夜の息づかい(10)

文字数 2,033文字

 田堂の母は息子の口に指を入れて、下顎を持つと、こじ開ける。

その口に生肉を詰め込んだ。

息子は、げほげほとむせ返る。

それも構わずに、息子の口にテープを貼り付けて塞いだ。

くちゃくちゃと咀嚼音が聞こえる。

そして、一つ、ごくりと飲み込んだ。

再び、咀嚼音が聞こえる。

また一つ、ごくりと飲み込んだ。

少しずつ飲み込んでいく。

「偉いねー。これで私達は助かるよー」

田堂の母は息子さん頭を撫でている。

その田堂の母は頬を上げて笑みを浮かべているが、目が笑っていなかった。

皆は顔を引き攣らせて見ている。

その時だった。

レストランの出入り口の扉をノックする音が聞こえた。

「ここを開けてくれないか?」

男性の声だった。

皆はびくっと固まる。

「遂に、悪魔の手がここまで来ました」

老婆が言う。

「話がしたい」

扉の向こうで男性が言う。

「人に化けた悪魔め。こうなっては、悪魔を人質にしましょう」

老婆は立ち上がり言った。

「この後、扉が開きます。そうしたら、掴みかかり、引き入れるのです。そして、ロープで縛りなさい」

老婆は言う。

それを聞いた客。

真っ先に老婦が立ち上がった。

続いて、田堂の母。

私の妻も徐に立ち上がる。

「いや、行く必要は無い。頼むから座っていてくれ」

私は妻に言う。

「ううん。このままだと、私達、皆、気が狂っちゃう。だから、早く何とかしないと」

妻は言う。

その表情は真剣だった。

「奥さんを一人では行かせません。私も一緒に行きます」

篠生が、妻の横に立つ。

私は、娘を郷珠に預けて立ち上がった。

郷珠と娘を除いた私達は、出入り口の扉へにじり寄る。

私達は扉の前で待ち伏せている。

その時、扉が僅かに開いた。

その隙間から人の目が見えた。

店内を覗き込んでいる。

私達を確認すると、更に扉を開けた。

「今だ!」

老婆が私達の背後から指示を出す。

私達は無我夢中で、その悪魔に飛びかかった。

悪魔の全身に掴みかかり、店内に引きずり込む。

悪魔は店内に入り、床へ倒れた。

がたいの良い男性の姿をした悪魔だった。

半袖のシャツから出る二の腕は太くたくましい。

悪魔は仰向けで両足を使って、抵抗する。

私達で制止させようとしても容易ではない。

悪魔は店内に逃げる。

悪魔は動揺している。

私達を見ながら、後ずさりする。

「話をしよう」

悪魔の問い掛けも、私達の耳からすぐに出ていった。

悪魔は何かにつまずくと、尻餅をついた。

それは老父の死体だった。

立ち上がろうと試みるも、老父の血液で足が滑る。

噴水前に着いた。

悪魔は噴水に背を預けるように立ち上がる。

田堂の母が包丁で斬りかかる。

悪魔はすかさず避ける。

それに続けて、篠生が椅子を両手で担ぎ、振るい落とす。

間一髪で、悪魔は避ける。

その椅子は噴水に当たり、噴水が一部欠けた。

その欠けた部分から水が漏れ出す。

水は床を濡らす。

逃げ場を失った悪魔は、机を倒して、通路を封鎖した。

私達は、我を忘れて、悪魔に攻撃した。

食器を投げ付けたり、家具を投げ付けたり。

通路を封鎖した机を境に、攻防が繰り返される。

悪魔は傷だらけになりながらも何とか防御をしていた。

しかし、田堂の母が投げた包丁が防御をすり抜けて、腹部を突いた。

悪魔の戦意が著しく下がる。

私達もそれに伴い、落ち着きを取り戻していく。

私達は机をどかして、悪魔へにじり寄る。

「お前達は何が望みだ」

悪魔は激痛に顔を歪ませながら言う。

「縛り付けよ」

老婆の指示に私達は従い、悪魔を拘束した。

「壁に立たせよ」

老婆の指示の通りに、私達は壁に立たせた。

腹部から血がどんどん溢れる。

その血は、ふくらはぎ、膝を通り、ズボンを染めていく。

靴の中に血が溜まると、溢れ出た。

溢れ出た血は床をぎらつかせる。

私達は席に戻る。

私達も、気が付かなかったが、小さな傷を負っていた。

妻の額にも小さな切り傷があった。

その切り傷を介抱しようと、妻の席へ向かおうとした。

しかし、篠生も妻の額の傷に気が付いた。

篠生は、妻に声を掛けて、妻の額の傷にタオルをあてがった。

私は妻の元へ行く事を止める。

娘を見た。

娘は、ひくひくと涙を堪えて郷珠にしがみついていた。

私は娘と郷珠の居る席へ向かう。

歩く度に、散乱した家具や食器の破片をざくざくと踏み歩く音が鳴る。

私は娘の目の前に着いた。

私を見た娘は涙を堪えている。

両腕を私に伸ばして、抱っこをせがむ。

私は娘を抱きしめる。

娘は鼻を啜り、声を殺して泣いていた。

郷珠は僅かに口を開いた。

「もう、娘さんから離れてはいけません」

その口調は、教え諭すように冷静だった。

泣いている娘に気が付いたのか、妻も駆け寄る。

妻も涙が滲んでいた。

二人の涙を見て、私はどうしたら良いのかと悩んだ。

人道的な理性が円満に解決を望む。

しかし、助かりたい気持ちが動物的な闘争で解決しようとする。

さっきもそうだ。

悪魔が抵抗しなければ、悪魔は刺される事は無かった。

こんなに店内も荒れる事は無かった。

こうしてまた、私は誰かのせいにする。

誰かを否定する他、私の行いを肯定する事が出来なかった。

無意識のうちに、精神を保とうとしていた。
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