シナモンは人を選ぶ(9)

文字数 898文字

 「まあ、無事で良かったよ」

私はなるべく穏やかな口調で言い、場を和ませる。

慌てた気持ちを飲み込もうと早口になる。

娘は俯いている。

「もう、戻ろう?」

妻は娘に優しくに言う。

娘はこくんと首を縦に振る。

妻は厨房の蛇口をひねり、水を出す。

手招きして娘を呼ぶ。

妻は両手で娘を抱き上げると、厨房のシンクの隣に座らせる。

錆びでべっとりと汚れた娘の両手を流水で洗っていく。

「あのね、あそこから声がするの」

娘が人差し指で指して言う。

その指した先には排水口がある。

指した手が妻の手に掴まれて、流水へ誘われる。

「ねずみの声かな」

私は言う。

「違うの、人の声」

娘は答える。

「人の声?」

私は屈んで、排水口に耳を近づける。

確かに、ごにょごにょと雑談をする声のようにも聞こえる。

排水管に水が流れる音にも聞こえる。

「多分、水が流れていく音じゃないかな」

私は言う。

娘は何も言わずに、しゅんと目線を下げる。

「これで綺麗になった。皆の居る場所に戻ろうか」

妻は言う。

私は娘の付けている汚れたマスクを外した。

「もう一枚、マスクを貰わないとね」

私は言う。

私は娘を抱きかかえる。

私達は厨房から出た。

皆の居る場所に戻っていく。

途中、お手洗いの前を横切ると、何やら声が聞こえてきた。

その声は老夫婦だった。

お手洗いの扉の向こうからこそこそと聞こえてくる。

私達は思わず立ち止まった。

「どうしてシナモンティーを無料で渡しているんだ?」

老父が言う。

「せっかく沢山あるんだから、和んでもらおうとしただけじゃない」

老婦は答える。

「はは、今日は口答えするんだな。いいか? あいつらは、ゴイだ」

「ゴイ?」

「言わせるなよ、豚だ」

老婦は黙ったまま聞いている。

「シナモンティーもマスクもまだ有り余る程にある。でも、皆はその事を知らない」

「あなたはいつもそう、人を騙して楽しんで」

「黙ってろ。お前も助かりたいだろ? お前はわしの考えに、はいと言っていればいいんだ」

老婦は黙る。

「シナモンもマスクも悪魔には効果があるんだから、継続して欲しがる人が出るはずだ。残り僅かだから有料にすると言い、お金を取ろう。あいつらは家畜だ。上手く利用して、あいつらを盾にして、わしらは助かろう」
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