第3-6話 消え去る営みの残滓
文字数 1,997文字
シュスが砕いた『黒点 』の一部--僅かな刀身を残した柄が、偶然か必然かエルの前に転がった。エルの思考は混濁し、混ざり合った色彩が白濁し、何も思考出来ない頭で、涙を流しながらそれを握った。
ナナイが涙を拭い、「エル、逃げるよ」とエルの肩を急いで担ぎ起こすと、エルはその手を払い除けた。
「エル、何やってるの!早く」
「ダメだ」
「エル!?ジェロが前にアナタを逃せって!アナタが希望だって!そう言ったの!」
「ジェロがいる」
エルは焦点も定められない目をナナイに向けてから、森の方へと歩き出そうとした。それは思考ではなく、ただの反射的行動に過ぎず、音のする方に向かっただけのことで、飛んで火にいる夏の虫の如く、その後の行動計画は何もなかった。
しかし、そんなエルの足元がガタガタと振動し、地割れや隆起、陥没が至る所に顕現した。同時に思わず耳を抑えたくなるような竜の咆哮が耳朶を打った。
---
オルナが提唱した『竜術』--リュゼでいうところの『導術』--の体系にあっては、その系統を竜と対称して、
・生と死
・熱と寒
・剛と柔
・集と撥
・重と軽
・速と遅
・意思と本能
・過去と未来
と区分していた。
万物がそれぞれの属性を持っており、例えば、水と氷はほぼ同じ属性値であるものの、『熱と寒』が『寒』寄りで、『剛と柔』は『剛』に寄り、『集と撥』が『集』に寄っているのが氷となる。
竜術とは、それらの属性値を魔導力--リュゼにおいての『導力』--により、増加又は減少させることで、万物を変更させる術の総称である。その際、変化させた属性値は、自らの身体で引き受けることになるため、氷をつくるときに、体に接する空気に熱などの属性値を転嫁しなければ、体に熱がこもり、エルのように焼けるような熱さを引き受けることになってしまうのであった。
この区分の中でも、各人毎に得手不得手があり、ナナイやナーラは『熱と寒』を得意とし、ジェロは『生と死』の竜術を得意とした。
ジェロは自身の体の『生と死』のパラメータを魔導力で操り、一度超再生を持つ両生類に寄せて欠けた手を生んでから、腕から背に至る筋力を類人猿に、脚部を四つ脚の最速の哺乳類に近づける事で、オルナの想定を超える速度でオルナを殴りつけた。
殴り飛ばされたオルナも寸前のところで、肌を硬化させながら内部を柔化することで、ダメージは最小限に抑えていた。
それでも血を口に滲ませながら、勢いを殺して着地したオルナの元に、獣化したジェロが直ぐに殴りにやってくる。オルナは思わずニヤけた。
「そうでなければつまらん」
オルナは獣に近づけるという竜術の使い方を初めて見た。そして、それを真似した。この男は徹底して性格が捻じ曲がっており、相手を完全に屈服させる事を楽しむ癖があった。相手の得意とする戦闘方法で相手を超えることで、真の絶望を味あわせ、絶望に黒く染まった顔を見るのが何より好きなのだ。それに、身体強化如きであれば、こちらも身体強化していれば、致命傷にはならないという自信もあった。
二人が殴り合いになろうかというタイミングで、シュスの気配が消える。
「羽虫が一匹」と口に笑みを浮かべたオルナの前で、ジェロは予想外のことに一瞬気を取られた。シュスを死なすつもりはなかった。石で殴れば、刀身には触れず、導力は吸収されないはずであった。一千年の間に薄れていた記憶により若き命を摘んだ。ジェロはその責を噛み締めたのも一瞬、大国を率いて多くの死者を出してきた経験が刹那に戦闘に集中させて、オルナを殴り抜く。
まだ、一日の長のあるジェロの方が肉体の変化の完成度が高く、オルナは及ばなかった。しかし、それでも殴るすんでのところまで拳は届いており、しばらくもすれば、互角となることは間違いなかった。自分の導力の限界も近い。この数秒で勝負を決する。そう覚悟を改め、オルナへの追撃に向かう。
が、そのとき、懐かしき竜の咆哮が大気を振動させた。ジェロにとって、第二の誤算だった。竜の気が少しだけ膨張するのを感じ、『黒点』の影響が弱まったことを知った。例え刀身が欠けようとその効果は変わらない。それは自分が体験してきたことだった。しかし、竜ほどの導力となれば、人にとっては体感できないほどの誤差的な効力の低下でも、母数が大きければ、その効力低下の幅も大きくなるのではないか。
ジェロはそう推論し、竜とオルナの天秤で逡巡した。それが更なる過ちを生み出した。
竜はその口から竜炎 を吐き出したのだ。ジェロが迷わず、シュスに折らせた柄をもう一度黒刻竜に差し込めば防げたかもしれなかった。
竜炎を受けて、フーとルハナが門番を勤めていたフランガナダル山脈を前方に添えた小さな城下町『グリーンモール』は、その古風な街並みも、その営みも、そこに住む人々の命さえも、ほんの一瞬で消失してしまった。
そして、何もわからぬままに、魂だけとなった人々を、竜はその大口 で喰らった。
ナナイが涙を拭い、「エル、逃げるよ」とエルの肩を急いで担ぎ起こすと、エルはその手を払い除けた。
「エル、何やってるの!早く」
「ダメだ」
「エル!?ジェロが前にアナタを逃せって!アナタが希望だって!そう言ったの!」
「ジェロがいる」
エルは焦点も定められない目をナナイに向けてから、森の方へと歩き出そうとした。それは思考ではなく、ただの反射的行動に過ぎず、音のする方に向かっただけのことで、飛んで火にいる夏の虫の如く、その後の行動計画は何もなかった。
しかし、そんなエルの足元がガタガタと振動し、地割れや隆起、陥没が至る所に顕現した。同時に思わず耳を抑えたくなるような竜の咆哮が耳朶を打った。
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オルナが提唱した『竜術』--リュゼでいうところの『導術』--の体系にあっては、その系統を竜と対称して、
・生と死
・熱と寒
・剛と柔
・集と撥
・重と軽
・速と遅
・意思と本能
・過去と未来
と区分していた。
万物がそれぞれの属性を持っており、例えば、水と氷はほぼ同じ属性値であるものの、『熱と寒』が『寒』寄りで、『剛と柔』は『剛』に寄り、『集と撥』が『集』に寄っているのが氷となる。
竜術とは、それらの属性値を魔導力--リュゼにおいての『導力』--により、増加又は減少させることで、万物を変更させる術の総称である。その際、変化させた属性値は、自らの身体で引き受けることになるため、氷をつくるときに、体に接する空気に熱などの属性値を転嫁しなければ、体に熱がこもり、エルのように焼けるような熱さを引き受けることになってしまうのであった。
この区分の中でも、各人毎に得手不得手があり、ナナイやナーラは『熱と寒』を得意とし、ジェロは『生と死』の竜術を得意とした。
ジェロは自身の体の『生と死』のパラメータを魔導力で操り、一度超再生を持つ両生類に寄せて欠けた手を生んでから、腕から背に至る筋力を類人猿に、脚部を四つ脚の最速の哺乳類に近づける事で、オルナの想定を超える速度でオルナを殴りつけた。
殴り飛ばされたオルナも寸前のところで、肌を硬化させながら内部を柔化することで、ダメージは最小限に抑えていた。
それでも血を口に滲ませながら、勢いを殺して着地したオルナの元に、獣化したジェロが直ぐに殴りにやってくる。オルナは思わずニヤけた。
「そうでなければつまらん」
オルナは獣に近づけるという竜術の使い方を初めて見た。そして、それを真似した。この男は徹底して性格が捻じ曲がっており、相手を完全に屈服させる事を楽しむ癖があった。相手の得意とする戦闘方法で相手を超えることで、真の絶望を味あわせ、絶望に黒く染まった顔を見るのが何より好きなのだ。それに、身体強化如きであれば、こちらも身体強化していれば、致命傷にはならないという自信もあった。
二人が殴り合いになろうかというタイミングで、シュスの気配が消える。
「羽虫が一匹」と口に笑みを浮かべたオルナの前で、ジェロは予想外のことに一瞬気を取られた。シュスを死なすつもりはなかった。石で殴れば、刀身には触れず、導力は吸収されないはずであった。一千年の間に薄れていた記憶により若き命を摘んだ。ジェロはその責を噛み締めたのも一瞬、大国を率いて多くの死者を出してきた経験が刹那に戦闘に集中させて、オルナを殴り抜く。
まだ、一日の長のあるジェロの方が肉体の変化の完成度が高く、オルナは及ばなかった。しかし、それでも殴るすんでのところまで拳は届いており、しばらくもすれば、互角となることは間違いなかった。自分の導力の限界も近い。この数秒で勝負を決する。そう覚悟を改め、オルナへの追撃に向かう。
が、そのとき、懐かしき竜の咆哮が大気を振動させた。ジェロにとって、第二の誤算だった。竜の気が少しだけ膨張するのを感じ、『黒点』の影響が弱まったことを知った。例え刀身が欠けようとその効果は変わらない。それは自分が体験してきたことだった。しかし、竜ほどの導力となれば、人にとっては体感できないほどの誤差的な効力の低下でも、母数が大きければ、その効力低下の幅も大きくなるのではないか。
ジェロはそう推論し、竜とオルナの天秤で逡巡した。それが更なる過ちを生み出した。
竜はその口から
竜炎を受けて、フーとルハナが門番を勤めていたフランガナダル山脈を前方に添えた小さな城下町『グリーンモール』は、その古風な街並みも、その営みも、そこに住む人々の命さえも、ほんの一瞬で消失してしまった。
そして、何もわからぬままに、魂だけとなった人々を、竜はその