濃霧(12)

文字数 705文字

 しかし、老父の声は、店内の行き交うどよめきに掻き消される。

その時、店内の照明が消え、テレビも映らなくなった。

薄暗くなった店内。

店内に混乱をきたした悲鳴が飛び交う。

「静かに」

老婆は分厚い本を胸に抱え、大きな声で一喝する。

一喝した老婆の体はぶるっと一度小さく震える。

老婆の目は見開き、にたっと笑みを浮かべている。

その目は天井の一点を見続けている。

どこか、水を得た魚のように生き生きと楽しんでいるように見えた。

「ここに居ることが悪魔にばれてしまう」

老婆は畳み掛けて言う。

客の誰もが置かれている状況を少しずつ理解する。

それに比例して店内は段々と静まる。

私の体が小刻みに震えている。

空調設備も停止したからだろうか、体が異様に冷える。

私は、妻と娘の座る席へ移動し、妻と娘を抱擁した。

妻も体を震わせていた。

娘は両腕を妻の背にまわして抱きついて離さない。

私達は、お互いの震えを共感する。

不思議と不安感が穏やかになっていく。

「怖いよ」

娘が妻の胸に顔を埋めたまま言う。

娘の小さな声が妻の肺に振動して、もごっと、こもって聞こえる。

私は娘の頭を撫でることしかできなかった。

私は優しく撫でながら考えていた。

悪魔というのが現実に居るのだろうか。

虚言なのではないか。

しかし、こうして今、濃霧の中で一人が亡くなった。

電気も断たれ、テレビから情報収集することもできない。

ふと、そろりそろりと厨房へにじり寄る店員の姿が視界に入った。

そして、さっと店員が厨房の中へ入る。

そうだ、スマートフォンで連絡は取れないのか?

私はスマートフォンを手に取る。

スマートフォンは圏外になっていた。

圏外ではどうすることもできない。

知り得る情報は老婆の言葉だけだった。
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