ミコトバの乳(6)

文字数 1,257文字

 「その分厚い本に書いてあるのか?」
老父は訊ねる。

老婆は話を返さない。

「また無視か」

老父は、呆れた表情を見せる。

店内に沈黙した重苦しい空気が漂う。

篠生はギターケースを撫でている。

私は篠生に話しかけた。

「昼間、川瀬で演奏していませんでしたか?」

篠生は体をびくつかせて、私を見る。

「あ、驚かせてすみません」

私は明るく接する。

「あ、あ、い、いえ。全然大丈夫です。見られていたんですね」

篠生は、おどおどとして吃りが強い。

「ええ。たまたま通りかかって、心地良い曲でしたので家族で聞き入っていました」

「いや、そんな。恥ずかしいな」

篠生は頭を掻いて困惑している。

篠生の額には汗が滲む。

「ギターのプロの方ですか?」

「いえ、そんな。ただの趣味ですよ」

「趣味で、あんなに綺麗な曲を弾けるんですね」

篠生の頬が仄かに赤らむ。

篠生は徐にギターケースを開け、ギターを取り出した。

ギターは年季がある。

ボディーのコーティングが剥げて、模様もあせていた。

篠生はギターを太ももにのせる。

「私ではなく、このギターが良い音色を奏でてくれるんですよ」

篠生はギターのボディを優しく撫でる。

その表情は我が子を愛でているように温かい。

「もし出来るなら、演奏していただけませんか?」

私は切実な思いだった。

あの演奏を聞けば、皆の気分が明るくなるのではないかと思った。

「いや、聞かせる程ではないですよ。だって…」

篠生は言いかけて、言葉を詰まらせる。

「ほんの少しだけでいいんだ。どうかお願いします」

私は頭を下げる。

「わ、わ、わ、かりました。ちょっとだけ」

ぽんと弦を指で弾いた。

その音は、この沈黙の空気感に光が射したように染み渡る。

皆の視線が集まる。

老婆は怪訝そうな眼差しを送る。

篠生は体を萎縮させて、手を止める。

「や、やっぱり、やめませんか? 皆、怒っていますし」

篠生はおどおどとして言う。

「大丈夫。皆もあの曲を聞けば、気持ちが明るくなるはずだから」

「うう」

篠生は苦い顔で言葉を濁す。

ちらりちらりと客の皆の視線を気にしながら、チューニングをしていく。

チューニングを終えると、篠生は一呼吸置いた。

そして、左の手の指の腹で弦を押さえ、右手の指で弦を弾いた。

演奏は店内へ一気に広がり、重苦しい空気感を払拭させた。

川瀬で演奏していた曲だ。

篠生の体が小さく左右に揺れる。

旋律に心体を委ねているようだった。

演奏する前の自信の無い様子は全く見られない。

演奏の上手い下手は私には分からない。

ただ、ふんわりとした幸福感が体に染み渡るのを覚えた。

皆も、その旋律に聞き入っている。

疲労感や恐怖心に塞ぎ込んだ表情がほぐれていく。

妻は眉を下げて、どうする事も出来ない状況に悲しみを浮かべている。

涙袋にじんわりと涙が滲む。

集まった涙は涙袋の土手を超えると、ほろりと頬を伝う。

再び、涙が涙袋に少しずつ少しずつ集まっていく。

そして、また一つ、ほろりと涙が滴る。

老婆は篠生を睨み付け、口が何やらもごもごと動く。

その口の中から、カチッカチッと金属的な音が鳴る。

入れ歯を定位置に戻そうとしているように見える。
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