ミコトバの乳(8)

文字数 1,598文字

 「何言っているんですか」

配達員は小さく嘲笑して言う。

しかし、客の皆の表情は険しい。

客の皆の表情を見た配達員の表情は引き攣る。

「あの…、ロープなら持っています」

篠生がロープを手に持ち立ち上がった。

「縛りつけよ」

老婆が言う。

「何で持っているんだ? まあ、いいや、貰うぞ」

老父は篠生からロープをさっと奪う。

「私も手伝うわ」

田堂の母は意気込んで立ち上がる。

老父と田堂の母は配達員ににじり寄る。

「おい、嘘でしょ?」

配達員は慌てて出入り口へ走る。

途中で足がもつれ、腰を抜かした。

配達員は動けずに老父と田堂の母を見る。

その眼差しは怯えている。

老父は配達員の体を押さえ込み、田堂の母がロープを巻き付ける。

「私達は助かりたいのよ」

田堂の母は配達員を縛りながら言う。

「助かるも何も冗談やめてくださいよ」

配達員はそう言いながら両手で抵抗するも、老父が押さえる。

私はその光景を見て、無意識のうちに顔を逸らしていた。

妻も胸で娘を抱きしめて、顔を逸らしている。

田堂の息子は車椅子に乗ったまま、体を大きく左右に揺らしている。

配達員は拘束された。

腕や足は曲げる事も出来ない。

配達員は出入り口の扉の前で仰向けにされた。

老父と田堂の母は戻り、席に座る。

配達員は一人取り残されている。

篠生は突然、貧乏ゆすりを始める。

その貧乏ゆすりは大きく、体全身が震えている。

「ああ、ロープを渡さなければ。いつもそうだ。いつも余計な事をして、人を困らせるんだ」

篠生は両手を膝の上で広げる。

両手の掌を顔に向けて、その掌をじっと見つめる。

両手は大きく震えていた。

「怖い! 怖い!」

田堂の息子が車椅子に乗りながら、何度も叫ぶ。

その息子は体を大きく左右に揺さぶる。

その度に、車椅子から軋む音が聞こえる。

「うるさい!」

老婆は鬼の形相で睨みつけて言う。

「ご、ごめんなさい」

田堂の母は、息子を何とかなだめようとする。

「静かにしようねー、怖くないよー」

息子の声は止まない。

息子の鼻から、黄緑色の粘度の高い鼻水が流れ出る。

それを息子は、ずびびびと吸い上げる。

鼻水が喉へと流れ込んだのか、一瞬、顔色を青くして声が止む。

しかし、再び、息子は声を上げた。

「しー、だよ」

田堂の母は、人差し指を伸ばして、口元で縦にして見せた。

息子はそれを見て、今度は、しーしーと繰り返し言い始めた。

それも次第に穏やかになり、声も小さくなった。

「悪魔なんて居ないのかもしれませんよ?」

突然、老婦が言う。

老婦は老父の顔色を窺いながら、言葉をそっと発した。

「なーに言ってるんだお前。窓を見てみろよ、ああやって死んでいるだろ?」

老父は窓に寄りかかる死体を指差して言う。

すかさず、私は立ち上がる。

「いや、私もまだ信じられないです。もっと、悪魔以外の可能性も考えていくべきだと思います」

私は言う。

老婆は私を睨んでいるように感じる。

「じゃあ、何なんだよ。あの死体、動かないんだぞ。撮影なら動いてもいいよな」

老父は私に言う。

「それは」

私は言葉を詰まらせる。

「でも、もしかしたら、初めから、悪魔なんてものは居なくて、ただの濃霧なのかもしれませんよ?」

私の妻も座りながら言う。

妻の加勢に心が強くなるのを感じた。

「じゃあ、この先、どうするのか教えてくれ」

老父が鼻で笑い、訊ねた。

「あの方に外の様子を聞きます」

私は配達員へ顔を向けて言う。

配達員は、こほこほと咳を小さくしている。

客の皆が配達員に顔を向けた時、突然、老婆は立ち上がった。

「皆よ! よく聞くがよい」

老婆は私の話を阻止するように言い放った。

「あいつが店内に入り、霧が沢山入り込んだ。もう誰が霧に触れているかわからない。誰でも悪魔になりえる」

老婆のしわがれた言葉が妙に耳の奥に響き、印象付ける。

「じゃあ、どうしたらいいのよ」

田堂の母が聞く。

「そうだよ、どうしたらいいんだ?」

老父も賛同して訊ねる。

老婆は一呼吸置いて、口を開いた。

「一人一人の距離を空けなさい」
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