何もない

文字数 604文字

 おぼつかない手先でコードをひとつひとつと押さえては弾いていく。

この曲を川で初めて聴いた、あの時。

体が癒されていくのを感じた。

しかし、今はもう、この一夜の出来事を思い出させる、悪魔の旋律のように思える。

到底、癒しなんて感じられない。

時折、コードを押さえる力が弛み、音が淀む。

いたるところに血がこびり付き、死体が何体も横たわる店内では、淀んだ音で丁度良い。

繊細な音色は合わない。

ギターを演奏していれば、霧の中の悪魔は、私に気がつくだろう。

それでいい。

私は悪魔に殺される。

これで私は妻と娘に会える。

早く悪魔よ、来い。

自殺をためらった弱くて惨めな私を早く殺してくれ。

妻と娘に置いていかれるのだけは嫌なんだ。

独りはもう嫌なんだ。

ふと、妻と娘の笑顔が脳裏に浮かぶ。

しかし、それも束の間、その笑顔はじわじわと、絞殺した時の表情に変化する。

それを払い除けるように、弦を強く弾く。

歪んだ音が鳴り、弦は波打つ。

突然、レストランの出入り口の扉が静かに開いた。

来た!

心の中が期待で一杯になる。

まるで、映画を見始めたような好奇心と高揚感だ。

店内に霧が漏れ入る。

見る見るうちに、出入り口は真っ白な霧に満たされた。

演奏を間違えたら、悪魔がどこか行ってしまうのではないかという思考にかられる。

私の脳は明らかに根拠の無い試練をかせた。

間違えたら、妻と娘とあの世で会えない。

それは絶対避けなければならない。

私は、夢中で、ギターを演奏していく。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み