ミコトバの乳(10)

文字数 1,008文字

 その一連の光景を老婆は横目で見ていた。

田堂の息子に水がかかった時、老婆は一瞬驚いた表情を浮かべた。

私は篠生へ駆け寄る。

「何て事をさせるんですか」

私は老父に怒声を与える。

「まさか、本当に水をかけるとは思っていなかったよ」

老父は言う。

ははっと薄笑いしながら話を続ける。

「でも、静かになれば、悪魔に見つからず、皆が生きていられる」

老父は答える。

私は奥歯を噛み締める。

口を開けば、喧嘩になる。

込み上がる怒りと不満を何度も飲み込んだ。

私は篠生の腰にそっと手を添える。

篠生の体は震えていた。

私は篠生を誘導して、元の席へ戻った。

田堂の母は息子をハンドタオルで拭いている。

けほけほ。

配達員の空咳が聞こえる。

「ねえねえ、お父さん、これ見て」

娘がひそひそと言ってきた。

娘の席は外が見える窓がある。

その窓にびっしりと結露している。

娘は人差し指でアニメのキャラクターの絵を描いていた。

「上手いね。そう言えば、今日の夜にそのアニメがあったね」

私は答える。

「うん」

娘はキャラクターの細部までこだわって描いていく。

私は不安感を悟られないように大きく笑みを作る。

「将来は絵描きさんかな?」

私は娘に訊ねる。

「うん!」

娘は絵を描きながら軽やかに答える。

絵を描く娘の眼差しがより真剣になる。

娘が指で、なぞった線は結露が無くなり、外の様子が窺える。

外の濃霧が陰り始めていた。

時計を見る。

もう夕方だった。

これがいつまで続くのか。

客の皆の表情に疲れが見える。

外が暗くなるにつれて、心細さというか虚無を感じる。

私はふと思い出した。

「携帯用ですが、ランタンを持っています」

私はカバンからランタンを取り出した。

「明かりは助かるわ」

田堂の母が言う。

「お婆さん、点けてもいい、ですか?」

私は恐る恐る老婆に聞く。

「明かりを見つけて悪魔が集まる。カーテンを閉めよ」

老婆は答える。

「今度はカーテンか。だとさ、篠生」

老父は言う。

「あんた、やり過ぎよ」

老婦が言う。

「あ? お前は黙って、わしの計画に従っていればいいんだよ」

老父の苛立ちに老婦は黙る。

篠生は立ち上がり、カーテンを閉め始める。

「篠生さん、従う必要は無いんですよ?」

私は言う。

「篠生がしたいんだよな?」

老父は煽り立てる。

篠生は動作を止める。

小さな間が空く。

「はい」

小さく呟くと、再びカーテンを閉めに回る。

それを見た私もカーテンを閉めに回る。

全てのカーテンが閉まった。

店内は一段と暗くなり、客の皆の表情が窺えなくなった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み