濃霧(7)

文字数 1,517文字

 「お母さん、お父さん、あれ見て! 綿菓子」

娘が空を見上げて好奇心のままに大声で言う。

私と妻も空を見上げる。

綿雲が一つ浮かんでいた。

「あ、本当だ。あれは、綿雲と言うんだよ」

私が答える。

その綿雲は少しずつ遠くへ運ばれていく。

「綿菓子食べたい!」

娘がくりくりした瞳で私の顔を見る。

私は屈んで、娘と同じ目線になる。

「帰りにスーパーマーケットに寄ろうか」

私は言う。

「やった!」

娘は浅く屈伸を繰り返して喜びを表している。

その娘を気にして、前列の老夫婦がこちらへ振り向いた。

その老夫婦は、娘を見て、ふふふとにこやかな表情を浮かべる。

「可愛いねえ、何歳?」

その老婦が妻に話かけてきた。

「あ、9歳です」

妻は気さくに返す。

「そうかい、綿菓子を食べたのはだいぶ前だな」

老父が言う。

「あのね、凄く美味しいんだよ! 食べてみてよ」

娘が元気良く、老父に言う。

「ほらほら、そういうことは言わないの」

妻は娘に言う。

娘は唇を尖らせて、頬を膨らませる。

「すみません、そそっかしくて」

妻が老夫婦に言う。

「いやいや、子供が元気なのは、見ていて、わしも楽しくなる」

老父は優しく口角を上げて言う。

老父の目は笑みを浮かべている。

「ありがとうございます」

私は、老父に言う。

 列は徐々に進み、老夫婦も店内へ入る。

いつの間にか、私達は列の先頭になっていた。

私は立ち上がり、店員に呼ばれるのを待つ。

ふと後ろを振り返ると、私達の後ろには十人程並んでいる。

周囲を見渡す。

駐車場は変わらず多くの車が駐まっている。

車に乗って帰る人もちらほら見える。

その動きのある駐車場を見ていると、一人の老婆が視界に入った。

私はその老婆に顔を向ける。

白髪混じりのごわごわした長髪で、そよ風になびくことがない。

僅かに腰が曲がり、顔は足元を向いている。

茶褐色に色褪せた白いワンピースを着ている。

襟は煤汚れ、袖は破れて、繊維がほつれ出ている。

くしゃくしゃでしわが目立ち、首回りは、よれている。

首元には、煌びやかな宝飾が光る。

目線を下げると、ぼろぼろのスニーカーをはいていた。

重たそうに足の裏をひきづりながら、一歩一歩と歩く。

その歩きに合わせて、宝飾が高貴を演じる。

両手でA3サイズ程のとても分厚い本を持ち、胸元で抱えている。

老婆は、レストランへ近づいてくる。

老婆の手足の皮膚はラップのように光を反射し、しみが複数見える。

血管が浮き出ている。

老婆は列の横を歩き、先頭の私達へ近づく。

浮浪者のような風貌に、列に並ぶ人々は怪訝そうな眼差しで見る。

老婆は私達の目の前に来ると立ち止まった。

腰を曲げ、顔も足元に向けたまま、何も言わない。

私達は異様な気味悪さに駆られる。

娘は妻のズボンをぎゅっと掴む。

私は眉間にしわが寄る。

老婆は黒目だけを動かして、私の顔をぎろっと見る。

私の背筋にぞぞっと恐怖が走り、鳥肌が立つ。

老婆の口は開いて、口呼吸をしている。

歯茎が細り、長くて黄色く汚れた歯が見える。

列に並ぶ人々は静まり返る。

「次のお客様、どうぞ」

レストランの出入り口が開き、店員が誘う。

「あ、ああ、はーい」

妻はその場から離れるように、店員に応える。

老婆は、娘をちらりと見て、私を再び見る。

「この先、あなたには、不吉なことが起きる」

老婆は、かすれた低く濁った声で呟いた。

私はそれに不快感と苛立ちが込み上がる。

しかし、この気持ちをどのように表現したら良いのかがわからない。

諭すべきなのか、怒鳴るべきなのか。

娘や妻の目がある。

人の目がある。

ここで反論しては、私は悪く見られるのではないか。

私はただ立ちすくむことでしか、気持ちを表すことができなかった。

私が立ちすくんでいると、老婆は歩き出す。

老婆は重く強張った体を動かして、店内へ入っていった。
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