第2-9話 国の実情

文字数 1,808文字

道に洗濯物と思しき、であるにも拘らず汚れているシャツを見つけ、エルとユーハは固まる。しかしそれも一瞬のことで、すぐさま洗濯物ではないかと推論付けた二人はほぼ同時に頭上を見た。

案の定、石造りの四階建ての集合住宅の頂上階からは、小さな童が覗いていた。窓から上半身の乗り出して路上を見ていたのは、齢四五歳と思しき、髪や顔のベタついた感じから不潔な印象を受ける幼児だった。

エルは、何か怪しいと訝しむユーハの反対を押し切り、落ちていた汚くなった洗濯物を届けることにした。建物で待ち伏せがいるかもしれないと考えたユーハは、剣を抜いてからユーハの猜疑心に不満を覚えるエルを先導した。

目的の部屋の前に着き、剣でノックする。剣を構えて数歩下がって待つユーハの前で、ゆっくりドアが開かれて、例の童が出てきた。

その瞬間、咽せ返るほどの強烈な異臭が鼻を突いた。生ゴミが腐り、様々なものが不潔な発酵をしているような、どうしようもない臭いだった。ユーハとエルは、思わず鼻を覆う。ユーハは、安全を確認しながら室内を窺い、その部屋の惨状を把握して、ボソリと独白した。

「育児放棄か」
「いくじほうき?」

部屋の中は酒瓶などのゴミだらけで、掃除された痕跡もなく、童は痩せ細っている。部屋の奥には、この国では一般的な、死者を忘れぬために飾る死者の似顔絵を描いたタペストリーが飾られていた。描かれていたのは、恐らくこの童の母であろう若い女性の笑顔だった。

童は二人に物乞いの手を出して、「あっ、あっ」と言葉にならない呼びかけをして、エルが抱えるパンを欲しそうに見つめた。

「これが欲しいの?」
「あっ、あっ」

エルの呼びかけに童は頷く。それを見て、ユーハは「しゃべれないのか」と童に問うたが、童は「うっ、あっ」と言うだけで答えなかった。エルは聞く。

「どれくらい欲しいの?」
「うっ、あっ」

エルの質問が分からないのか、童は先ほどの動作を続けた。ユーハは憐れみの目を向けながら、エルに諭す。

「この子は、親が育児を放棄してしまったために、喋れないのです。恐らくは私たちの話す言葉も一部しか分かっていない」
「育児放棄って?」
「子供の教育や世話をしないことです。毎日ご飯を作ってあげて、色んなことを話して、お風呂に入れて、寝かせてあげる。それは普通のことにも思えるが、難しいことでもある。二人分の面倒を見るのは大変なことだし、他人との共同生活が合わない人間は一定おりますから。特に男というのはそういう()が強い。この子の母親はもう死んでいて、父親は酒浸り。家に寄り付かんのでしょう」

ユーハは童の行動の意味を理解し、更に同情した顔を見せた。

「それ故に、この子はこんな稚拙な方法で、乞食して、食べ物を恵んでもらっている。生きるために、必死で編み出した食事にありつくための技なのでしょう」

エルはユーハの言葉を聞いて、真剣な顔をした。そして、童と顔の高さを合わせるように跪く。

「このパン、全部あげる」
「あうあ、あっ」
「それと、もしお腹が減ったら、お城に来て。『エルに会いに来た』って言うんだ」
「えう?」
「うん、『エルに会いに来た』。そしたら、一緒にいっぱいご飯を食べようよ。だからほら、今から練習だ!」

そう言ってエルと童は、何度も何度も練習した。童も人に構ってもらえたのが嬉しいのか、楽しみながら練習をして、不明瞭ではあるものの、それなりに何度か聞けば分かるくらいには言えるようになった。

二人の様子を見守り、ユーハは人知れず子供の成長に感動していた。この発達状況では言葉など覚えられないと思っていた。幼少期というのは栄養が不足するとその分発育に強く悪い影響が出やすい。だから、覚えられないと思ったが、童は言えるようになった。

そしてなにより、エルがこういったこの国の落とす影を見ぬふりをせずに向き合い、更には救おうとする姿勢に強く心を動かされていた。

この国にあっては、こういった貧しい者は、決して少なくはない。特にこの地域はいわゆるスラムにあたり、市街地の中でも貧しい者が多く住む地域で、社会からあぶれた者が多くいた。現王もオルナも、こういった者達には無関心だった。特に興味もないからそのままにしている。故に貧者が貧者を生み、貧者が貧者から抜け出すこともない。それがこの国の現状だった。社会が固定化し、新陳代謝の鈍くなった活力の失われた社会。

ユーハは内心、エルが雲間に差し込む光に思えていた。
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