夜の息づかい(9)

文字数 1,631文字

 篠生との会話を終えた妻は篠生と同じ四人席に座っている。

篠生は妻の横顔を見ている。

その目線は首筋から胸元を通り、腰に向けられる。

違和感を覚えた私は席を立ち、妻と篠生の元へ行く。

「ギターを勝手に使ってしまった、すみません」

私はそう言って、篠生にギターを返した。

「いえ、こちらこそ、ありがとうございます」

篠生は言い、ギターを受け取った。

その声は以前のようにおどおどした声色が無い。

男性らしい太さすら感じる。

「素敵な奥さんですね」

篠生は言う。

にたっとした笑みが浮かぶ。

「そろそろ席に戻らないとじゃないか?」

私は妻に言う。

「そうね」

妻は立ち上がり、自らの席へ戻る。

篠生はその妻の後ろ姿を爪先から臀部へ目線を送っていた。

私は強い不快感に目を細めるも、篠生は気が付かない。

私も自らの席へ向かい歩いていく。

ふと気が付いた。

田堂の母が居ない。

何やら厨房から音がする。

私はその足で、厨房へ向かった。

厨房を覗くと、田堂の母が冷蔵庫を漁っていた。

田堂の母は私に気が付くと葉物野菜を咥えたまま振り向く。

口の周りは調味料のタレで、ぎとぎととしている。

私は異様な光景に体の動きが止まる。

「何をしているんですか?」

私は訊ねる。

「何って、食べているのよ。この先、食べれなくなるかもしれないのよ。いっぱい食べておかなくちゃ」

「待ってください。そうなら、皆で分けないと」

「ふざけないで! 私はあの子と助かりたいのよ」

田堂の方は生肉も素手で掴み、口に入れる。

くちゃくちゃとゴムを噛むように咀嚼している。

「それは食べちゃ危ないですよ」

私は田堂の母の手に持っている生肉を取り上げようと、掴みかかる。

田堂の母は獣のような目で、私を見る。

掴みかかる手を握ると、私の右手の人差し指を噛んだ。

「痛い!」

鋭い痛覚に思わず悲痛の声が出る。

私は人差し指を見る。

歯形に傷口が彫られて、血が滲む。

私は後ずさりして厨房を出る。

田堂の母は両手に沢山の食材を持ち、私に、にじりよる。

私の額に汗が滲む。

田堂の母も厨房から出ると、ぷいっと方向を変えて、息子の元へ戻った。

私は背筋に冷えた汗が流れる。

私は人差し指を抑えながら、席に戻った。

「ほら、食べようね」

「テープを剥がしてはならぬ!」

老婆は言う。

「食べたら、また、つければいいんでしょ!」

芯の通った野菜をそのまま口に入れる。

「ほら、しっかりと噛んでね」

息子は眉を下げて、上体を揺らす。

その目は何故だろうか、私に向けられている。

本当は田堂の母を制止させたい。

しかし、人差し指の痛みが、じんじんと追い詰める。

私の頭は、再び起きるかもしれない恐怖を想像してしまう。

私はその恐怖に腰を上げる事が出来ない。

「残さず食べるんだよ」

生肉も口に入れる。

「今ここで、食中毒になったら、何も処置ができませんよ」

篠生は突然立ち上がり、言う。

その篠生の表情は真剣そのものだった。

「そう言って、横取りする気ね。そうはさせないわ」

「そうじゃありません! 本当に大変な事になるんです」

篠生は田堂の母へ向かう。

緊張しているのだろう。

その両腕はぴんと伸び、両手は固く握り拳を作る。

「あげないわよ!」

篠生の母は、隠し持っていた包丁を持ち、先端を光らせる。

篠生はびくっと立ち止まる。

何度か立ち向かおうと上体を前に傾けるも、一歩が踏み出せない。

そして、篠生は何もせず、背を向けて、自らの席へ座った。

「ほら、食べようね」

田堂の母は再び、息子へ食材を食べさせようとする。

しかし、息子は口を閉じて拒んだ。

今も、息子の眼差しが私に向けられる。

「どうしたの? どうして食べないの」

田堂の母は口元に生肉を押し付けて、こじ開けようとする。

余りにも容赦の無い無理矢理に、田堂の息子が泣き出した。

大きな声で泣く。

その泣き声は全身で表し、店内全体を鳴らす。

「どうして泣くのよ! 私が悪い事をしているみたいじゃないの」

田堂の母は息子の目線より高い位置に顔を近づける。

そして、息子の上から見下して怒鳴り、叱る。

「早く黙らせなさい!」

老婆は言う。
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