」
「あ゛?」
その瞬間、世界が真っ暗になったみたいな気がした。
何が起こったのかわかんなかった。
タイの兄貴の雰囲気が急に変わった。違う人みてぇになった。
今までの頼れる兄貴は全部吹っ飛んで、隠していた牙を向いたような、そんな獰猛で、怖ぇ、顔。ギロっと俺をにらみつける目に奥歯がガタガタ鳴る。
この人は、タイの兄貴、なの、か?
「てめぇ、なんのことだ」
兄貴の声が1オクターブくらい低くなった。すげぇ深い場所から響いてくるような、そんな凍ったみてぇな声。俺の声は途端に小さくしぼむ。
「イッ……いえ、なんでもない……ッス」
「なんでもねえことねぇだろコラ」
兄貴がドカッと俺の後ろにあった室外機を蹴り、重い室外機がダタタッと小刻みに揺れる。兄貴はそのまま揺れる室外機にゆっくり左足をかけて、大柄な体を折り曲げて俺の鼻にゆっくり息を吹きかける。それから俺の両肩にどっしりと手をかけて至近距離で目をあわせる。
縮みあがるほど、怖ぇ。
「てめぇ、なんか知ってんのか、あぁ?」
「知りませんッ! なっ、ななななんなんですか?」
タイの兄貴はそのまま10秒くらい、俺の顔をじっとにらみ据えたあと、不意にフッと口の端っこだけ笑った。
兄貴の手はずしりと重いままで、ギリギリと肩を締め付ける。やべぇ、背中に流れる汗が止まんねぇ。
「誰にも、いうなよ? マサは組織の帳簿の一部を持って消えたんだ、だからジンさんはその帳簿を探してる、お前、ありかは知らないよな?」
「しっ、しし知りませんッ! 俺、下っ端なんでッ!」
何のことだ? 帳簿? なんだそりゃ?
なんでマサヒコさんが? なんで?
タイの兄貴は俺の目をじっとにらみつけてる。怖ぇ。怖すぎる。
「そうだよな? お前は下っ端だ。だから上がやってることはわかんねぇ。マサヒコはお前にはいい奴だったかもしれんが、それだけじゃねぇこともあるんだ、だから、マサヒコの話はこれで終わりだ、いいな」
タイの兄貴は最後に俺をギッとにらみつけてから肩から手を離した。
なんなんだ? マサヒコさんの話はしちゃダメなのか?
まるで本当にマサヒコさんがいなくなったみてぇ、いや、あのアイちゃんが殺したんだよな? 本当に?
マサヒコさんは本当にいなくなっちまったのか? 本当はまだ行方不明なだけじゃねぇのか。
混乱した俺を残して兄貴は歩き出す。
聞くのも……だめなのか?
マサヒコさん……。
◇
俺はまた待ち伏せした。
その日の夕方、新谷坂の長い坂の下で傘をさしながら。
なんか、シャワーみたいなぬるい雨だな。なんとなく、マサヒコさんを思い出す。
しばらく待っていると、トーヤのガキが金髪の背の高めの女と一緒に坂を降りてきた。
「おい、またちょっと話がある。……そっちの女はアイちゃんか?」
「そうです。何かご用でしょうか?」
ご用? にこにこしてて得体がしれねぇ。
「聞きたいことがある。またツラかしちゃくんねえか」
「いいですよ」
すぐ近くのスポーツジムに喫茶店がある。そこに入った。
「今日はカラオケじゃなくていいんですか?」
「……ああ。マサヒコさんは帳簿をもってたか?」
「帳簿、ですか? うーん」
アイちゃんは額に手を当てて思い出すような仕草をする。なんだこいつ、前はロボットみたいだったのになんか変だな。
「ああ、ありました。これですね」
アイちゃんは俺の前で手を握って開くと、USBメモリが現れた。どっからだした?
「これ、どうやって見るんだ?」
「パソコンとかパッドに入れたら見られますけど、パスワードがかかっています。内容が知りたいのでしたら、概略はお伝えできますが」
「……知りてぇ」
アイちゃんが話したことはよくわかんねぇけど、組が手に入れた金と使った金の話だった。何千万とか、信じらんねぇ金額だった。
「これに……マサヒコさんが関係してるっつうのか」
「はい」
「なんでわかんだよ?」
アイちゃんは顎に手を当てて、うーん、と少し考えるそぶりをした。
「私にはマサヒコさんの記憶があります」
「はぁ?」
「私はマサヒコさんを吸収しましたので、亡くなった時点までの記録を取得しています」
「はぁ?」
「そうですね……『おいタツ、俺は外回りしてくるから帰ったら鍵閉めて帰ってろ』……これがあなたとの最後の会話ですよね」
マサ……ヒコさん?
あたりを見回してもマサヒコさんはいない。目の前のアイちゃんから聞こえた気がした。なんで? アイちゃんはマサヒコさんなのか? いや、なんか違う。マサヒコさんはもっとこう。
「あの、こんなふうにマサヒコさんの記憶があります。マサヒコさんはマールムという組織と組んであなたの組織ものを横流ししていました。それがこの間のジンさんという人にバレたから逃げることにしたんです」
「マサヒコさんはそんな人じゃねぇ」
思わず怒鳴る。
そんな人じゃねぇ、絶対に。
マサヒコさんはいい人だ。
「ええと、タツさん? 大声出すと目立ちますよ」
トーヤのガキの声に周りを見渡すと、ザワザワとみんなこっちをみていた。
「わっ、悪かった、思わず、すまない」
「おそらくですが、あなたの認識しているマサヒコさんと実際のマサヒコさんの人格にズレがあります」
「なんだって?」
「知りたいのでしたらお見せできますが」
俺のニンシキ? 実際と違う?
どういうことだ? わかんねぇ。
「そうですね、東矢、携帯を貸して?」
アイちゃんはガキの出した携帯を手で包む。よく見ればメモリを挿すとこに溶けたアイちゃんの指が刺さっている。気持ち悪ぃ。やっぱ人間じゃねぇな。
ザッ ザザッー
携帯の画面がゆれてぼんやりとどこかの部屋が映し出される。
事務所の休憩室のようだ。
「ああっ使えねー、なんであんな使えねぇんだよ、ブツ届けるくらいまともにやれってんだよな?」
「そう怒んな、マサ」
画面の正面にタイの兄貴が現れて椅子に座る。
画面は机の上のコーヒー、タイの兄貴、入口の扉とゆらゆら動いて少し気持ち悪ぃ。
「ったく冗談じゃねぇよ、誰が拾ってやったと思ってんだよ」
この声はマサヒコさんだ。でもマサヒコさんか? マサヒコさんのこんなイライラしてる声は聞いたことがねぇ。
画面の前の机が跳ね上がってコーヒーが盛大に床にこぼれる。
「最初はそんなもんだわ、そのうち使えるようになんだろ」
「いいやッ! あいつは無理だな、せいぜい捨て駒くらいだろ」
ステゴマ……?
「そんなに面倒なら俺が受け持つよ?」
チッ という舌打ちがきこえる。
画面にタバコを持つ手が現れる。この指輪はマサヒコさんのだ。
「るせぇ、今しつけてんだよ」
「お前、ほんとに外面と中身が違うよな」
タイの兄貴もタバコに火をつける。
「ところでマサ、最近裏でヤバいことやってると聞いたが、ジンさん通してんのか?」
「……スパイかよ?」
タイの兄貴の目線がスッと険しくなる。
「まじか。俺はかばわねえぞ」
「ぅるせぇ」
ザザッー
映像が途切れる。
「この後、マサヒコさんは悪事を全部タイゾウさんと今朝の長崎さんのせいにして、この証拠の帳簿をもって逃げました」
ちょっと待て。
そんな、そんな、嘘だろ? 嘘だよ。嘘って言ってくれよ。
今の、なんだ。信じられねぇよ。
今の、マサヒコさんなのか? あんなマサヒコさん、見たことねぇ。
嘘だろ? 嘘って言ってくれよ。
「嘘だよ……。ギゾウとかいうやつだろ?」
「必要でしたら、あなたに直接記憶を渡すこともできますが」
「直接?」
「はい、あなたの脳に」
「アイさんちょっとそれは」
トーヤのガキがアイちゃんを止める。なんかやばいやつなのか?
「ここ半月程度の視覚と聴覚のみであればそれほど負担はありません。どうしますか?」
こいつら、何言ってる?
「それがあれば、マサヒコさんのことがわかるのか?」
「ええ、あなたが最後にマサヒコさんに会った時から半月前までのマサヒコさんの記憶を渡します」
マサヒコさんの記憶……? それがあれば、マサヒコさんに何があったかわかるのか?
「えっとタツさん、他人の記憶を頭の中に入れるのは、かなり危険だと思う」
「なんでだ?」
「イメージだけど、自分の中に他人の記憶が混ざるのって、違和感がすごそう。それに、何かあったら取り返しがつかない」
「そうなんですか?」
「アイさんはたくさんの記憶を持ってるんだろうから一人くらい増えても大丈夫だと考えてるんだろうけど、普通は他の人の記憶なんて持ってないんだよ。少しの記憶だけでも、違和感はひどいと思う。自分が知らない行動を自分の記憶として認識するわけでしょ? 心に支障がでるかもしれない。でも……本当に知りたいなら、他に方法はないんだろうね」
違和感? 変な感じってことか?
俺はマサヒコさんのことが知りたい。
タイの兄貴にも誰も聞けない。アイちゃん以外に聞ける奴がいねぇ。
「……知りたい」
トーヤのガキが心配そうな顔でみているが、俺はマサヒコさんに何があったのか知りてぇ。
アイちゃんの手が俺の耳に伸びて、耳の穴から何かが入ってくる感触があった。
急に目の前が真っ暗になった。映画が始まる直前の映画館みたいだ、とおもったら、頭がガラッとゆれて割れるように痛んだ。
グッ ギアッ
痛み自体は一瞬で消えたが、頭がグワングワンしてなにか生暖かいものが手の甲にポタリと落ちた。殴られた時みてぇにのどの奥に血の味がする。俺の鼻血か? タタタと鼻から流れた血があごを伝う。
「大丈夫ですか?」
ガキがティッシュをさし出した。鼻に詰める。
「記憶はうつりましたか?」
キオク……そうだマサヒコさんの。
そう思った途端、ザワザワという音と一緒に急に知らない景色が俺の中で流れて、ひどい2日酔いをした時みたいに気持ち悪くなって、机に倒れこんだ。飛行機に乗った時みたいに耳がぼやぼやして気持ち悪くて、頭がキーンってする感じにも似てる。
「大丈夫ですか?」
ぐ、ぅ……、ものすごく、気持ち、悪ぃ。げろりそうだ。
頭の中がぐちゃぐちゃして破裂する。
「どこかで休んだ方いいんじゃないですか、顔色が真っ青ですよ」
「家に、帰る」
立ち上がろうとしたが、膝が言うこと聞かねぇ。
頭からすぅと何かがこぼれる感触。
見てる景色と頭の中がズレてやがる。
顎殴られた時みてぇにグラグラする。まじでやべぇ。
汗ばんだ脇の下にそっと手が差し込まれる。
「家まで送りますよ」
「お、おう、悪りぃ」
トーヤか。なんか、マサヒコさんみてぇだな。でも、へなへなだな。
頭の中で、大丈夫かよ、と飲みすぎた俺の背中をさするマサヒコさんの記憶が流れる。
グゥ、げろりそう、だめだ、まじで。気持ち悪ぃ。
「なるほど、難しいものですね。申し訳ないです」
反対側の脇にも腕が差し込まれて引き上げられる。
トーヤよりアイちゃんの手の方が柔らけぇが強引で力強ぇ。こっちはなんだかタイの兄貴っぽい。
結局部屋まで送ってもらった。
狭くて汚ねぇ6畳半のアパートだ。そういや、家に人を入れたのは初めてだな。
今日はもう無理だ、なんも考えらんねぇ。頭痛ぇ。
アイさんがいなくなる時期が近づいている。
アイさんは最近はお願いを受け付けていないこともあるようで、日中は藤友君の部屋にいることもあるようだ。
その分なのか、お願いの内容は極端になった。アイさんの希望なのか坂崎さんが選んでいるのか、猫を探してほしいとか比較的穏当なお願いもあったけど、聞いていて正気を疑うようなのも半分くらいあった。
それから僕らと夕方に出かける時、アイさんはなんだかぼんやりしていることが増えた。
ナナオさんは、大丈夫かよ? って心配しているけど、これは多分アイさんがいろいろ自分の中でシミュレートしているからに思える。
だからかな、最近アイさんに少し方向性、というか個性を感じる。その個性は、ナナオさんにも少し似ている気がする。
これまでに出会った人間のデータとネットで拾ったデータから、アイさん自身のあるべき姿を逆算した上で、白紙から新たに現在の自分へとつながる時間をシミュレートする。アイさんの中に膨大に備蓄されたデータを再計算して、人間の姿を構築する。途方もない再帰型ニューラルネットワーク。
アイさんは人間の自分を生み出している最中。リソースはいっぱいいっぱい。
でも、多分足りない。
結局そのシミュレーションで、アイさんは人間のプロトタイプとか、ナナオさんに似たコピーにはなれるかも知れないけど、『アイさん』という『人』には手が届かない。
アイさんに足りないものは、他の人のデータじゃなくてアイさん自身の原体験。アイさんが自分の意思で独自に選んで進む指向性。
一般的な人にとっての方向性ではなくて、アイさん独自のもの。
ここは正直、期待できるきっかけがない。
坂崎さんは無理だろうし、藤友君も不干渉。僕もナナオさんもお友達枠。そもそもアイさんに影響を与えられる人なんているんだろうか?
◇
畜生。なにがどうなってんだ、全然わかんねぇ。
町は1こを除いで全然変わってねぇように見える。
マサヒコさんがいないこと以外。
アイちゃんとかいうあのふざけた女はマサヒコさんを殺したって言いやがった。
なんで殺したのか聞いたらわけわかんねェことをほざいた。
殺すのが普通? ぶっ壊れてやがる。
マサヒコさん、なんであんなのに殺されちまったんだ。
ぽたぽたと雨の波紋が広がる水たまりに足を突っ込み、裾がぬれる。
うわっ糞ッ ついてねェ。
落ちていた空き缶を蹴飛ばすと、水たまりにおちていたしぶきがかかった。
ジンさんがマサヒコさんを殺るように言ったのか?
まさか? なんで?
ジンさんはマサヒコさんと仲は良かったよな。俺も飲みに連れて行ってもらった。
でもあの顔はジンさんの顔だった。
まじでわかんねェ。畜生ッ!
「おいタツ、聞ぃてんのかコラ?」
イテッ。
タイの兄貴のゲンコツが降る。
「兄貴、いきなり殴るのやめてくださいよ」
「あ? いきなりじゃねえぞコラ」
またゲンコツが降る。
だから痛いって。
「ほんとやめてくださいよ、すんません、ぼんやりしてました」
俺はタイの兄貴と集金にでてるところだった。
タイの兄貴は俺を面倒臭そうにみる。
マサヒコさんとは比べらんねぇけど、タイの兄貴もいい人だ。舎弟にも慕われてる。ちょっと乱暴だけどな。
「なんだよ、まだ悩んでんだな、ジンさんがいってたじゃねぇか、マサの仇はちゃんと打ったって」
その、ジンさんが、マサヒコさんを殺したのかもしれない、んだよな。
「俺はマサヒコさんにはずいぶん世話になったんで」
糞。マサヒコさん、なんでッ!?
ジンさんが敵なら、全然敵討ててねぇじゃねえか。
「まあ、マサはいいやつだったしな」
……なんたよ、その『もう全部終わった』みたいな感じ、ふざけんなよ。
……そういやタイの兄貴もマサヒコさんと仲が良かったのにな。なんなんだよ。それでいいのかよ。意味わかんねぇよ。
「あの、兄貴、聞きたいことがあるんですが」
「ああ? なんだ?」
「あの……マサヒコさん、ジンさんとなんかあったんですか?」
「あ゛?」
その瞬間、世界が真っ暗になったみたいな気がした。
何が起こったのかわかんなかった。
タイの兄貴の雰囲気が急に変わった。違う人みてぇになった。
今までの頼れる兄貴は全部吹っ飛んで、隠していた牙を向いたような、そんな獰猛で、怖ぇ、顔。ギロっと俺をにらみつける目に奥歯がガタガタ鳴る。
この人は、タイの兄貴、なの、か?
「てめぇ、なんのことだ」
兄貴の声が1オクターブくらい低くなった。すげぇ深い場所から響いてくるような、そんな凍ったみてぇな声。俺の声は途端に小さくしぼむ。
「イッ……いえ、なんでもない……ッス」
「なんでもねえことねぇだろコラ」
兄貴がドカッと俺の後ろにあった室外機を蹴り、重い室外機がダタタッと小刻みに揺れる。兄貴はそのまま揺れる室外機にゆっくり左足をかけて、大柄な体を折り曲げて俺の鼻にゆっくり息を吹きかける。それから俺の両肩にどっしりと手をかけて至近距離で目をあわせる。
縮みあがるほど、怖ぇ。
「てめぇ、なんか知ってんのか、あぁ?」
「知りませんッ! なっ、ななななんなんですか?」
タイの兄貴はそのまま10秒くらい、俺の顔をじっとにらみ据えたあと、不意にフッと口の端っこだけ笑った。
兄貴の手はずしりと重いままで、ギリギリと肩を締め付ける。やべぇ、背中に流れる汗が止まんねぇ。
「誰にも、いうなよ? マサは組織の帳簿の一部を持って消えたんだ、だからジンさんはその帳簿を探してる、お前、ありかは知らないよな?」
「しっ、しし知りませんッ! 俺、下っ端なんでッ!」
何のことだ? 帳簿? なんだそりゃ?
なんでマサヒコさんが? なんで?
タイの兄貴は俺の目をじっとにらみつけてる。怖ぇ。怖すぎる。
「そうだよな? お前は下っ端だ。だから上がやってることはわかんねぇ。マサヒコはお前にはいい奴だったかもしれんが、それだけじゃねぇこともあるんだ、だから、マサヒコの話はこれで終わりだ、いいな」
タイの兄貴は最後に俺をギッとにらみつけてから肩から手を離した。
なんなんだ? マサヒコさんの話はしちゃダメなのか?
まるで本当にマサヒコさんがいなくなったみてぇ、いや、あのアイちゃんが殺したんだよな? 本当に?
マサヒコさんは本当にいなくなっちまったのか? 本当はまだ行方不明なだけじゃねぇのか。
混乱した俺を残して兄貴は歩き出す。
聞くのも……だめなのか?
マサヒコさん……。
◇
俺はまた待ち伏せした。
その日の夕方、新谷坂の長い坂の下で傘をさしながら。
なんか、シャワーみたいなぬるい雨だな。なんとなく、マサヒコさんを思い出す。
しばらく待っていると、トーヤのガキが金髪の背の高めの女と一緒に坂を降りてきた。
「おい、またちょっと話がある。……そっちの女はアイちゃんか?」
「そうです。何かご用でしょうか?」
ご用? にこにこしてて得体がしれねぇ。
「聞きたいことがある。またツラかしちゃくんねえか」
「いいですよ」
すぐ近くのスポーツジムに喫茶店がある。そこに入った。
「今日はカラオケじゃなくていいんですか?」
「……ああ。マサヒコさんは帳簿をもってたか?」
「帳簿、ですか? うーん」
アイちゃんは額に手を当てて思い出すような仕草をする。なんだこいつ、前はロボットみたいだったのになんか変だな。
「ああ、ありました。これですね」
アイちゃんは俺の前で手を握って開くと、USBメモリが現れた。どっからだした?
「これ、どうやって見るんだ?」
「パソコンとかパッドに入れたら見られますけど、パスワードがかかっています。内容が知りたいのでしたら、概略はお伝えできますが」
「……知りてぇ」
アイちゃんが話したことはよくわかんねぇけど、組が手に入れた金と使った金の話だった。何千万とか、信じらんねぇ金額だった。
「これに……マサヒコさんが関係してるっつうのか」
「はい」
「なんでわかんだよ?」
アイちゃんは顎に手を当てて、うーん、と少し考えるそぶりをした。
「私にはマサヒコさんの記憶があります」
「はぁ?」
「私はマサヒコさんを吸収しましたので、亡くなった時点までの記録を取得しています」
「はぁ?」
「そうですね……『おいタツ、俺は外回りしてくるから帰ったら鍵閉めて帰ってろ』……これがあなたとの最後の会話ですよね」
マサ……ヒコさん?
あたりを見回してもマサヒコさんはいない。目の前のアイちゃんから聞こえた気がした。なんで? アイちゃんはマサヒコさんなのか? いや、なんか違う。マサヒコさんはもっとこう。
「あの、こんなふうにマサヒコさんの記憶があります。マサヒコさんはマールムという組織と組んであなたの組織ものを横流ししていました。それがこの間のジンさんという人にバレたから逃げることにしたんです」
「マサヒコさんはそんな人じゃねぇ」
思わず怒鳴る。
そんな人じゃねぇ、絶対に。
マサヒコさんはいい人だ。
「ええと、タツさん? 大声出すと目立ちますよ」
トーヤのガキの声に周りを見渡すと、ザワザワとみんなこっちをみていた。
「わっ、悪かった、思わず、すまない」
「おそらくですが、あなたの認識しているマサヒコさんと実際のマサヒコさんの人格にズレがあります」
「なんだって?」
「知りたいのでしたらお見せできますが」
俺のニンシキ? 実際と違う?
どういうことだ? わかんねぇ。
「そうですね、東矢、携帯を貸して?」
アイちゃんはガキの出した携帯を手で包む。よく見ればメモリを挿すとこに溶けたアイちゃんの指が刺さっている。気持ち悪ぃ。やっぱ人間じゃねぇな。
ザッ ザザッー
携帯の画面がゆれてぼんやりとどこかの部屋が映し出される。
事務所の休憩室のようだ。
「ああっ使えねー、なんであんな使えねぇんだよ、ブツ届けるくらいまともにやれってんだよな?」
「そう怒んな、マサ」
画面の正面にタイの兄貴が現れて椅子に座る。
画面は机の上のコーヒー、タイの兄貴、入口の扉とゆらゆら動いて少し気持ち悪ぃ。
「ったく冗談じゃねぇよ、誰が拾ってやったと思ってんだよ」
この声はマサヒコさんだ。でもマサヒコさんか? マサヒコさんのこんなイライラしてる声は聞いたことがねぇ。
画面の前の机が跳ね上がってコーヒーが盛大に床にこぼれる。
「最初はそんなもんだわ、そのうち使えるようになんだろ」
「いいやッ! あいつは無理だな、せいぜい捨て駒くらいだろ」
ステゴマ……?
「そんなに面倒なら俺が受け持つよ?」
チッ という舌打ちがきこえる。
画面にタバコを持つ手が現れる。この指輪はマサヒコさんのだ。
「るせぇ、今しつけてんだよ」
「お前、ほんとに外面と中身が違うよな」
タイの兄貴もタバコに火をつける。
「ところでマサ、最近裏でヤバいことやってると聞いたが、ジンさん通してんのか?」
「……スパイかよ?」
タイの兄貴の目線がスッと険しくなる。
「まじか。俺はかばわねえぞ」
「ぅるせぇ」
ザザッー
映像が途切れる。
「この後、マサヒコさんは悪事を全部タイゾウさんと今朝の長崎さんのせいにして、この証拠の帳簿をもって逃げました」
ちょっと待て。
そんな、そんな、嘘だろ? 嘘だよ。嘘って言ってくれよ。
今の、なんだ。信じられねぇよ。
今の、マサヒコさんなのか? あんなマサヒコさん、見たことねぇ。
嘘だろ? 嘘って言ってくれよ。
「嘘だよ……。ギゾウとかいうやつだろ?」
「必要でしたら、あなたに直接記憶を渡すこともできますが」
「直接?」
「はい、あなたの脳に」
「アイさんちょっとそれは」
トーヤのガキがアイちゃんを止める。なんかやばいやつなのか?
「ここ半月程度の視覚と聴覚のみであればそれほど負担はありません。どうしますか?」
こいつら、何言ってる?
「それがあれば、マサヒコさんのことがわかるのか?」
「ええ、あなたが最後にマサヒコさんに会った時から半月前までのマサヒコさんの記憶を渡します」
マサヒコさんの記憶……? それがあれば、マサヒコさんに何があったかわかるのか?
「えっとタツさん、他人の記憶を頭の中に入れるのは、かなり危険だと思う」
「なんでだ?」
「イメージだけど、自分の中に他人の記憶が混ざるのって、違和感がすごそう。それに、何かあったら取り返しがつかない」
「そうなんですか?」
「アイさんはたくさんの記憶を持ってるんだろうから一人くらい増えても大丈夫だと考えてるんだろうけど、普通は他の人の記憶なんて持ってないんだよ。少しの記憶だけでも、違和感はひどいと思う。自分が知らない行動を自分の記憶として認識するわけでしょ? 心に支障がでるかもしれない。でも……本当に知りたいなら、他に方法はないんだろうね」
違和感? 変な感じってことか?
俺はマサヒコさんのことが知りたい。
タイの兄貴にも誰も聞けない。アイちゃん以外に聞ける奴がいねぇ。
「……知りたい」
トーヤのガキが心配そうな顔でみているが、俺はマサヒコさんに何があったのか知りてぇ。
アイちゃんの手が俺の耳に伸びて、耳の穴から何かが入ってくる感触があった。
急に目の前が真っ暗になった。映画が始まる直前の映画館みたいだ、とおもったら、頭がガラッとゆれて割れるように痛んだ。
グッ ギアッ
痛み自体は一瞬で消えたが、頭がグワングワンしてなにか生暖かいものが手の甲にポタリと落ちた。殴られた時みてぇにのどの奥に血の味がする。俺の鼻血か? タタタと鼻から流れた血があごを伝う。
「大丈夫ですか?」
ガキがティッシュをさし出した。鼻に詰める。
「記憶はうつりましたか?」
キオク……そうだマサヒコさんの。
そう思った途端、ザワザワという音と一緒に急に知らない景色が俺の中で流れて、ひどい2日酔いをした時みたいに気持ち悪くなって、机に倒れこんだ。飛行機に乗った時みたいに耳がぼやぼやして気持ち悪くて、頭がキーンってする感じにも似てる。
「大丈夫ですか?」
ぐ、ぅ……、ものすごく、気持ち、悪ぃ。げろりそうだ。
頭の中がぐちゃぐちゃして破裂する。
「どこかで休んだ方いいんじゃないですか、顔色が真っ青ですよ」
「家に、帰る」
立ち上がろうとしたが、膝が言うこと聞かねぇ。
頭からすぅと何かがこぼれる感触。
見てる景色と頭の中がズレてやがる。
顎殴られた時みてぇにグラグラする。まじでやべぇ。
汗ばんだ脇の下にそっと手が差し込まれる。
「家まで送りますよ」
「お、おう、悪りぃ」
トーヤか。なんか、マサヒコさんみてぇだな。でも、へなへなだな。
頭の中で、大丈夫かよ、と飲みすぎた俺の背中をさするマサヒコさんの記憶が流れる。
グゥ、げろりそう、だめだ、まじで。気持ち悪ぃ。
「なるほど、難しいものですね。申し訳ないです」
反対側の脇にも腕が差し込まれて引き上げられる。
トーヤよりアイちゃんの手の方が柔らけぇが強引で力強ぇ。こっちはなんだかタイの兄貴っぽい。
結局部屋まで送ってもらった。
狭くて汚ねぇ6畳半のアパートだ。そういや、家に人を入れたのは初めてだな。
今日はもう無理だ、なんも考えらんねぇ。頭痛ぇ。