夜の息づかい(5)

文字数 745文字

耳で捉える音も異様だ。

私の耳の中で音が跳ね返る。

老婆のくちゃくちゃと入れ歯を動かす音。

田堂の息子の鼻を啜る音。

娘の話し声と相槌を打つ妻の声は、郷珠と言い争っているように騒がしい。

それらの音が耳元で鳴っているように聞こえる。

耳の奥では、ごーごーと重低音が一定の間隔で鳴っている。

その重低音は私の呼吸に合わせて鳴っている。

まるで、耳が肺呼吸しているようだった。

私は徐に立ち上がる。

よくわからないが、妻と娘と郷珠の喧嘩を止めなければ。

覚束ない足取りで一歩一歩と近づく。

踏み込む足の裏の感覚も変だ。

床がとても柔らかい。

まるでベットマットの上を歩いているようだった。

妻と娘に向かって歩いているはず。

しかし、遠近感を失った視界では、反対に遠ざかる。

踏み込む足の爪先が何かに当たった。

人の足のようだ。

「体調はどう?」

妻の声だ。

妻の足に当たったようだった。

視界では、遠くに居る妻が私を見ている。

「喧嘩は良くないよ」

私は言う。

どうしてだろうか、私の声が震える。

「え?」

妻はきょとんと答える。

私の焦点が定まらない。

「喧嘩は良くないよ」

私はロボットのように、同じ声色で言う。

自らの意思ではなく、脳が勝手言わせているように思えた。

これまで私は自由に脳を使ってきた。

しかし、今は脳が私を支配しているように思えた。

目が泳ぎ、蒼白の顔した私を心配する妻。

「喧嘩は良くないよ」

私は再び言うと、体を反転し、背後を向いた。

何も無かったかのように元の席へ戻り始める。

脳は、喧嘩を私が仲裁した。

もう大丈夫だと結論付ける。

そして、私に達成感のような高揚感を褒美として与える。

私は席に戻ると、倒れ込むように横になった。

私の隣に妻が駆け寄る。

妻は私に何か話しかけている。

しかし、私はとても眠くて、妻の話を理解する間もなく、夢見に落ちた。
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