ミコトバの乳(2)

文字数 1,889文字

 背後に居る老婆を見ようとちらりと振り返る。

老婆は私をじとっと見続けていた。

老婆の気味の悪さに、私の足取りは急かす。

妻と娘の元へ向かう。

妻は私を席から見ていた。

私を見た妻の表情は仄かに安堵する。

「すみません、どうでしたか?」

歩いている途中、右側の席の人が話しかけてきた。

その声は中性的で物腰の柔らかく優しかった。

私は立ち止まり、その人に顔を向ける。

そこには、一人の青年の男性が座っていた。

足を揃えて座り、両手を膝の上に乗せている。

その両手は、僅かに握り拳を作っている。

男性の隣には、ギターケースが置かれている。

私は、ふと、川瀬で演奏していた男性を思い出した。

白いシャツにジーンズ。

服装も同じだった。

あの男性に違いない。

「誰も居ませんでした」

「そうですか、ありがとうございます」

その青年は、小さく頭を下げてお礼を言う。

「いえ」

私は、さっと答えて、妻と娘の元へ急ぐ。

次の瞬間、店内の照明が点き、テレビから音声が流れ始めた。

眩くて強い刺激に思わず、目を閉じて、立ち止まる。

目を閉じると何も見えなくなった。

照明の明かりが、まぶたに当たり、ほんのり赤みに帯びた白色の視界を映す。

不安感からすぐに目を開けたい。

しかし、思うように開いてくれない、まぶたに不安が増していく。

逃げたいのか立ち向かいたいのか、私の鼓動が高鳴る。

その鼓動に合わせて、そわそわとして体の内側で何かが掻き立てる。

薄っすら目を開ける。

目が明かりに慣れると、まぶたが更に少し開くようになる。

光に慣れていきながら、まぶたを開いていく。

完全に照明の明かりに慣れ、視界がはっきりとする。

私は無意識のうちに、妻と娘の存在を確認していた。

妻と娘はテレビを見ていた。

気が付けば、客の皆はテレビに釘付けだった。

テレビに映る映像に私は驚愕した。

テレビには、青々とした山が映っている。

その山には霧が立ち込めて山の形が微かに見える程度だった。

カメラマンは、その山の麓から撮影しているようだ。

ガードレールが設置されている二車線道路から山を見上げるような映像。

その道路は一台も車は通っていない。

画面の左上には、『ライブ』と表示されている。

カメラマン荒い息づかいが映像に入り込む。

映像は山の斜面を通って下っていく。

そして、一人のアナウンサーにカメラが向けられた。

そのアナウンサーはカメラマンと同じ道路に居る。

アナウンサーは目尻を尖らせて、眉を下げて、呼吸が早い。

何かに畏れている事が容易に理解できた。

一つ大きく深呼吸してアナウンサーは平然を装う。

「ス、スタート!」

カメラマンは動揺を隠せぬまま早口で言う。

アナウンサーはマイクを口元に持っていく。

「ご覧ください! 突如として発生した霧の中で黒い何かが飛び交っています!」

そのアナウンサーから緊迫している事がわかる。

その中でもなるべく冷静な言葉を選んで、リポートしている。

カメラマンは映像を空に向けた。

濃霧に覆われた空。

その濃霧の中には、無数の黒い影が飛び交っている。

続いて、映像を左に動かして市街地を映した。

市街地が目下に広がっている。

その市街地は目を疑う光景が広がっていた。

高層ビルよりも背の高い黒い生物が闊歩していた。

映像はその黒い生物にクローズアップする。

その姿はこの世のものとは思えなかった。

手足が異様に長く、皮膚表面に骨が浮き出ている。

背には蝙蝠のような羽が生え、細長い尾がしなやかに動く。

肋骨も皮膚表面に浮き出ており、心臓付近が赤く点滅して光る。

長くて鋭い犬歯が二本見え、豚鼻がひくついている。

瞳は光を失い、真っ黒に塗り潰したようだった。

耳は尖り、周囲の音を細かく掴んでいる。

まるで想像上のドラキュラのようだった。

「も、もう逃げましょう」

カメラマンの震えた声がする。

映像が揺れる。

「もう少し、もう少しだけ!」

アナウンサーの表情は恐怖と勝ち気に入り乱れる。

カメラマンは手が震えているのだろう。

かたかたと、手とカメラがぶつかる雑音が止まらない。

次第に映像の中の景色が影に覆われていった。

細かく揺れ動く映像は真上を映した。

濃霧によって、姿は微かにしか見えない。

しかし、足の大きさから、山を遥かに超える巨大な生物だと理解できる。

足はすらりと長く、皮膚表面に骨が浮き出ている。

足元は犬のような骨格で、鋭い爪が剥き出しになっている。

その生物は四足歩行で闊歩する。

その足の動きは極めて遅い。

関節一つ一つの動きが、空に浮かぶ雲を見ているように遅かった。

しかし、一歩の歩幅は、ひと山を越える程だ。

一歩踏み込む度に地上を掘り返し、建物や木々が地上の土と混ざり合う。

その軌跡は、地ならしのように平面になっていた。
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